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しおりを挟む(あれ……私、どうしたんだっけ……)
バチャバチャと一定の間隔で響く水音を捉えながら、リシャーナはうっすらと意識をのぼらせた。
倦怠感に支配される体が、なにかに支えられて運ばれている。
どうにか目を開けたのに、なぜか視界が薄暗い。ほんの少し息苦しさも感じる気がしてわずかに身じろぐと、その拍子に視界を覆っていた暗いなにかがはらりと落ちた。
(あ、これユーリスのマント……)
ポタポタと顔に降り注ぐ細かい滴に、雨が降っているのだと分かった。
横向きに抱えられたリシャーナの胸元には、ユーリスがいつも着用しているマントが見えた。
どうやら、雨避けのために顔まですっぽり覆われていたらしい。
身じろいだせいで、マントはリシャーナの体から滑り落ちそうだ。引き寄せたいが、首も動かせないほどで全く体に力が入らない。
そんななかでおぼろげな碧眼を上に向けると、ユーリスの横顔がかろうじて見えた。
濡れた髪を乱雑に掻き上げ、儚さの宿る美貌を惜しみなく晒している。普段よりも荒々しい印象を持つのは、その表情が険しいものだからだろうか。
どうやらリシャーナは、ユーリスに運ばれているらしい。
ぐったりと彼の胸板に寄りかかりながら、意外と力があるんだな……と感心した。
いつもは大きなマントで体格が隠れ、リシャーナと大差ないほどに華奢に思えていたが、そうでもないらしい。
体が弱く、屋内にこもりがちだったとはいうけれど、やはりそこは男女の差なのだろうか。
リシャーナを抱える両腕に危なげはなく、むしろ揺らさないようにという気遣いすら感じる。
「くそ……どこか休める場所は……」
一度立ち止まったユーリスは、焦りと苛立ちを混ぜた眼差しで周囲を見渡した。そのとき、薄らと目を開けているリシャーナに気づく。
「リシャーナ? 眼が覚めたか?」
「ユーリス……私、さっき……」
あの不思議な生き物を追いかけた先で、チムシーの花に捕まったはずだ。
この体の倦怠感は魔力を奪われたせいだろう。
しかし、あの状況からどうやって脱出できたのだろう。
(ユーリスが助けてくれたんだろうけど……)
でもどうやって――?
あの状況では、近づけばユーリスも同じようにチムシーに捉えられてしまっただろうに。
不思議に思っていると、すぐに本人から答えが届く。
「すまない……魔植物は火に弱いだろう? 遠くから魔法を使って蔓を焼いたんだが……」
と、ユーリスは眉間に深い皺を刻み、ぐっと歯を食いしばった。
どうしたのだろう。じっとリシャーナが見上げていると、落ちそうになっていたマントが独りでにふわりと浮いた。
ユーリスが魔法を使ったらしい。
(魔法具をつけた状態でも魔法が使えるなんて、ほんとに規格外の魔力量だなあ……)
マントは雨を遮るように、リシャーナの頭からすっぽりと覆ってみせた。
再び走り出したユーリスは、噛み締めるように呟く。
「少し、きみの足を掠めてしまった……すぐに冷やしたし、跡にはならないと思うんだが……」
すまない――と、ひどく悔やんでいる声がマントの下でこもって聞こえた。
見えないが、きっとユーリスは深い後悔を滲ませた顔で絞り出したのだろう。
リシャーナは自分の意識を足元に集中させてみた。
(痛みはないけどな……)
それに万が一跡になったところで、普段から丈の長いスカートしか履かないのだから困ることはないだろう。
(それより、すごく寒い……)
雨で濡れているからだろうか。体の芯から冷えきってしまったようだ。
鼓動の音すら遠く小さくなるような錯覚を覚えるほどの寒さに、歯の根が合わずカチカチと小さな音が出る。
「リシャーナ? 大丈夫か?」
抱えたリシャーナの震えに気づき、ユーリスが焦燥の声を上げた。
さっきまでは拙いながらも会話が出来ていたのに、次第に喉を震わせる余力もなくなってきた。
「さ……さむ、い……」
どうにか吐息と唇の動きだけで訴えた。マントの隙間からリシャーナの顔色を覗き見たユーリスは、初めて見る荒々しい仕草で盛大に舌を打った。
「くそ……! 魔力の欠乏症状か!」
ユーリスの走るスピードが一段と上がる。
自分の体温をわけるように強く胸に抱えられると、ほんの少しだけほっとした。
ちょうど走り抜けた先では一段土地が高くなっていて、その小高い丘の麓が一部切り崩されたように崖になっていた。
崖には、ちょうど成人が入れる程度の洞穴があった。
それに気づいたユーリスは、手早く穴の中に獣がいないことを確認してから、リシャーナを抱えたまま身をかがめて中に入った。
浅い位置で一度リシャーナを片腕で支え、もう一方の手を外に出して空に向かって救援弾を発射した。
運良く同じ森で騎士団が訓練を行っているため、そう経たずに来てくれることだろう。
ほっと息をついたユーリスは、吹き込んできた雨で濡れないようにリシャーナごと奥に移動した。
ユーリスの足の上で横抱きにしたリシャーナから濡れたマントを剥ぐと、真っ青な顔が現れる。
「ユー、リス…………」
急に反響するように届く雨の音と薄暗くなった視界に、リシャーナがのろのろと目を開けた。
体はどんどん凍えていき、リシャーナは自分から体温が失われていくのがよく分かった。
今、自分がどういう状況なのかも理解できない。白みがかった頭で分かるのは、寒さと恐怖だけだ。
(誰かたすけて……)
この寒さを無くしてくれるならなんだっていい。誰でもいいから助けて欲しい。
子どものように泣きじゃくりたい気持ちだった。そうやって怖いのだと主張しないと、この得体の知れない「死」という恐怖に飲み込まれそうだ。
(ユーリスは、ずっとこんな状態で生きてきたんだね……)
それはどれほど辛かったことだろう。
この凍てつく淋しさや自分がどうにかなってしまいそうな冷たい恐怖と、彼はずっと向き合い続けていたのだ。
「リシャーナ……? リシャーナ!」
どんどん血の気をなくしていくリシャーナに、ユーリスの顔も血色をなくしていく。
欠乏症状に一番の薬となるのは、魔力を与えることだ。生命維持に回すだけの魔力がなくて命に関わるのだから、そのエネルギーを供給してあげればいい。
しかし、ユーリスは今は抑制装置で魔力を限りなくゼロに近くしてしまっている。
若緑色の双眸が、二つの選択を前に瞳孔を小さくして震えた。
緑色の虹彩が酷く動揺した様子で、腕の中のリシャーナと手元のバングルを行き来した。
ユーリスにとっては永遠に感じるほど長い時間だったが、実際には悩んでいたのは刹那のことだった。
一秒だって惜しいというような乱暴さでバングルを外し、その勢いのまま乾いた岩肌の地面に転がした。
そしてユーリスは片手で肩を抱いて抱きしめ、その震える細い手を自身のもう一方の手で包んだ。
触れ合った手の温もり――なにより、ゆっくりと、しかし確実に自身に分け与えられる魔力に、リシャーナの冷えた体と心がほぐれていく。
(あったかい……)
ユーリスの魔力は、リシャーナが拒否反応を示さないように、本当に微量ずつ触れた手を通して流し込まれている。
そのあまりの心地よさに、リシャーナは泣きながら礼を述べたいほどの感謝の念に包まれた。あれほどの飢餓感と寒さから救ってくれたユーリスには、後光がさしているような目映い存在に見えた。
これはユーリスがサニーラに縋るのも分かる気がする、となんとなしに思ってしまった。
一時的とはいえ、短時間経験しただけのリシャーナだってこうして救われた想いになるのだ。
生まれてこのかた満たされたことのないユーリスが、サニーラと出会って初めて感じたであろう充足感や温かさを思うと、狂うほどに縋ってしまうのがよく分かる。むしろ、よくそれまで狂うこともせずに生きていられたものだと思う。
(あなたはずっと、こんな満たされない淋しさや苦しさを感じていたんだね……)
そうとも知らず、昔のリシャーナは貴族然とした彼のことを苦手に思い、距離を感じていたのだ。そう思うと、なぜ気づいてやれなかったのかと、悔やむような気持ちになった。
リシャーナが気後れしていたあの悠然とした笑みを思い出すと、リシャーナの胸が切なさと後悔で潰れそうだ。
そして、そんな悲しみさえユーリスの体温と魔力が癒やしてくれる。
ぬるま湯に浸かっているようにじわじわと感じられる温かさは、リシャーナに遠い昔にもたらされた家族との熱を思い出させた。
――お姉ちゃん! もう朝だよー!
ぽかぽかした布団の中、寝起きの頭に聞こえる鈴の声が耳の奥に懐かしく蘇った。
「……す、ず」
与えられるユーリスの熱によって、強固に封じられていた郷愁が顔を出した。
弱った体と頭のせいか、今まで決して他人には聞かせたことのない、リシャーナの狂おしいまでの淋しさが胸の内から溢れ出た。
――鈴、お前は本当に清花に甘えたばっかりだなあ。
――清花、あんまりなんでもかんでも言うこと聞いちゃダメだからね。
苦笑する――同時に微笑ましい温かな眼差しを宿した両親。
その向かい側で拗ねた表情の妹――鈴。
今はもう遠い、かつては当たり前だったはずの日常が、リシャーナの頭の中に浮かびあがっては消えていった。
「おかあさ、おとうさん……すずぅ……」
――会いたい。会いたいよ。
ぐったりして体に力の入らないなか、リシャーナの頬を涙がはらはらと滑り落ちていく。
「リシャーナ……? どうしたんだ?」
虚ろに泣き始めたリシャーナを心配したユーリスが、かすかに動く唇へと耳を寄せた。
そうして聞こえてきた「会いたい」という、短い言葉の中に含まれた懸命なまでの祈りに、ユーリスは胸を衝かれたように息を止めた。
やがて、うつらうつらとし始めたリシャーナは、そのうち微かに覗いていた碧眼も瞼にしまいこんでしまった。
それでも譫言のように同じ言葉を繰り返す姿は、見ているものの胸を切なく締めつける。
「会いたいよ……鈴……」
「……リシャーナ、きみは誰を呼んでいるんだ?」
濡れた長い睫毛を拭うように親指を滑らせ、ユーリスが呟く。
けれど、ほとんど夢の中に意識を潜らせていたリシャーナには届かない。
とっぷりと暗くなった意識の中、リシャーナは自身の頬に触れた温もりの心地よさに、無意識にすり寄った。すると、その温もりはまるでリシャーナを慰めるように、繊細な動きで頬を何度も撫でてくれた。
壊れ物に触れるようなその優しさにほっとしながら、リシャーナは久方ぶりに思い出された家族との温かな幻想に揺蕩った。
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