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 すっかり冷え込んだ十二月の気候に、撫子はぶるりと体を震わせた。
 いつもの帰宅時間では、陽はとっくに沈みきって消えてしまい、真っ暗な冬のすんだ夜空が広がっている。
 ときどき街路灯に照らされながら家まで帰る途中で、ふと撫子は考えた。
 ――養父母や眞梨の中にも、撫子に対する愛情はあるのだろうか。
 彼女たちは心底優しい人だから、その優しさが愛情故なのかどうかが分からない。もしかしたら、捨てられた撫子への憐れみからかもしれない。
 どうやって判別したらいいのかも分からないし、咲恵たちのようになにかきっかけがなければそれを自分が知ることはないだろう、と撫子は思った。
 もしかしたら――と、撫子は夢想した。
 あの優しさの中に撫子に向けられる特別な愛があるなら……という幸せな夢想。
 それはあんまりに幸せな情景だ。
 すでに咲恵たちからの愛で胸がいっぱいな撫子では、これ以上の幸福は胸がはち切れてしまうかもしれない。
(家族になりたいな……本当の家族に)
 今まで心の奥で押し殺していた欲が、じわりじわりと心の中の黒いもやの向こうから滲んでくる。
 雅海と尚紀と眞梨と、俺も家族になりたい。
 三人の家族の輪に寄り添わせてくれるだけじゃなく、その輪に自分も入れて欲しい。家族なのだと、胸を張って他人に言いたい。
 こんなことを自分が思うなんて、信じられなかった。
 だって、いつだって自分はなにかを望んではいけないと思っていたから。他人からああしたい、こうしたいという欲を吐き出されることは、きっとすごく面倒なことなのだと思っていたから。
 自分がそんなことをしたら、きっとすぐに嫌われてしまうと、そんなふうに思っていた。
 以前の自分ならきっと心の中で思うことすら恐ろしく感じたはずだ。けれど今はこうして温かな夢を思い描ける。
 四条が気づかせてくれたおかげだ。
 世界がなんだかとっても愛情に溢れているように思えた。きっと優しくてあったかい香月の人たちだ。その中に一欠片ぐらいなら、撫子への愛情もあるかもしれない。
そう確信が持てた気がして、明日から先の未来は全て幸福しか詰まっていないような全能感に酔うようにご機嫌に玄関を開けて家に入った。
「あら、撫子くんおかえりなさい」
「雅海さんただいま。どうしたの? こんなにいろいろ出して」
 廊下には段ボールが数箱重なっていて、リビングのテーブルにも取り出した引き出しがそのまんま置かれていた。撫子に続いてちょうどリビングに入ってきた雅海に訊くと、すまなさそうに眉を落として「それがね」と苦笑した。
「年末に小学校の同級生と久々に会ってくるって言ったでしょ? そのことでさっき電話があったんだけど、つい昔話になってね。当時やってた文通の話になったの。話したら懐かしくなっちゃって探してたんだけど奥にしまったのか見つからなくて」
 すぐに片付けるからね、と急いだ様子で外に出した荷物を自分の部屋に戻していく。その後ろ姿に急がなくても大丈夫だと声をかけ、雅海が忙しいなら今日は一人で夕飯を作ってしまおうかとソファに鞄を置いた。
 顔を上げてキッチンに向かおうとしたとき、テーブルに置かれた引き出しが眼に止まった。そこにはなにかの書類が詰め込まれていて、一番上に薄く色づいたシンプルな洋封筒があった。よく手紙で使われる長方形だ。
そこに書かれていた差出人の名前に、撫子の心が一瞬で凍りついた。
「お母さんの名前……」
 少し右上がりの文字で書かれた母の名前。母に関するものを眼にするのは久しぶりだった。ゾワリと冬の冷気で撫でられたように心が寒かった。力が抜けたようにソファに座り、手探りに鞄を引き寄せた。冷たい金属のチャームを外し、縋るように星空のパズルを両手で握りしめた。
 呼吸は浅く、見なかったことにしろと理性がいっていた。けれど、迷子の子どもが親を見つけたように――心の中で、あの日置き去りされた子どもの頃の自分が母の面影を求めていた。
 ゆっくりと腕を伸ばし、おそるおそる封筒を開いた。雅海に見つかるという危機感はなかった。そこまで考えられるほど余裕がなかった。自分の全神経が、そこにある母の面影に見入っていた。
 封筒と同じ薄い色合いの一枚の便箋には、やはり右上がりの母の文字でそう長くない文章が綴られていた。
 挨拶もなく住所が書かれ、それが自分が六歳まで住んでいたアパートのものだと地名から察した。詳しい用件もなにもなく、住所の下にはこの子をお願いしますとだけ書かれていた。
 嫌な予感に心臓が速く鳴りすぎて痛い。このまま見なかったことにしたい。けれど、撫子は突き動かされるように封筒の中に手を入れ、封入されていたもう一枚の紙を取り出した。
 幼い子どもが一人映った写真だった。あまりにも見覚えのありすぎるそれは、記憶の中の自分と同じ姿をしていた。
「あ、ああ……」
 わなわなと震えた手から手紙が滑り落ちる。両手で口を押さえた。そうしないと情けない声が漏れ出そうだったのだ。頭の中でさっきまでたしかにあった幸せ虚像がガラガラと音を立てて崩れていく。
 眼球の奥が痛いほどに熱く、手が濡れていて、それが涙のせいだと遅れて気づいた。ボロボロと絶え間なく溢れる涙に押し出されるように、心の内で叫んだ。
(俺を愛してくれていた訳じゃなかった……!)
 残った理性で口に出すことだけは耐えた。それでも、涙だけは止められなかった。
「ごめんね撫子くん。そっちもすぐに片付けるから……ど、どうしたの?」
 泣き崩れるようにソファに項垂れていた撫子に、雅海は慌てて駆けよって膝をつくと、おろおろとした様子で撫子を覗き込んだ。
 その表情はまるで撫子を心配しているようで――その中に自分への愛情が一欠片でもあるのだと、ほんの少し前の撫子は信じていた。
(でも違った……)
「雅海さんたちはどうして俺なんかを引き取ってくれたの」
 震える声で訊くと、雅海は急にどうしたのかと不思議がった。そりゃそうだろう。撫子は頑なに当時の話をしなかったから。察した養父母たちも実の母のことや、撫子を引き取る前後のことは当然話題にしたことはない。
 ふと、雅海が床に落ちた便箋に気づいた。みるみる瞳が見開かれ、はっとして顔を上げる。
 気づかれてしまった――雅海がそう思ってあたふたしているのだと撫子は思った。彼女の態度が、撫子の推察を確信させる。
 切さなさや悲しみ、失望……さまざまな感情がぐっと喉元をせり上がって来て、でもそれを目の前のこの人に投げ捨てることも出来ず、撫子は逃げ出すように立ち上がって廊下を走り抜けた。
 乱暴に靴に足を突っ込み、爪先だけ引っかけるようにして飛び出そうとした。が、ちょうど眞梨が帰ってきた。急に開いたドアに、ぶつからないように咄嗟に身を引くと、よろめいて後ろのシューズボックスにぶつかった。その衝撃で、ボックスの上に飾られていた花瓶が落ちて盛大に割れる。
 眞梨の短い悲鳴とともに、雅海が撫子を追いかけて廊下に出てきたのが気配で分かった。
「お兄ちゃん大丈夫!?……お、おにいちゃん?」
 割れた花瓶から視線を上げた彼女は、泣いた兄の表情に信じられないものを見るように眼を見開いた。
 どうしたの? そう問われ、伸びてきた腕を避けるようにして、開いたままの玄関から夜の住宅街に飛び出た。
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