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 サニーラのことは医師に任せ、リシャーナは図書館への道を急いだ。
 医務室を出る直前、医師はリシャーナに向かって頭を下げた。
「サニーラさんもユーリスさんの事情は把握しています。けれど、あの時の恐怖が体に染み付いていて、自分でも制御出来ないのでしょう……」
 ユーリスを助手から外せとまでは言わない。しかし、二人への配慮を……とのことだ。
 もちろん言われずともそうするつもりだったので、リシャーナはしっかりと頷いた。
(ヒロインなら、なにをされたって最後には笑顔で許しそうなのにな……)
 ゲームの中の話は椎名からの又聞きだが、アニメの中でのサニーラはいつもそうだった。
 平民出身でほかの貴族から距離を取られて一人ぼっちでも、その明るさに魅入られたある子息から執拗に追いかけられ手篭めにされそうになっても……。
 淋しさも恐怖も感じる。けれど、いつだって拳を強く握ってとことん前に進む女の子。
 他人の弱さも罪も、全部許して受け止める聖人のような少女なのだ。
「とりあえず、サニーラが学園に来ている講義の日を把握して、ユーリスと鉢合わせしないようにしないと……」
 小走りで図書館に駆け込むと、リシャーナはカウンターに本を置き、身を乗り出してネノンに訊ねた。
「ネノン、ここにユーリスは来ませんでしたか?」
「ユーリスってあのフードの助手の人だよね?」
 眼鏡の奥で目をしばたたかせ、ネノンはこくりと頷いた。
「少し前に随分慌てて本を返しに来たよ。私に渡すだけ渡してすぐにどっか行っちゃったけど」
 なにかあったの? ――心配そうに問いかけた彼女に、リシャーナは曖昧に笑った。
「これ全て返却でお願いします。あ、あとユーリスがどちらに向かったか分かりますか?」
「どこに行ったかは分かんないけど、図書館を出てあっちに走って行ったよ」
 そう言ってネノンが指さす方向を確認し、短く礼を言ってからリシャーナも図書館を飛び出した。
「リシャーナが走ってるなんて……槍でも降るのかしら」
 ぽかんとしたネノンの言葉は、リシャーナの耳には届かなかった。


(どうして講義棟のほうに来たのかな……)
 早足でネノンの指さした方向へ向かいながら、リシャーナは思う。
 逃げるとなると、自分の慣れた場所に戻ろうとするものではないか。そのほうが本人も安心できるだろう。
 リシャーナはてっきり研究室のほうへ戻っているものだと思っていたのに、見当違いな方向だったので内心で首を傾げた。
(あ、研究室はあくまで私に宛てがわれた場所だがら避けたのかも……)
 だからこそユーリスは、人の視線を避けるために、人のいない方へと進んだのだ。
 事務棟や研究棟ではみなが不規則に動き回るので、いつ誰に会うか分からない。
 けれど、講義棟であれば、講義の時間はきっちりと決まっているので人の動きの予測がつきやすいのだ。
 現に、今は講義時間なので、生徒の姿は見えない。
 回廊を進んでいる途中、リシャーナはふと中庭の茂みの影に違和感を覚えて立ち止まった。
「……ユーリス」
 膝を抱えるように項垂れたユーリスの姿に、リシャーナは切なくなって彼の名前を独りごちる。
「ユーリス、ここにいたんですね」
 気を取り直して声をかけながらゆっくり近づくと、彼は顔を上げないまま肩をびくつかせた。
「すまない、急に飛び出してしまって……」
「いえ、本の返却ありがとうございました」
 少し離れた距離で立ち止まって、リシャーナは言った。
 むしろあの状況でよく図書館に行けたものだと思う。そんな真面目さがユーリスのいいところだとは思うが、今はそれがひどく苦しく感じられた。
「サニーラは動揺していたので医務室に連れて行きました……それと、先生から話を聞きました。あなた方二人になにがあったのか……勝手に聞いてしまってすみません」
 ユーリスから息を詰める気配がして、リシャーナの罪悪感がちくちくと刺激された。
 どう声をかけていいのか迷っているうちに、講義終了の鐘が響いた。
 校内に響き渡る鐘に、二人は咄嗟に顔を上げた。
 フードの下で青ざめるユーリスの横顔に、リシャーナはいてもたってもいられず、バングルをしていないほうの彼の手を掴んで無理矢理引っ張り起こした。
「リ、リシャーナ? どこに……」
「ここじゃあ人が来ます」
 そこまで言って、これだとユーリスは不安になるかと首だけで振り返って微笑んだ。
「実は人が来ないとっておきの場所があるんです」


 少し急ぎ足で向かったのは、講義棟から正門とは反対に進んだ場所にある広場である。
 校内を巡る遊歩道からは少し外れなければならず、奥まったところにあるので人は滅多に来ない。
 一応とばかりに芝生の広がるそこにはベンチが置かれているものの、校内にはカフェテラスや食堂、ラウンジなどの充実した憩いのスペースは多々あるので、ここまでわざわざ来る者はいないのだ。
 そもそもここを知っているという人間自体も少ないと思う。
 リシャーナは学生時代に得た自身の経験から、ベンチではなく茂った木々の一つの根元に腰を下ろした。
「ここなら滅多に人が来ませんから安心してください」
 どうぞ、と木を挟んで反対側へ促せば、まだ混乱が収まっていないのかユーリスはぼんやり頷いてのろのろと座り込んだ。
 二人の間に木を置き、背中合わせの状態で静かに座る。
 ユーリスはリシャーナがいてもなにも言わなかった。彼を放っておけなくて、リシャーナはそれを勝手に了承と受け取り、ぼんやりと木にもたれて頭上を見た。
(もうないか……)
 リシャーナは高等部に入学してから、ときどき隙を見ては一人でこの広場に来ては人心地ついたものだ。
 学内には多くの木々や植物が存在し、よく野鳥が巣を作っている。
 リシャーナが一年生の終盤にさしかかった初夏の頃に一度巣をつくっているところを見たが、今は影も形もない。
(そういえば、マラヤンと出会ったのってここだったっけ……)
 高等部に入学してからたまたま見つけたこの広場に、リシャーナはときどきやってきては人心地ついていた。
 いつものように一休みしにやってきたある日、木の根元に雛が一羽落ちていたのだ。
 近くに親鳥の姿はなく、頭上を見るとそこには鳥の作った巣が見えた。
 ――ああ、あそこから落ちたのか。
 理解してからは早かった。
 きょろきょろと周囲を見渡して誰もいないことを確認すると、リシャーナは雛に向かって魔法をかけた。
 ふわりと浮かべた雛をなんとか巣まで戻してリシャーナはほっと胸を撫で下ろす。
 ――家族は一緒がいいもんね。
 微かに聞こえる雛の鳴き声に、リシャーナは微笑んだ。
「もう落っこちたりしたらダメだよ」
 そう言って講義棟に戻ったのだが、数日して再びここを訪れたとき、木の根元ではあの雛が地面に力なく横たわっていた。
 明らかにすでに力尽きているのがわかり、リシャーナは駆けよって膝をつくと、その雛を両手ですくい上げた。
「どうして……」
 思わず頭上を見上げるが、そこには親鳥から餌を与えられている数羽の雛の合唱が聞こえた。
 元気に鳴く雛の声と、それに応える親鳥の姿は、こんなときじゃなければ微笑ましく見守れたのだろう。しかし、リシャーナの手には温もりのない雛がいて、この子のことなど初めから知らないように騒ぐ鳥たちの様子に、リシャーナは切なさを覚えた。
 不意にそのとき、ほかの雛たちと手の中の雛の大きさに差があることに気づく。
 遠目ではあるが、見比べるとよく分かる。明らかに死んだ雛のほうが体が小さい。
「あ……」
 頭を過った知識に、リシャーナの体は一瞬で冷えた。
「親鳥の間引き……」
 鳥の中には、複数いる雛のうち、体の小さいものや餌を上手く食べられずに弱った雛を親鳥が殺してしまい、その子の分をほかの雛に餌を与えて巣立ちの可能性を上げるものがいると、聞いたことがある。それが親鳥の間引きである。
 この雛は自分で誤って巣から落ちたのではなく、親によって落とされたのだ。
 よくよく見てみると、小さな雛の体には細かい傷がいくつも見られた。多分、親やほかの雛にくちばしでつつかれて攻撃されていたのだ。
(そんなことも知らずに私は……!)
 手に載せた雛を、そっと胸に抱くように体を丸めた。
 胸が潰れそうな思いだった。
 どうしてこの子は家族から見捨てられなければならなかったのだろう。動物の本能故だと言われてしまえばそれまでだが、それでもリシャーナには悲しくてたまらなかった。悲しさとやるせなさと、そして雛に自分を重ねた恐怖が体の中でぐるぐるとない交ぜになる。
 ――出ておゆきなさい。
 母の冷たい声が頭に蘇る。本当の貴族ではないと知られた自分も、いつかこうして捨てられるのだろうか。
「……あのとき、拾ってあげれば良かったね」
 ぽつりと後悔の念が落ちた。
 貴族の中では動物を飼育するものも多い。リシャーナに飼育経験はないが、ハルゼライン家であれば人脈もお金もある。育てようと思えば育てられた。
 そうすれば、この雛は今も元気だったかもしれない。自分を捨てた家族を遠く見上げながら死ななくたって良かったはずだ。
 弔ってあげたいけれど、さすがにここに埋めるのは可哀想だろう。
 リシャーナは少しの慰めにでもなればと雛を自身のハンカチで包み、その上からそっと撫でて立ち上がった。
 あまり人目につく場所はまずいと考え、少し離れた桜の木の近くに埋めることにした。ここなら、毎年綺麗な花が咲く。
 貴族の子女が土を掘り返す道具など借りに行けないので、リシャーナは自分の手でどうにか穴を掘った。
 上手く掘れずに四苦八苦していると、不意にリシャーナに影が差す。
「貸して。僕がやろう」
 そこには銀髪を揺らした美しい青年がいて、リシャーナが答えるよりも早く、彼は制服のままなんの躊躇いもなく膝をついた。それがマラヤンだった。
 マラヤンは粛々と穴を掘り進めてある程度形が出来ると、「ほら」とリシャーナを優しく促した。
 ハンカチになにが包まれているのかなんて、彼は全く気にする素振りは見せなかった。まるでなにが起きたのか全て知っているように、彼はなにも訊かず、そしてリシャーナを労るように優しかった。
(あの後からだっけ……マラヤンから話しかけられるようになったのって……)
 その後、リシャーナの婚約が破談になり、その少しあとにマラヤンから想いを告げられたのだ。
 久しぶりにマラヤンのことを思い出した気がする。それほど時間が経ったわけでもないが、リシャーナの胸に突き刺さるような痛みはやってこない。
(最近じゃ一人でいることの方が少なかったからかな……)
 そういえば家族の夢を見る頻度も減っている気がする。
 リシャーナがそんなことを思っていると、不意に背後でユーリスが口を開いた。
「サニーラ男爵令嬢との話を聞いたんだろう」
 幻滅しただろう、とユーリスが嗤う気配がした。
「あんな醜態を晒し、なにより女性を傷つけ怖がらせた俺がのうのうと生きていることに、自分でも嫌気がさすんだ」
 自身を卑下して――というよりも、彼の言葉は本心からそう思っているようだった。いや、実際にそう思っているのだ。貴族とは、そういうものだから。
 弱みをみせるな。なにがあっても狼狽えるな。堂々と背筋を伸ばして生きていかねばならない。
 それが一度でも崩れれば、その者には落伍者としての烙印が押されることになり、一生貴族社会では生きてはいけない。
「情けないだろう……今の俺はこうして人の視線を遮断して、このバングルをしていないと外にも出られないような、そんな情けない人間なんだ。これがないと、またあんなふうに誰かに魅入って迷惑をかけてしまうんじゃないか。そう思うと恐ろしくてたまらないんだ」
 自身を卑しめたように嗤うユーリスに、リシャーナの胸に浮かぶのは圧倒されたような気後れした感情だ。
 こういうふうに自分との違いをまざまざと見せつけられると、リシャーナは絶対に貴族になることは出来ないのだと実感する。
 生まれたときから貴族の理念が絶対の正義だと信じて生きてきたユーリスは、正気に戻ったときどれほど絶望しただろう。自分のしたことを恥じ、死すら頭を過るほどにユーリスは追い詰められていた。そんな彼の魔力的欠陥が分かるまでの半年間を思うと、どうにもやるせない気持ちになる。
 ユーリスの心情を推し量るだけでリシャーナの胸は痛んだ。と同時に、その憐憫のなかにふつふつと大きくなっていく感情は怒りに近かった。
 ――ああ、どうして貴族って人はこうなのだろう。
「情けないですか?」
「え?」
 つい漏れてしまった言葉とともに、リシャーナは振り返った。同じように振り返っていた驚いた様子のユーリスと顔を合わせる。
「弱い姿をみせることが、そんなにいけませんか? 完璧に出来なければ価値はないのですか?」
 この世界に生まれて十八年。心の中でふつふつと溜まっていた疑問が、怒りがとめどなく溢れてくる。
 なにより、ユーリスは自らの意志でサニーラを傷つけたわけではない。
 たしかに彼女を傷つけたことは事実である。それについて謝罪をするまではいいとしても、こうして家族から捨てられ、生きていることが間違いだとでもいうように追い詰められていい人ではない。
 ほんの二週間ほどの付き合いであるが、ユーリスの人となりはある程度理解しているつもりだ。
 彼は決して、ここまで苦しみ抜かなければならないような人ではない。
「……なにかに縋って生きることは、間違いでしょうか?」
「リシャーナ……」
 ――ゲームでぐらい、自分に都合のいい世界がみたいじゃん。
 遠い記憶の中の椎名の言葉に、内心でリシャーナはあのときと同じように答えた。
(そうだよね。間違いなんかじゃないよね)
「誰だって、なにかに……誰かに支えられて生きています。それは決して間違いでもなければ情けなくもありません」
 乱暴に見れば、貴族だって貴族の理念に縋っているとも言える。
 静かに、けれど大きな感情のこもったリシャーナの声に、ユーリスは衝撃を受けたように聞き入り、その潤む碧眼の煌めきに目を奪われていた。
 冬の乾いた風が木々を揺らし、ユーリスのフードをさらった。
 現れた若緑色の輝きを真っ直ぐに見据えたまま、リシャーナは彼のバングルのはまった腕をそっと両手で握りしめる。
「作成者として光栄に思うと言ったはずです。これを作った私が、あなたを救えたことを誇りに思っているのです。それ以上になにがいるというですか」
 自分の試作品がこの人を救ったと言われた時の高揚感は、リシャーナの研究に対する考えをほんと少し変えてくれた。
 前の世界のことを忘れるためにただ惰性で続けていた研究に、今は目的が出来た。
(この人を治してあげたい)
 こんな不完全なものではなく、ちゃんとしたものを発明して、この人を助けたい。
 貴族であらねばと常に気を張り続け、家族から捨てられることを恐れるだけの自分の人生が、変わった気がしたのだ。
「情けないなんて思うことはありません。それは人として当たり前のことです」
 力強い言葉で、リシャーナは締めくくった。
 勝手に触れてしまったことを心の中で詫びながら、彼の腕を優しく離す。
 支えをなくした腕は、そっと芝生を撫でるように落ちた。
 ユーリスはリシャーナを見つめたまま、手探りで自身のバングルをもう一方の手で掴んだ。
 まるで、そこにバングルがあることをしっかりと確かめているようだ。
 真っ直ぐに突き刺さるユーリスの視線に、負けじと見ていると、揺らめいた鮮やかな緑の虹彩から不意に、はらりと一粒涙が落ちた。
 なめらかな頬を滑り落ちたのを合図にするように、ユーリスがくしゃくしゃの顔で笑った。
「ふ、ふふ……本当にきみは、つくづく貴族らしくないな」
 なにかを深く心に刻んだような、晴れやかな笑顔のなか――しかし、その双眸だけが涙の気配を滲ませていた。
 彼の言葉に咄嗟にヒヤリとしたものの、それはこの世界での癖のようなもので、リシャーナもどうしてか晴れ晴れしい気持ちだった。
 ――さすが私のお姉ちゃんだよね!
 遠く返ってきた鈴の声に背中を押されるように、リシャーナの胸にじわじわと誇らしさが湧き上がった。
 
 
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