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「さっきの彼は知り合いか?」
 森を進む最中、不意にユーリスが問いかけた。リシャーナは歩きながら横目に彼を見た。
 関係性をぼかすのは簡単だ。同級生でも、元クラスメイトでもなんとでも言いようはある。
 かといって、それをするとどうしてか嘘をついたような気分になる気がして、小さく――けれど正直に言った。
「恋人でした。短い期間でしたが……」
 と、ユーリスがピタリと歩みを止めた。遅れてリシャーナも立ち止まって振り返る。
 ユーリスはどこか放心したように立ち尽くしていた。虚をつかれたような、思ってもないことを言われた顔だ。
「ユーリス?」
 呼びかけたあと、今の言い方はまずかったかもしれないと思い直した。
「もちろん付き合っていたのはあなたとの婚約が破棄されたあとですよ? そんな不義理なことはしません」
 わたわたとつけ加えたリシャーナに、「あ……うん」などと、まだ心あらずという様子でユーリスが答える。
「……ユーリス? 本当にどうしたのですか?」
 驚いただけで、こうも呆けてしまうものだろうか。ユーリスは自分でも不思議そうに首を傾げながら、自身の左胸に手を添えた。
 そして困惑を強くした顔でリシャーナを呼んだ。
「リシャーナ……俺の腕に、バングルはあるだろうか」
「え? ええ、もちろん」
 片時も外したことがないのに、どうしたというのだろう。あまりにぼんやりしているので、痺れを切らしたリシャーナが距離を詰めてその顔色を窺う。
「急にどうしたのですか? 具合でも悪いのですか?」
「いや……そうではないんだが」
 ユーリス自身も釈然としない様子だ。なにかに戸惑うように揺れる緑の双眸が、やがてひたとリシャーナを見た。
「その……リシャーナ」
「はい」
「彼のことを、きみはまだ愛しているのか?」
 どうしてそんなことを訊くのか。そう思ったが、やけにユーリスが生真面目な顔だったので、リシャーナも正直に答えてしまった。
 そうしないと、ユーリスに悪い気がしたのだ。
「あなたが言っているような意味で、私が彼を愛したことはないと思います」
 あれは愛や恋と言った綺麗で甘やかなものはなかった。自分勝手で、独りよがりなエゴの産物だ。
 自嘲と切なさの滲むリシャーナの笑みに、ユーリスはしばし言葉をなくした。
 冬の冷えた空気が、二人の間に横たわる沈黙をさらに乾いたものにしていく。
 空気を切り替えるように、リシャーナはニコリと大きく口の端を持ち上げた。
「さあ、本格的に曇ってきましたし、早く採取を終えて帰りましょう」
 もたもたすると雨が降ってきそうです。
 そう言って促すシャーナに、ユーリスはゆっくりと頷いて後に続いた。


 数分森を進んだところで、リシャーナは首を捻った。
「前はこのあたりで見つけたのですが……どこに行ったのでしょう」
 魔植物は普通の植物と同じく根を張って生息するものだ。基本的に一部の例外を除いて自力で移動することは叶わない。
「見かけたのはいつ頃なんだ?」
「一年ほど前でしょうか」
 学生時代は、校外学習と称して王都からほど近いこの森にはよく訪れていた。
 騎士団の訓練で使われることも多いので、危険な魔獣や獣が生息しないため、学生の散策場所としては絶好の場所なのだ。
 当時まだ学生だったリシャーナは、無機物での実験しか許可がされていなかったので、森の散策でみかけてもチムシーを採取することは許されていなかった。
 試作品に鉱石を用いたのは、無機物だったからというのも大きな要因であった。
「遠目に見ただけですが、周囲の木々と比較して多分背丈は一メートルほどだと思われます」
 チムシーの花は、最初は人の手のひらに収まるほどの小さな花だ。しかし、他生物の魔力を吸収して養分にしては、どんどんその姿を大きくしていく。
 歴史上、一番大きかったものは全長が五メートルを越したものもいると聞く。
「冬なので活動はひどく緩やかなものだと思われますが、油断はしないようにしましょう」
「ああ」
 真剣なユーリスの顔つきに、リシャーナはほっと内心で安堵した。さっきまではどこかぼんやりした様子だったが、今は普段通りだ。
(結局なんだったんだろう……マラヤンと私のことがそんなに意外だったかな……)
 だが、驚くというよりは、ユーリスはなにかに戸惑っているようだった。そして、その「なにか」を、彼自身もよく理解していないような――そんなふうにリシャーナには見えた。
 チラリともう一度彼の横顔を見る。
(うん。いつも通りだし、いつまでも私が気にしていたって仕方ないよね)
 問題があれば、ユーリスは自分から申告してくる人だ。
 今はチムシーの花に集中しよう。とリシャーナは切り替えた。
「うーん……方角はあっているはずなんですが……」
「討伐された可能性は?」
「それは低いかと……ここは街道からは離れていますし、騎士団が訓練によく使うので市民が通ることはほどありません。市民の害になるならいざ知らず、ほとんど餌にありつけない魔植物をわざわざ一つ一つ討伐しているとは思えません」
 魔獣ならばともかく、魔植物は近づきさえしなければほとんど害にはならない。あくまで討伐の優先順位は魔獣であり、魔植物の討伐はよほど被害が出来たときのみに限られる。
「そういえば、どうしてチムシーなんだ? 魔植物であればほかにもたくさんいるだろう?」
「魔獣や魔植物というものに、恐怖や嫌悪を感じる人は多くいます。そんな魔植物の一部を使った魔法具を、自身の体に装着することに抵抗感を持つ人もいるはずです。チムシーならこの実験が成功して実用化されても、ほかのものと比べて人々の抵抗感が薄いと思うんです」
「なぜ、チムシーなら抵抗が少ないんだ?」
 心底分からないと顎に手を置いたユーリスに、
(ああ、そっか。ユーリスは少し前まで外に出る機会がなかったから知らないんだ……)
 と気づいて説明をつけ加えた。
「ユーリスはチムシーの花がどんな姿か知っていますか?」
「ああ。たしか白い花弁に薄紫色が差し込まれた美しい花だったはずだ」
 昔図鑑で見た、というユーリスに、リシャーナはこくりと首肯した。
「ええ。魔植物の多くは獲物をおびき寄せるために美しい外形をしているか、特別な香りを纏っていることが多いです。そのなかでもチムシーはとびきり美しいと言われています」
「綺麗だから、人々の抵抗が薄いということか?」
「それも一理ありますが、なにより人々に慣れ親しまれているからですね」
「親しまれている……?」
 なぜ? と大きく顔に書いている分かりやすいユーリスの表情に、リシャーナはクスクスと笑って答えた。
「最近、商店やレストランなどチムシーの花をお店に飾ることが一種のステータスになっているんです」
「魔植物を店に飾るのか!?」
 仰天したユーリスの反応にリシャーナは大きく頷いた。
(私もネノンから初めて聞いたときは驚いたもんなあ……)
 魔植物を観葉植物にするなど、客が来なくなっても仕方のない事態だ。しかし、詳しく聞くと随分と上手いことやっているようなのだ。
 魔植物はたしかに他生物の魔力が養分の大半を占めるが、普通の植物のように光合成を行ってもいるのだ。
 種から発芽させたチムシーに、魔力を一切与えずにある程度育てて店に飾るらしい。
 チムシーは見た目だけならば抜群に美しく、見る人の目を奪うものである。その美しさで客を惹きつけることが出来る。
 また、チムシーが魔力を求めないようにある程度の大きさで維持することは、莫大な金銭と労力がかかるのだ。また、国からそれが出来る店だと認められなければ魔植物を置くことは出来ない。
 つまり、チムシーの花を置いている店――というものは、国からの信頼があり、専属の剪定師を雇えるだけの稼ぎがあるという、名店の証でもあるのだ。
「へえ……そんなことになっているのか」
 感心と呆れが混ざったような表情でユーリスが唸った。
「よく考えるものだな……たしかにそんな理由ならチムシーに対する抵抗感の少なさにも頷ける」
「ええ。今は市民の間じゃチムシーの花は危険な魔植物……というよりは、いいお店の証ですからね」
「それはそれで問題がある気もするが……まあ、チムシーも生息数は少なくなっていてあまり見かけることはなくなったからなあ……」
「地方の森へ行けば珍しくもないですが、王都近郊ではあまり見ないでしょうね」
 現にこうして森を歩いていたって、魔植物にはほとんどあわないのだから。
 あまりにも見つからないので、リシャーナに嫌な予感が立ちこめた。
「もしかしたチムシーの花もうは刈られてしまったのかもしれませんね……」
 出来れば自然に生息するものを自分の手で……と思ったのだが、こうなったら種を買い取って発芽させるところからやらないとダメだろうか。
 諦めかけていたときに、ふと近くの茂みが揺れた。
 なんだろうと二人が目を向けると、そこからは小さな白い生き物がひょこりと顔を出す。
「あれは……」
 見たことのない生き物だ。うさぎのように耳が長く、瞳はルビーのように真っ赤だ。体長は成人の膝丈程度だろうか。
 うさぎと違うのは、その長い耳が先端に行くにつれて蝶のように広がっており、垂れていること。そして、瞳のちょうど真ん中――額に瞳と同じ色の赤い煌めきがある。
(あれは……鉱石?)
 動物の体に鉱石が生えているなんて聞いたことがない。どこかほの暗く光る瞳と鉱石は、人を惹きつけるような妖しい魅力がある。
 茂みから顔を出したその生き物は、じっと二人のことを見つめると、ぴょんと両足を揃えて一歩遠ざかった。そして、振り返ってまたじっと見つめてくる。
 そうまるで――。
「私たちを呼んでいるみたい……」
 そのさきになにかあるのだろうか。
(……もしかして助けを求めているとか?)
 例えば、
 仲間が傷つき動けなくなっているとか。そう思うと、生き物のてらてらと光る瞳が、なんだか泣きそうに見えてきた。
 途端にリシャーナの心臓がきゅっと締めつけられ、この生き物を救ってあげねばという気持ちになってきた。
「そのさきになにかあるの?」
 訊くと、小動物は答えずにまた数歩進んで振り返って待っている。
 やはりついて来いということなのだろうか。
「あの生き物……どこかで見た記憶が」
「ユーリス、後を追ってみましょう」
 難しい顔で観察していたユーリスの横を飛び出す。すると、こうなるのを待っていたように小動物が飛び跳ねてぐんぐん先を進んでいく。
 リシャーナも慌てて追いかける。
「リシャーナ! 待て! もしかしたらそれは――!」
 ユーリスがなにやら呼びかけているが、リシャーナは足を止めようとは思わなかった。今はこの子について行くことが何より大事なことなのだ。そう思えて仕方なかったのだ。
 薮をつっきり、枝ですり傷を作ってもリシャーナは一向に怯まずその生き物を追った。
 もはや自分の体が勝手に動いているような心地でもあった。
 どこかぼんやりした頭の中で、警告するように逸る思いが湧いては霧散する。
 なにか考えなくちゃいけない気もするが、頭が回らないのだ。
(それより、あの子を追いかけなきゃ)
 そのまま数分と走らず、茂みから飛び出たリシャーナの視界が開けた。
 そして、そこでリシャーナがくることを口を開けて待っていたように大きなチムシーの花が、鎮座していた。
 そこでようやくリシャーナは、自分が罠にハマったことに気づいた。
(まさかあれは魅了魔法――!?)
 さっきまでのふわふわと浮き立つような不思議な心地の正体に、リシャーナは内心で驚愕した。
 感情や精神に左右する魔法など、とうの昔に潰えたはずだ。
(まずい……早く距離をとらないと)
 すぐ目の前にはリシャーナの優に二倍はありそうなチムシーの花が美しく咲き誇っている。
 咄嗟に身を退こうとしたものの、隆起した地面から現れたチムシーの蔓が、リシャーナの足を捉えた。
「しまった……!」
 スカートの下、素肌を撫でるザラりとした鈍い痛みに、チムシーの棘に触れられたのだと気づいたときには遅かった。
 途端に体から力が抜け、そこを増えた蔓に抱きとめられた。
 少しずつ自分の体内から魔力が減っていく感覚に目の前が薄暗くなっていって。
 リシャーナを呼ぶ声が、遠くから聞こえる。かすかに耳に届いた声に答える前に、リシャーナの意識は暗転した。
 
 
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