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しおりを挟むそれは冬の寒い日だった。布団を出るのも億劫な日で、どうにか頑張って這い出たとき、いつもなら昼まで寝ている母がすでに起きていてひどく驚いたのを覚えている。
てっきり撫子が寝坊でもしたのかと思ったが、まだ朝の九時を回ったころで遅すぎるということはない。
どうしてだろう、と不思議に思いつつ、母と一緒に朝食をとった。そのあとすぐに母がメイクを始めてしまったので、撫子はいつものように部屋の隅で膝を抱えながら、頭を疑問でいっぱいにさせていた。
(いつもならお昼に起きて、午後は散歩がてら買い物に行くのに……)
仕事のために化粧をするのはそのあとだ。まだ昼にだってなっていない。
どうしてだろう? 今日はお仕事早いの?
いつもと違う母に色んな疑念が頭を過るが、一つだって口に出来なかった。あれこれ訊いたら、面倒だなって思われるかもしれない。そう思うと、撫子の喉は栓をされたみたいに閉じてしまう。
母はいつものように目元や頬にブラシを走らせ、最後に鮮やかなルージュを塗った。そうしていつもみたいに振り返る前、鏡の中の自分を見つめながらふと静かに撫子を呼んだ。
「ねえ、撫子……」
てっきりいつもの言葉がくると思ったから、撫子は出鼻を挫かれた気持ちだった。戸惑って、でもなんとか「なーに?」と返事をする。
すると、一拍おいてから母が振り返った。いつもの自信に満ちた顔ではなく、どこか不安そうな、子どもみたいな顔。でも、唇だけは口角を上げて綺麗な笑みを作っていた。
「撫子はさ、お母さんのことさ……」
「うん」
撫子の相づちとともに、母は言葉を探すように口を閉じた。迷うに、そしてどこか怖がっているようにも見える。
一体どうしたんだろう。なにを訊かれるのかとドキドキする撫子の緊張を余所に、やがて母はさっきまでの動揺は嘘みたいにいつもの顔で笑った。
「お母さん、可愛い?」
「うん。今日も可愛いよ」
見慣れた笑顔に、撫子はほっとしていつもの言葉を返した。
なんだやっぱりいつも通りか。そんなふうに内心で胸を撫で下ろす。
だが、母は撫子の言葉に満足そうに笑うのでもなく、どうしてか噛みしめるように瞼を閉じた。そして眼を開けたときにはいつもの天真爛漫な母だった。まばたきのような一瞬のことだったけれど、普段とは違う母の姿に、落ち着いたはずの撫子の胸騒ぎが再び大きくなる。
ねえお母さん、ほんとうにどうしたの?
喉まで出かかったが、母がニコリと笑ってキッチンに向かってしまったのでタイミングを逃してしまった。
「撫子、お腹が空いたらパンがあるからここから出して食べるんだよ? 冷蔵庫にはジュースもあるから」
「……お母さんは食べないの?」
いつもお昼は一緒に食べてたのに……と、つい訊いてしまう。
「お母さんはそろそろおうち出ないといけないから……だから、撫子だけで食べてね」
出来るでしょ? と笑顔で首を傾けた母に、撫子は淋しさを隠して頷いた。
いつの間に準備していたのか、玄関に置いてあったキャリーケースを手に、母が出て行く。玄関扉が開いて、冷たい外気が入り込んできた。足元を掠めていく冷えた空気に、撫子の胸にも冷たいものが走った。
一歩外に出た母の姿が、陽差しの眩しさで一瞬白く消える。途端に腹がずんと重くなって、叫び出したいような、そんな思いに駆られた。
お母さん、どこ行くの? 帰ってくるよね? 行かないで――淋しいよ。
体いっぱいに膨らんだ感情を持て余し、上がり框ギリギリのところで立ち尽くす。そんな撫子を一瞥して、母はゆっくりと扉を閉めた。
「じゃあね、撫子」
そう言った母の顔は見られなかった。胸に広がる嫌な予感に困惑して俯いていたのだが、母の声に顔を上げたときには、すでに扉は閉まってしまっていたからだ。
ハッとして靴も履かずに土間に下り、ドアノブに手をかけた。けれど、力を入れて押し開けようとしたときにふと、開けて良いのだろうかと疑問が頭をもたげて躊躇ってしまう。
(お母さんは仕事に行っただけかも……それなら、追いかけていったって迷惑になっちゃう)
今まで必死に自分の感情を押し殺し、いい子をやってきた。望まれることをして、望まれる言葉を言って。なのにそれをふいにするようなことをしていいのだろうか。
そろそろと後ずさり、撫子は上がり框に腰を下ろす。そうして、自分の膝に額を押しつけるように体を丸めた。
(大丈夫。お母さんは仕事に行っただけ。ちゃんと帰ってくる……・)
いつも通り朝になったら帰ってくる。そう思い、撫子はどうにか心を落ち着かせようとした。けれど、部屋に戻る気にはなれなくて、ずっと玄関で膝を抱えて丸くなっていた。
高い場所にあった陽が沈んで頃には、土間の冷たさで足がかじかんで感覚もなくなっていた。
明かりを点けにいくこともせず、撫子は一歩も動かずに母を待った。真っ暗になったアパートの中で、必死に何度も何度も大丈夫と繰り返しか細く呟いた。
バタバタと忙しない足音が聞こえてきたのは、陽も暮れてずいぶん時間が経った頃だ。扉越しに焦ったような男女の声が聞こえ、母だろうかと撫子がおもむろに顔を上げたときに扉が開かれた。アパートの外廊下の照明が差し込み、女性が血相変えて飛び込んで来る。
「沙織ちゃん! 沙織ちゃんいる!?」
その人は、母ではなかった。黒いショートヘアの女性は、気が強く見える母とは似つかない優しそうな顔立ちだった。彼女は撫子に気づくと、ハッとしたように膝をついて顔を覗き込んで来た。その後ろで、彼女と同じ年頃の穏やかな風貌の男も腰を屈めて心配そうに撫子を見た。
女性には矢継ぎ早になにかを訊かれたが、撫子は答えている余裕はなく、入ってきた大人を虚ろに見渡した。
見知らぬ男女に、一番後ろにいるのは数回顔を見た大家のおばさんだ。母はいない。そのことに絶望を感じた。そして、ずっと胸に押し殺していた不安が現実味をもって襲いかかってきた。
まず入ってきたのが母ではなかった。その事実が、撫子の中の漠然としていた予感に輪郭を持たせていく。絶望で、撫子の思考は停止していた。
足元からのぼってくる冷たい感覚は、きっと土間の冷たさだけではなかった。
――ああ、ついに母は飛び去ってしまった。
そう思った。脳裏に、春にみた蝶の羽ばたく姿が思い出される。
自分の存在も、今までの努力も全部がちっぽけで意味のなかったことに思え、撫子は泣くことも出来なかった。自分の無力さと、実の母からすら捨てられた自分の価値のなさをまざまざと見せつけられ、ただ呆然とするしかなかった。
そうして撫子は一人ぼっちになったのだ。
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