【完結】『ルカ』

瀬川香夜子

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一章

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 リアの足音が遠ざかり、ついには何の音も聞こえなくなった。それでもキッチンに二人は黙ったままだ。
 時計の秒針が微かな音を立てて回り、そうしてやっとソニーが重く口を開いて声を絞る。

「アンタ、見たところ貴族だろ」
「まあ子爵の家系ではありますが」

 大したものでは、とハリスは謙遜する。笑みは残したままだがどこかぞんざいな返答。ソニーはジッと何かを探る様にハリスを睨み続けた。

「お前、知っているんだい……?」

 掠れた老婆の声に、重みが増した。獣が警戒を表すように唸りを想像させる音。
 静かなキッチンに響いたソニーの声に、ハリスが初めて表情を変えた。朗らかな笑みは消え、真っ赤な双眸には芯から凍えるような冷たさが見える。

「なぜ、あなたが知っているんです?」

 ハリスから零れたのは答えではなく、同じような問いであった。しかし、ソニーにはそれで十分だった。
 「ああ」と漏れた声は、納得を示すかそれとも落胆か。ただ、ソニーの脳裏には最近生活を共にする一人の子供の姿。そして、そこに重なる影。

「まさか本当にそうとは……」
「え……?」
「いや……」

 ハリスの聞き返す言葉を知らぬ振りでやり過ごし、首を振る。ソニーから長く、重苦しい息が漏れた。
 まさか、こんなことがあるとは思ってもいなかった。これもまた、神の導きだとでも言うのだろうか。
 はるか昔に捨てた信仰心だ。憎しみを全て敬愛していた「神」に向け、ズタズタに引き裂いて殺してやりたいとすら思った。本当にその感情を向けねばならないのは自分自身だというのに。
 弱かったのだ。だから崇拝していた神に憎しみを背負わせ、自分の身を守った。
(罰を受けている気分だね……)
 天の世界で、今度はどう乗り切って見るのだと高みの見物でもしているのか。
 以前のように憎しみに体を支配させるにはソニーは年を取り過ぎた。心が疲れ切ってしまっている。かと言ってあの子に手を伸ばして救い出せるほどの力も、この老いぼれにはない。
 ただ、リアが自分で選んだ道を進んで行く姿を、見送るだけだ。

「私の質問に答えて下さい、ソニーさん。なぜ、こんな辺境の地に住まうあなたが、を知っているんです?」

 勝手に話を途切れさせたせいかハリスの低い声には苛立ちを感じる。そういう所はまだまだ若い。表情だけでも取り繕っている所はさすが貴族の子供と言うことか。
 力なく椅子にもたれた体のまま、ユルリと視線だけを上げた。ソニーの瞳には、ハリスの襟に着けられた金製のバッジが見える。
 丸いバッジの中央から左右に羽を広げたエンブレム。随分と久しぶりに見るバッジにあの頃の痛みが蘇る。
 ソニーもそれと同じものを、遥か昔に自身の襟元に着けていた。

「昔、色々あったのさ……」

 そう、色々あったのだ。その二文字では到底言い表せないほどのことが。
 ハリスはソニーの答えについに不快さを表情に出した。そんな顔をされてもソニーはこれ以上語るつもりはない。

「お前は、あの子をどうするつもりだい……」

 ハリスの厳しい眼差しが丸みを帯び、答えを探すべく唇が薄く開いて閉じた。

「……あなたには、関係のないことです」
「そうだね」

 もし、真実を知った時、あの子―リアはソニーになんて声をかけるだろうか。罵る?泣きつく?ひどい人だとなじるか?
 そのどれもが上手く想像できない。
 記憶を無くしたというのに悲しむ様子も見せず、ソニーとの暮らしを純粋に楽しんでいる子供にもし憎むように見つめられたら、あの青い瞳を向けられたら自分はどうするだろう……。

「彼のことは、以前から知っています。悪いようには……しないつもりです」

 嘘のつけない子供だと、初めて目の前の男の可愛らしい部分を見た。先程までの笑みでこの台詞を淀みなく言えれば、ソニーはきっとリアのことを引き留めただろう。

「嘘でも友人だなんて言わないアンタのことは、多少信用してるよ」

 他の腐った連中などよりはよっぽどまともだ。今だってソニーの言葉に気まずそうに瞳が揺れた。

「アンタはリアの隣の部屋を使いな……廊下に出て左側の手前の部屋だよ」

 話は終わりだと返事を聞く前に立ち上がった。カップをどうしようかと考えて流しにだけ置いておいた。今は後片付けまでしている気分ではない。
 久しぶりに昔のことを思いだしたからだろう。過去の幻影が身体に重くのしかかる。
 廊下に足を踏み入れる前に、チラリと振り返って赤い男を見遣る。考え込むように目を伏せる姿に、つい親切心で口を出してしまった。

「どうするかは、お前たちの勝手だが……後悔だけはしないようにしな」

 そうしなければアタシのようになるよ、とは言わなかった。知らなくていい。後悔だけを重ねてこの年までズルズルと生き残っているような者がいるだなんて。
 今度こそ背中を向けて自室に入る。電気も付けずに暗い部屋に差し込む月光をぼんやりと眺めた。淡く白い光の線から目を逸らすべく固く瞳を閉じて喉を震わせる。

「―――、」

 長い間呼ぶことのなかった名を久しぶりに紡いだ。胸に蘇るのは愛しい姿。そして相反する憎しみ、後悔。
 もうあの頃のような柔らかな音で呼んでやることも出来ない。皺の増えたあまり言うことのきかない手を握りしめ、縋る様に額に押し付ける。
 今も、あの頃の悔恨は薄れることはない。



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