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しおりを挟むフィリが加わってからの生活は、リンとフィンの二人きりのときよりも賑やかに、しかし穏やかに過ぎていく。
出会った頃の痛々しい敵意も今はすっかりなくなった。フィリは感情の起伏が大きい訳ではないし、まだ二人に対して遠慮がちな距離感があるけれど、その表情は心做しか和やかに見える。
昨夜の残りのスープを温め、ちょうどリンが火を止めたところで呼びに行く前に、カーディガンを羽織ったフィリが玄関からひょこりと戻ってきた。
「薪の準備が終わったぞ」
「もう!?」
起きて外に出てから一時間も経ってないのに。
驚いたリンが外を見れば、長さが均等に揃った薪が整然と積まれていた。
リンの身長ほど積まれているので、これだけあれば余裕で冬を越すことが出来るだろう。
「すごい……短時間でこんなに大量に……」
「魔法を使えば朝飯前だ。それにちゃんと乾燥させてある」
「そこまで終わってるの? 魔法って本当にすごいのね」
開いた口が塞がらないまま、リンは感嘆の息を漏らした。
ハッと我に返り、パタパタと小さな羽で飛ぶフィリに向き直って「ありがとう」と感謝を伝えた。
「でも、一人でこれだけ準備したんだから疲れたでしょ? 今日はもう家の中でのんびりしてね」
「言っただろ。魔法を使えばあっという間だ。大した作業でもない」
「でも、魔法のほうが楽だからってあなたにばっかりなんでもやってもらうのは悪いわ。私たちは同じ家に住む家族だもの。家族は支え合って助け合うものよ」
だから、私に出来ることは私に任せなさい。
リンはふんぞり返るように胸を張った。
「薪割りだって、昔からやってるから結構上手いんだからね?」
腕をまくったリンは、そう言って力こぶを作るように腕を掲げる。その細腕には傷跡がいくつもあり、それを認めたフィリは目を眇めた。
「……フィンは幸せ者だな。お前が姉で」
「え? やだ、急にどうしたのそんなこと言って」
照れてしどろもどろになるリンとは打って変わり、フィリは平然とした様子で紡ぐ。
「断言できる。フィンはきっとこの世界で一番恵まれた魔法使いだ」
羨望や憧憬、そしてほんの少しの妬みに近いような暗い感情――複雑な声音で吐き出された言葉に、リンは胸を衝かれた。
この程度のことで幸せだと思われるような魔法使いの辛い立場に切なくなり、そしてその切なさを追いかけるようにじわじわと泣きたくなるような温かさが広がっていく。
フィリは、フィンが幸せだと言った。恵まれていると。それは、私が姉であるからなのだと。
――こんなの当たり前なことよ!
そう笑い飛ばそうと思ったけれど、リンは出来なかった。口を開いただけで泣き出してしまう予感がしたからだ。
ずっとリンの胸には不安がつきまとっていた。
人知の及ばぬ強大な力を使う魔法使い。――その弟を、ほかの人間と変わらないように接していいのだろうか。
村を出ることになったあの日――初めて魔法で人を傷つける姿を目にした日から、ずっと魔法に対する恐怖がこびりついていた。それでも、たった一人の弟を突き放すなんてことは出来ず、かといってまた誰かを傷つけてしまったらどうしようと怯えていた。
自分は正しいことをしているのか。そう不安になって夜な夜な星に向かって母へ祈ったこともある。
(間違ってなかった……!)
例え魔法が使えようがそうでなかろうが、心のままにフィンを愛し慈しんできたのは間違いじゃなかった。
「リン? どうした?」
窺うような声に、俯いていた顔を上げる。ふよふよと浮くフィリは、困惑した様子でリンを見ていた。長い首を傾げたフィリの顔を撫でて、リンは思わず抱きしめた。
「……ありがとう、フィリ」
弱ったリンの声はひどく細く、フィリまではっきりと届かなかった。フィリが「え?」と訊き返したところで、リンはニッコリと笑うだけだ。
ニコニコのリンを前に、フィリはそれ以上訊き返せず、所在なさげな雰囲気で戸惑っていた。
「そうだ。ちょうどスープを温め終わったところだったの! お腹すいたでしょ? 朝ごはんにしましょう」
フィンを起こして顔を洗わせてくれる?
お願いすると、フィリはこくりと頷いて寝室の方にふよふよと飛んで行った。
初めてお願いしたときは、フィンを起こすのでさえ戸惑ってあたふたしていたのが嘘みたいだ。
この家で半月を共にするうちに、フィリはすっかりこの朝のルーティンに慣れたみたいで、リンは思わずニッコリした。
朝食を終えると、リンは街に向かう準備をした。
「そろそろ雪が降るだろうから食料を多めに買ってくる。いつもより少し遅れると思うから、昼食は二人で先に食べちゃってね」
普段通りマントを羽織りながら言うと、フィンは淋しいのか少し不満そうにしつつも頷いた。
その隣でふわふわと飛んでいたフィリが、不意に「俺も行く」とぽつりと言う。
「魔法があればお前が重たい荷物を持たなくてもすむだろ」
「そんなこと気にしなくていいのよ。それに、いつもフィンを一人で残していくのが心配だったの。むしろ残ってくれると嬉しいわ」
「ね?」と首を傾げてお願いすれば、フィリは迷いつつも渋々とばかりに頷いた。
玄関先でフードを被って屈むと、それを合図にフィンが駆けよってリンの首に抱きつく。
「行ってくるね、フィン」
「うん。お姉ちゃん、気をつけてね」
リンは離れ際にそっと弟の頬にキスをして立ち上がった。すると、二人のやり取りに驚いたようにきょとりと瞬くフィリが目にとまった。
(そういえばフィリが来てからは出かけるのは初めてだっけ……)
「フィリも。行ってきます」
フィンにしたように、そっとドラゴンの小さな鼻先にキスをした。すると、ぶわりと羽根が逆立つように広がって硬直したフィリは、そのまま地面に落ちそうになって慌てて体勢を整える。
「な、なにを……!?」
「ふふ。言ったでしょ。同じ家で暮らすんだから家族だって。家族はこうして挨拶するのよ」
あんまりな動揺っぷりに、リンはクスクス笑いながら手を振って家を出た。
「これぐらいあれば大丈夫かな……」
薪の準備はしてあるし、収穫した野菜は乾燥させて家に蓄えがある。
さすがに獣を狩ることは出来ないから街では干し肉を多めに買った。
(うん。ひとまず大丈夫そう)
オグウェスは北部のように雪で数ヶ月行き来が滞るような場所でもない。雪が降っても一週間も経てば余裕で外に出られるようになる。
路地の隅で籠の中を一つ一つ確認しながら、リンは「よし」と意気込む。顔を上げたところで、ふと近くにあった果物店が目についた。
「オレンジ……」
雪が降ると家にこもることになるし、食事も似たようなものになりがちだ。フィンの気分転換にも好きな物を買っていってあげよう。
店先で順番を待っている途中、リンはふと思う。
「フィリにもなにが好きか訊けばよかった……」
フィリは食事はいつも残さず食べているが、好きな物は訊いたことがない。
(せっかくなら買って帰ってあげたかったのに……)
いつも魔法で家のことを手伝ってくれるし、フィリのおかげでフィンも随分魔法の扱いが上手くなった。
――フィンは幸せ者だな。お前が姉で。
耳の奥にあの低い囁きが返ってきて、ぽっとリンの頬が薔薇色に染まった。急に速くなった心臓を静めようと、深呼吸をしているときに不意に近くの客の声が耳に届いた。
「王都の騎士団が第二王子の行方を捜して国中駆け回ってるって本当なのか?」
「ああ。やっぱりあれがいないと魔法使いたちがなにしてくるか分からないからな。俺らだっておちおち寝ても居られないさ」
「今ごろ隣街に来てるはずだから、もうすぐグスウェルにも来るだろうな」
(王子さまに向かって「あれ」なんて失礼な人たち!)
それも全部彼が魔法使いだからなのだろう。そう思うとリンは密かに腹を立てた。
(それにしても、第二王子さまは今どこにいるのかしら)
無事にオレンジを受けとったリンは、そんなことを思った。
聞きかじった話では、魔法使いの彼をどうこうできる人などいないから、自分から出て行ったって話だったが……。
薄曇りの空を見上げ、リンは自然とため息が出た。今にも降り出しそうな天気のせいか、それとも冬空の下にいるであろう見たこともない王子のことを憂うからか、リンの心に気鬱がさす。
フィリは魔法使いは孤独だと言っていた。魔法使い同士だったとしてもなれ合わず、一人で生きていくのだと。
(それなら、お城を出た第二王子さまは今一人……?)
一人ぼっちの青年の姿が、フィンの未来を思わされて辛い。
「あっ」
街門に向かう途中、考え事をしていたリンはすれ違った男を避けきれずにぶつかった。よろけた拍子にフードが落ちてリンの長い茶髪がなびく。
「すみません……!」
振り返り際にリンをじっと見ていた相手の男と目が合い、慌ててフードを被り直して少し早足で門を出た。
(ああ、ビックリした……べつに姿を見られるぐらいは問題ないのに……)
そうそう知り合いになんて会わないはずだし、フードだって万が一の保険だ。けれど、いつだって顔を隠して外出していたから、慣れない状況に緊張してしまったらしい。心臓がドキドキしている。
「本当に雪が降りそうだし早く帰ろう……」
お昼の時間はとっくに過ぎてるのでお腹がすいた。日暮れには早いけれど、曇り空のせいか辺りは薄暗い。
雪を警戒してか、街道の人通りは普段よりも少ない。いやに気味の悪さを覚えたリンは、小走りで森に入ろうとしたところ――。
「え……きゃあ!」
急に背後から手を取られて強い力で引っ張られた。よろけて崩れ落ちたところ、仰ぎ見た先には街でぶつかった男が好色な笑みを浮かべていた。
「な、なんです急に!」
吠えたところで、男はニヤニヤと嗤うだけだ。そして腕を掴んだまま、座り込んだリンを引きずるように木の陰へと向かい始めた。
ぎょっとした足を踏ん張ってリンが腕を振り払おうとするが、どこに隠れていたのかもう一人の男がリンの腰を抱え上げたせいであっけなく足が浮いてしまう。
「おい、本当に金になりそうなのか?」
「ああ、さっきフードを下を見た。それなりに整った顔だったし、見るからに身寄りのねえ平民の女だ」
金になるって……まさか売られる!?
男たちの会話にリンの血の気が一気に引いた。
必死になって手足をジタバタさせると、不意をつかれた男の腕が緩んで地面に落ちた。尻餅ついた拍子にフードが取れて、真正面から男たちを見上げてしまうとゾクリと恐怖で足が震えた。
「ほお……たしかに悪くないな」
「だろ? どうせなら少し俺たちで楽しんでから売ったって罰は当たらねえんじゃねえか?」
「たしかにここには人も来ねえし……少しぐらいならいいか?」
ジトリと肌を撫でる男の眼差しに、リンの喉が痙攣するように震え始める。
「……っ!」
「あ! 待て!」
「逃げるともっと痛い目をみるぞ!?」
「きゃあ!」
背中を向けて逃げようとしたが、髪や襟元を掴まれて引き倒されそうになる。
強い力で引っ張られた痛みと恐怖で、無意識に涙が浮かぶ。
ガクガクと震える体を、リンは歯を食いしばって耐えた。
(ダメよ! 家ではフィンとフィリが待ってるんだから!)
手探りで地面に爪を立て、そのまま背後の男たちに砂を浴びせる。男の悲鳴とともに痛みがなくなり、リンはそのまま駆け出した。
チラリと背後を見ると、運良く顔にかかったのか男たちは目許を擦ってリンへ怒号を上げていた。
すぐに追いかけては来られない様子だったので、リンは頭にある地理を生かして木々を掻い潜って家まで一心不乱に走り続けた。
気づくと男たちの声も気配も消えていたが、それでも恐怖に急き立てられ、リンは枝や小石で傷ついた足を動かし続けた。
ようやく家が目についたとき。玄関先に出した椅子に座って待つフィンと、その膝上で寝そべるフィリを見た瞬間、森から出たリンは崩れ落ちるように地面に座り込んだ。
「あ、お姉ちゃ……どうしたの!?」
リンは髪を振り乱して走ったせいでボサボサだし、何度も地面に転けたせいで服は汚れていた。
男から逃げるときの力で破られたマントは、今は首にかろうじて引っかかっているようなものだ。
フィンたちは笑顔で迎えようとしたが、そんなリンの姿を目にすると血相を変えて転げるように駆け寄って抱きついてきた。
「お姉ちゃんどうしたの? なにがあったの?」
フィンは姉の姿に涙を浮かべて腹にぐりぐりと顔を押しつける。反射的にそれを宥めようとしたリンだったが――。
「誰にやられた!」
フィリの吠えるような怒声にビクリと肩が跳ねた。
顔を上げれば、羽根を羽ばたかせて浮かんだフィリは、リンの腕に残った人の爪と思しき引っ掻き傷に目を剥いていた。
怒りのせいでフィリの瞳は縦に瞳孔が開き、赤い瞳が普段よりもいっそう色を濃くして、血のように赤黒くなっていく。
リンでさえ思わず命の危機を感じたほどの怒気だった。それでも、次の瞬間にはフィリの姿に心底安堵してどっと涙が溢れ出た。
ボロボロと大粒の涙を零し始めたリンに、フィリの瞳から瞬きの間に怒りが消えて戸惑いが強くなる。
「リ、リン。お前に怒ったわけではない……俺はただお前をそんなふうにした者が許せなくて……」
途端におろおろしたフィリは、ゆっくり下りてきたと思えばさっきまでの地響きを覚えるような圧倒的な威圧感が消え、弱った顔でリンを見ていた。
「大丈夫だリン。俺がいるから誰もお前には手出しできない……もう怖いことはない」
だから泣き止んでくれ。
ドラゴンの目はちっとも潤んでいないのに、今にも泣きそうなほどに弱々しい声だった。
小さな鋭い爪の生えた手がピタリとリンの頬に触れた。慰めるのになれていないそのぎこちない優しさのせいで、じんわりと胸が解れ、リンの涙をいよいよ決壊して勢いを増した。
「お、おい!? どうした?」
「お姉ちゃん、大丈夫?」
困惑するフィリをリンはぎゅっと腕の中に囲った。もう一方ではフィンのことを強く抱きしめる。
両腕に二人の家族を抱えて、リンは母の前でさえしたことがないような大きな声で子どもみたいに泣いた。
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