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 ああ、なんであんなことしてしまったんだろう。
 絨毯に座り込み、ベッドに顔を埋めたまま朝を迎えたリシャーナは、涙の名残で濡れた顔を上げて思った。
 素直にパートナーは両親に任せるべきだった。建国祭のパートナーとはいっても、両親からすれば婚約を見据えた相手との顔合わせの予定だったはずだ。
 つまり、パートナーの申し出を断わったといういことは、持ちかけられた結婚話もリシャーナは拒否したと同義になる。
(なにやってるんだろ、私……あんなに衝動で行動しちゃって……)
 この世界に生まれ落ちて二十年近く。リシャーナはいつだって理性的で冷静であるように心がけてきた。貴族ならばそうでなくてはいけないと思っていたからだ。けれど、やっぱりリシャーナはちゃんとした貴族にはなれないらしい。
 何度も何度も思い知らされた事実が、いつもよりも重く、体にのしかかる。
(……研究室、行きたくないな)
 もうなにもかも投げ出したい気分だった。体を起こすのさえ億劫で仕方がない。
 泣きはらした瞼は重たく、すぐにでも眠りについてしまいたいほどだ。
 頭の隅に残った理性が、服を着替えなきゃ、お風呂に入らなきゃ、仕事にいかなきゃ……なんて、やらければならないことを羅列している。が、リシャーナの体はピクリとも動かない。
 首を捻って頬を柔らかな布団に押しつけ、ぼんやり部屋を眺めていた。少し逡巡の末、のろのろと再び布団に顔を突っ伏した。
(いいや……今日は休んじゃおう)
 研究者とは大雑把に就業時間が定められているが、守るかどうかは個人の采配に任されている。
 昼から出てきて夜までいる者もいるし、リシャーナのようにキッチリ朝から出て夕方に帰るものもいる。
 一応週末が休みと言われてはいるが、休日も個人で好きに取ることが出来る。
 つまり、リシャーナが今日休んだところで大した問題はないのだ。
 目を閉じた瞬間に微睡みが襲ってきた。それに身を任せようとふっと意識が浮いたところで、リシャーナはふと思った。
「……ユーリス」
 思わず呟いた名前に促されるように、リシャーナはパチリと目を開けた。
 ユーリスはよほどのことがない限り休むなんてないだろうから、今日も研究室にくるはずだ。
 真面目な彼のことだから、余裕を持って早く来ているはずだ。そうして主人のいない研究室で、彼は静かにリシャーナがくるのを待つのだろう。
 その姿を想像すると、重く地に伏していたリシャーナの心がコトリと動いた気がした。
 使用人を呼んで言伝してもらうことだって出来るのに、そうしようとは微塵も思わなかった。
 腕に力を入れてゆっくりと起き上がった。気だるげに首を回し、目を細くしてレースのカーテン越しに朝日を見て呟いた。
「行くか……」





 出来るだけ手早く身支度をすませ、リシャーナは寄宿を出た。
 目が覚めたのがいつもの起床時間よりも早かったのが幸いだった。
 部屋を出てくる前に入念にチェックしたので、目許に泣いた跡はなく、普段通りのリシャーナ・ハルゼラインであるはずだ。
 校舎へと向かう生徒に挨拶を返しながら、リシャーナは困っていた。
(勢いでパートナーを断わっちゃったけどどうしようかな……)
 シャワーを浴びて外の冷えた空気に晒されたおかげで、頭は随分晴れていた。スッキリした頭で思うのは、昨日出した手紙のことだ。
 王宮からの招待なので、まず行かないという選択肢はあり得ない。
 しかし、ああいった社交の場には必ず男女ペアで参加するのが通例である。
 両親からの申し出を断わってしまったので、リシャーナは自分でその相手役を探さねばならないのだ。
(パートナーをお願いできるような男の人なんて周りにいないしな……)
 親しい男性なんて、研究で付き合いのあるヘルサたちしかいない。仲の良い研究員はほとんどがヘルサのように既婚者で年が離れている。
 もちろん若輩者の付き添いとして年配者がパートナーを買って出ることはあるが、それは平民などの社交の場に慣れていない者の場合に限るだろう。
 リシャーナは貴族の家格の出であるし、二十を目前にしたこの年で付き添ってもらうのは逆に変に思われるだろう。
 出来れば年の近い者が好ましいのだが……。
(私が普段接するのなんてユーリスぐらいだしな)
 つらつらと考えながら研究棟につくと、ちょうど階段を上がったところで廊下の先にユーリスの背中を見た。
 つい時計を確認すると、やはり就業時刻よりも早い時間だ。
 思っていたとおりだな、と実感すると、口許が緩くなる。
 我知らず足の動きがかすかに速くなり、リシャーナはユーリスに続いて研究室に入った。
「おはよう、リシャーナ」
「おはようございます、ユーリス」
「本はあのあと無事に返却しておいたよ」
「ありがとうございます。昨日は急に早退してしまってすみませんでした」
 掘り返すのは気まずかったが、リシャーナの都合でユーリスを振り回したのは事実だ。
「いや、問題はなかったし大丈夫だ。それよりも昨日は……」
 ふとユーリスが言葉を探すように緑の瞳を揺らした。そう経たず、彼の口からは「大丈夫だったか?」とひどく抽象的な言葉が投げかけられた。
「……ええ、大丈夫でした」
 なにが、と明言することなく、ニコリと綺麗に笑みを作った。すると、ユーリスは納得していなくても頷くしかない。
 これで昨日の件は片がついた。そうスッキリして席について作業に移ろうとしたところで、リシャーナははたと気づいた。
(そういえば、建国祭には貴族の家は代表一組が必ず出席するはず)
 つまり、ザインロイツ家も出席する。
 ユーリスが排斥された以上、その弟が跡取りではあるが、彼はまだ家督を譲るには若すぎる。
 ということは、ハルゼラインのように嫡男が出席するということもなく、順当に考えれば当主夫妻――つまりユーリスの両親が出席するだろう。
 引き出しから書類を出しながら、リシャーナはユーリスの横顔をチラリと見た。
 見舞いに訪れた日、夫人の作った粥を口にした彼の表情が重なる。
 遠回しに夫人のことを伝えたときのユーリスの泣き笑いが蘇り、リシャーナの胸はきゅうと切なく締めつけられた。
「あの、ユーリス……」
「うん? どうした?」
 胸の疼きに背中を押されるように、気づくと呼びかけていて、振り返った彼を前にリシャーナはためらいつつも訊ねた。
「今度、建国祭があるでしょう?」
「ああ。もちろん知ってるよ」
「王宮での祝祭に、研究者の枠組みで招かれたんです」
 証拠とばかりに鞄から招待状を取り出すと、それを目にしたユーリスはフードの下で華やかに顔を綻ばせた。
「すごいじゃないか! 個人が呼ばれるなんて滅多にあることじゃない!」
「いえ……きっと若い研究者は出来るだけ招いているのだと思います。期待していると暗に告げた方が、研究者のやる気も責任感も変わるでしょうから」
「それでも全員じゃないだろう? 選ばれたのだから、リシャーナが認められている証だ」
 自分のことのように喜ぶユーリスからの賛辞に、こそばゆい気持ちでリシャーナは礼を言った。
 こほん、と軽く咳払いで照れを誤魔化し、本題に入る。
「それで、もしよければなのですが……あなたに私のパートナーとして祝祭に参加していただけないかと思ったのです」
 緊張で胸がドキドキした。上擦りそうになる声は必死に平静を装ってした提案に、ユーリスはハット息を詰めた。
 驚きで見開かれた双眸。そして、フードの影になった瞳には、喜びの光りが走ったように見えた。が、瞬き一つした間に、ユーリスの顔に浮かんでいた大きな感情は鳴りを潜めてしまった。今は懐かしく思える貴族然とした穏やかな笑みで、ヴェールを被ったように彼の真意が分からない。
「リシャーナ……すごく光栄なお誘いだけれど、俺は貴族籍もなく、家から勘当された身だ。そんな俺を連れていてはきみの評価に関わるよ」
 だからごめん。子どもに言い聞かせるような静かでゆったりとした声が、優しくリシャーナの差しだした手を押しのけた。
 それだけで心臓に氷を押し当てられたようだった。
 痛いような冷たさが胸を衝いて、リシャーナはどうしたら彼が頷いてくれるかと瞬時に言葉を探していた。
「そんなことありません。それに、今こうして私の助手をしてくれているじゃないですか」
 案に今さらだと告げるが、ユーリスは首を振る。
「それは学校内での狭い世界だからこそ可能なんだ。けれど、夜会などの社交の場ではそうはいかない」
「ですが……」
「ここではきみは一研究者だけれど、社交の場じゃその場の相手はほとんど貴族だし、きみはどうしたってハルゼラインの家の者として見られる」
 きみだけじゃなく、ハルゼラインの家格に傷がつく。ユーリスは冷静に断言した。
「……っ」
 食い下がろうとしたが、リシャーナにはそれ以上いい言い訳が思いつかなかった。
(ここでユーリスと両親を遠目にでも会わせてあげたいなんて言っても、それこそ遠慮されるだろうし……)
 そもそも、どうして私はこんなに食い下がってるんだろう。
 リシャーナは不思議に思った。
 ユーリスの言うように、リシャーナの行動の結果は全てハルゼラインに直結する。そこが社交の場であり、貴族相手であれば尚更に。
 家族から見放される可能性だってある。母からのあの冷たい視線を、今度は家族みんなから向けられるかもしれない。
 思い出された頭上から注ぐ母の視線の鋭さに、反射的にゾクリと恐怖が伝う。
 その恐怖心が強ければ強いほどに、リシャーナの中で疑問が大きくなるのだ。
(どうして私はこんなに必死なんだろう……)
 ユーリスの言うとおりにするのが正しい。両親に先に出した手紙を撤回し、無難な相手を紹介してもらうのがいい。それが、貴族としてのリシャーナ・ハルゼラインの最善の選択だ。
 頭では分かっているのに、心が抗うようだった。
 ユーリスを両親に会わせてあげたい。それはもちろん本音だけれど、けど、リシャーナがそれよりも強く思うのは――。
「私が、ユーリスと一緒にパーティーに行きたいんです」
 我知らず、リシャーナは自身でも気づいていなかった本音がぽろりとこぼれていた。
 驚くユーリスの息を吸う細い音が聞こえた。
 耳に届いた自分の言葉に、リシャーナはようやくじわじわと実感する。
(そっか。私ユーリスと……今の私とユーリスでパーティーに行きたいんだ)
 婚約者だった頃は、ろくにユーリスのことは知らなかった。彼のことを知ろうともせず、苦手だと内心で距離を取っていた。
 並んだ彼の姿を、リシャーナはハッキリと見返したことはなかったのだ。
 それが、今は悔やまれる。
「こうしてあなたと話せるようになって、ちゃんとあなたのことが知れて……そのうえで、パートナーとして並んでみたいと思ったんです」
 あの煌びやかな照明を浴びた豊かな茶髪は、どれだけ温かく輝くだろう。若緑色のその澄んだ瞳は、どれだけ鮮やかになるだろう。
 貴族然とした彼が苦手だった。けれど、そんな彼の姿も覚えていないのはなんだか惜しく思えた。
 取り繕った言い訳は全て正論で返されてしまった。それなら、もうリシャーナに言えることなんて、本心しか残っていない。
 おずおずと目を上げて窺い見た彼は、口も瞳もぽかんと開けて硬直していた。
 白い肌がじんわりと熱を持つと、若緑色がリシャーナから逃げるように下を向き……かと思えば、望んだものを差し出された子どもみたいな光りを持った目で、リシャーナを見た。
「行こう、かな」
 呆然としたまま、ついとばかりに漏れ出た答え。それでも、リシャーナがほっとした顔をしたってユーリスは否定することはなかった。




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