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二章
⑧
しおりを挟むザアー……
しきりにどこかで跳ねる水音が聞こえる。シーツの滑らかな冷たさに肌をすり寄せ、指に触れた柔らかい熱に腕を伸ばす。
瞼を下ろし、半分だけ覚醒した意識のままそれを抱きしめた。珍しく抵抗する様に僅かに体が強張ったので、安心させるようにリアの方からも身を寄せてトントンと叩いて宥める。
(あれ、イツキくん何だか大きくなった……?)
ここ数日で慣れてしまった行為の中に、何か違和感を覚えた。いつもなら成長途中の細い体はリアの腕に収まるのだが、今はリアの方が抱き着いているような体勢だ。
胸元に置かれるはずの頭は、今日はリアよりも上の位置にあり、逆にリアがイツキの肌に頬を触れさせている。
(なんだろ……いつもより硬い気がする……)
温もりは感じるけれど、子供特有の柔らかさがない。少しずつ明瞭になっていく意識と共に視界が開けて行く。正面に見えたのは誰かの筋張った首元で、明らかにイツキの物ではないそれに一気に目が冴えて仰け反った。
「ハ、ハリスッ⁉」
距離を取って視界に入った顔に上擦った声が出た。端正な顔に浮かぶ形の良い眉が眠気を妨げられてグッと力が籠る。
「うっ」と声を漏らしながら身じろぐと、赤い髪が白い肌とシーツの上で衣擦れの音を立てた。
(そうだ、昨日はハリスと一緒に寝たんだっけ……)
はくはくと口が動くと、それに比例して心臓が忙しなく動く。瞬間的に身体に熱が灯って思わず布団から上体をはみ出させる。
「今日はリアと別で寝たい」
街が暗闇に沈み、リアたちもそろそろ寝ようかと声を掛け合いだした頃にイツキがそう言った。
動揺したままのイツキに触れて二人で抱き締めあっていた昨日。ハリスの帰宅と共に治癒の話をすれば、難しい顔のままハリスは「そうか……」と一度頷いたきりだった。
ずっと暗い顔をしたままのイツキにお披露目の話を振ることも出来ないまま日が暮れて、せめて明日になってからと思った矢先のイツキの言葉だった。
どうしてだろうかとも思ったが、イツキがそう望むのなら叶えてあげるべきだ。
「わかった」とリアが肯定を示して笑えば、安堵してイツキは脱力する。
(今日は一人か)なんて寂しく思っていたが、二つのベッドの間で困惑したハリスが「俺は……」と戸惑う声を上げたことで三人の視線が交差する。
「今日はハリスがイツキくんと寝るんじゃないの?」
リアとは寝ないということなので、てっきりそう言うことだと思っていたのだがどうやらそれはリアだけらしい。ハリスは心底意味が分からないと首を傾げ、イツキはチラリとハリスを見て「ハリスとは……」と言い渋る。
しかし、部屋にベッドは二つしかなく、どちらかに二人で寝なくてはならない。リアとイツキが別だというのなら、もう一つは必然的にイツキとハリスしかないではないか。
「ハリスとリアで一緒に寝たら……?俺も一回一人で寝てみたい……」
「ええっ?」
思ってもいなかった提案にリアの視線とハリスの赤い瞳が交じる。二人とも丸く開かれた眼で互いの顔を見つめ、そう経たないうちに顔を背ける。
自分よりも小さなイツキとならまだしもハリスと同じベッドで?
考えただけで体が固まってぎこちない動作になる。二人が何か唱える前にイツキがさっさと一人で布団に入ってしまったせいで空いたベッド見下ろしてリアとハリスはしばらく立ち尽くすことになった。
そうして時計の秒針が一周は回った頃だろうか。ハリスが自分は床で寝るからと身を翻したのでリアが慌てて引き留めて背中合わせに眠りに入ったはずなのだ。
(なんで、ハリスの腕の中に……)
いや、朧げだが自分から近寄った記憶があるのでこれはリアのせいなのか。
混乱した頭でハリスを見下ろしていれば、目の前の瞼が押し上げられて綺麗な赤い瞳が現れる。眠さを含んだ視線はリアの顔を見上げてじわじわと焦点を合わせていくと見開かれて素早く跳ねあがった。
「あっ……」
「おはようございます……ハリス……」
ベッドの上で、二人して驚いた顔のまま挨拶を交わす。しずしずと瞳が逸らされてリアもベッドから足を下ろした。
イツキはよく眠れただろうかと隣を覗き込もうとして「えっ」と喉から細い声が漏れた。
綺麗に整えられたベッドが静かに佇んでいる。膨らみもなく綺麗に敷かれた布団。皺のないシーツ。人が寝た形跡のない枕。
あるはずの姿はなく、ただ寂しく真っ白な寝具がリアの瞳に突きつけられる。
「イツキくん……?」
少年の姿を探して視線を彷徨わせる。しかし、部屋にはハリスとリア以外に気配はなく、絶望と共に外の雨音がひどく重く鼓膜を揺らす。
リアの様子に気づいたハリスも同じように愕然とした表情で布団をひっくり返して衝撃が抜けないまま瞬きを繰り返す。
ここにいないということは……。
導き出されるのは一つしかなく、それはハリスも同じだったのだろう。
咄嗟に立ち上がって扉に向かったリアの手を、わかっていたようにハリスが引き留めた。リアの手首に強く指が触れて、骨が痛んだ。それにも構わず振り払おうと体を前のめりにして引っ張ったがハリスは離してくれない。
「行かなきゃ」
「追いかけてどうする。自分の意志で戻ったのに引き戻すのか?」
「お別れも言わないなんて」
「かえって可哀想だろう。このまま別れてやった方が彼のためだ」
ギリギリとハリスの指が食い込んでいく。リアをここに留まらせるためなのか、それとも自身も飛び出したい衝動を抑えているのか。
イツキのためだというハリスの言葉も理解できる。ここで追いかけたところで結局イツキが戻ることに変わりはない。
それならこのまま別れた方がいいのか。声をかけるのはかえって希望を持たせる可哀想なことかもしれない。わかっている。
リアの動きが止まれば、ハリスも力を抜いて離れていく。手首にうっすらと付いた赤い跡。その上をお守りがコロンと揺れて肌に冷たさを伝える。
わかっているけれど―――。
子供のように身を丸める姿を、リアに触れて安心している顔を、すでに知ってしまっている。
「やっぱり、行かなきゃ」
俯いて落とした声と共に駆けだす。ハリスが鋭くリアを呼ぶが、今度は手が届かないのをいいことに部屋から飛び出した。
「あの子、傘だって持ってないんですよ!」
リアだって手ぶらで出て来たくせに何を言っているのかと思う。しかし、雨に打たれて寂しそうに表情を落とすイツキが容易に眼に浮かび、そのまま足を止めずにどしゃ降りの中に躍り出た。
「イツキくん……どこ……」
そもそもイツキはこの街の地図を把握しているのか。もしかしたら警備隊の場所もわからず彷徨っていることだって考えられる。
風が強く吹き荒れ、雨は痛いほどに体を打つ。こんな状況で外に出て来る人などはおらず、人気のない薄暗い朝の街を駆け回る。
水路は溢れ、普段よりも早い速度で濁った水が流れていく。地面にうっすらと水の膜が張り始め、歩く度に大きな水音が響いた。
いくら声を張り上げても強風と雨で掻き消えてしまう。これではイツキに気づいて貰うことも難しい。
(どこに行っちゃったんだろ……)
宿の者に聞いたところ、イツキが出て行ってからそれほど時間は経っていない。そう距離も離れていないだろうと思ったが早合点だったらしい。
初めは冷たさに震えていた体も慣れてしまったせいか何も感じない。服の張り付く不快感を振り払いながら普段よりも大きな歩幅で街を進む。
「イツキくん……?」
大きな滴が線となって視界を遮る中、ふと視界に映った人影に足を止める。立ち止まればすぐ隣を流れる川の音が更に勢いを増した気がする。
ノストグは街を流れる川を区切りにしていくつかの区域に分かれている。そして、区域を移動するには橋を渡らなければならない。
リアの前方にはその橋が見える。路地などの隅にあるような小さな水路ではなく、川船が通れるほどの広さをもつ川を渡るにはそれなりに大きな橋が必要になる。
綺麗な弧を描いて対岸の住宅に繋がる橋の上に人影が一つ。目を凝らしてみるが多分子供だ。
リアの体は確信を持って進んで行く。橋の手前で一度立ち止まり、小さく呟いた。
「イツキくん」
橋の欄干に腕を置いて埋まっていた頭がゆっくりと上がる。リアと同じ黒い髪は雨に濡れて頭の丸みがさらに際立つ。青白い肌に張り付いた髪をそのままに、イツキは瞳にリアを映して兢々とした様子でリアの名を呼んだ。
「どうしてここに……」
「イツキくんが何も言わずに出て行くから……心配になって……」
いざ見つけたはいいが、何を言うかを考えていなかった。リアがまごついてる内にイツキは浮かない顔のまま伏せてしまう。
「一回帰ろう?暖まって三人で話をしてから行こう?俺もハリスも一緒に行くから」
「リアは駄目!」
消沈した様子から打って変わり、激しい声がリアに向かう。今まで見せたことのないイツキの苛烈な言葉に思わず踏み出しかけた足が止まる。
「イツキくん……どうして」
どうしてそんなに怯えているの。寒さだけが理由ではないほどイツキは身体を震わせている。恐怖を宿した瞳でリアを見ている。
一体何があっというのか。昨日までは変わった様子はなかったのに。
「落ち着いて、とりあえずこのままじゃ風邪をひくからどこか雨を凌げるところに」
畏縮する体を奮い立たせて距離を詰め、だらりと垂れたイツキの腕にリアの手がかかる時、瞬間的に身を翻してイツキが走り出した。
「イツキくん⁉」
「放っておいて!」
後を追うリアを突き放すように声を上げたイツキ。腕を掴んでこちらを向かせるように手を添えれば強い力で振り払われそうになる。
「お願い、何があったの?」
「いやだ、リアは早く宿に戻って!」
宥めようにも何もかも閉ざすように眼を閉じ、自分に向けられる言葉すらも煩わしいのか首を大きく振る
「俺に触らないで!」
パラパラとイツキの濡れた毛先から細かい滴が飛ぶ。瞳に入りそうになって瞼を閉じれば、乾いた音と共に手に痛みが走り、たたらを踏んだ。
「あっ」
よろけて上半身が欄干を超え、足が浮く。リアの体はそのまま後ろに倒れ込む。背後の濁流の気配がやけに強く感じられた。
状況に頭が付いて行かない。浮遊感だけが体を包む中でイツキが泣きそうな顔でリアに手を伸ばしているのが見えた。
一回り小さな手がリアの手を掴む。しかし、落ちる勢いは止められずにイツキの細い肢体もそのまま放り出された。
(駄目じゃないか、危ないことして)
リアよりも小さい体で支えられるわけがないのに。
触れた手を引き寄せてそのままイツキの頭を庇うように胸元に抱く。離さないように強く力を込めて背中を丸める。
せめてイツキだけは守らなくては、離さずにいなくては。回らない頭で何とかそれだけを思っていた。
「リアッ!」
遠くで自分を呼ぶ声。赤い色を持つ暖かいあの人の声。
「ハリス」
そう叫ぶ前にリアとイツキは荒れる水面に体を絡め取られた。
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