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しおりを挟む撫子は六歳の冬まで、母と二人で小さなアパートに暮らしていた。
母は明るい茶髪を巻いた、美しい女性だった。真っ白な肌と、つり目がちなキリッとした瞳。真っ赤なルージュも相まって、黙っていると怒っているようにも見える気の強そうな容姿だったが、実際はコロコロと鈴の鳴るような声でよく笑うような明るい人だった。
派手めなメイクと、足がよく見える短いスカートを履いて、母は夕方、日が沈みきるまえに仕事に向かう。帰ってくるのは撫子が寝ている深夜のことだ。明け方、撫子が起きるころに帰ってきたこともあった。
昼近くまで寝て、風呂とご飯を済ませ、また仕事に向かう。昼間は母が家にいるので、撫子は幼稚園などの保育機関に通ったことはない。そのため、同世代の友人なんて一人もいなかったし、母と1Kのアパートの小さな部屋が、撫子の世界の全てだった。
狭い家の中、撫子はいつも母の後ろをついて回っていた。仕事で使うメイク道具や衣装以外は全てにずぼらで頓着しない母だったので、撫子が先回りしてバスタオルや着替えを用意しないと、びしょ濡れの体のまま服を探して歩き回るからだ。
けれど、仕事に行く前、母が鏡に向かってメイクをしているときだけは、部屋の隅に膝を抱えて座って静かにしていた。
最後に色の濃いルージュを塗ると、左右に顔を振って出来栄えを確認してから、母はくるりと撫子を振り返る。
「撫子、どう? お母さん可愛い?」
訊かなくても分かってるんじゃないかな。思わずそう思ってしまうような、自信に満ちた笑顔で母は言う。
きっと言葉にして欲しいんだろうな、と言葉の真意を悟った撫子はうんと頷いて言った。
「お母さん、今日も可愛い」
毎日同じ言葉、同じ笑顔。それでも母は、つり目がちの瞳を蕩けるように細め、「ありがとう」と美しい顔で言うのだ。ふふっ、とこそばゆそうな、くすぐったがるような母の笑い声が部屋に広がる。
その瞬間が、撫子は好きだった。母が笑っていて、パッと明かりがついたように部屋の中が明るく感じられた。ぽつりと胸に蝋燭みたいな一つの灯火が宿って、じわじわと小さな撫子の体を温める。
くるりと巻かれた長い茶髪が、母の笑い声に合わせて揺れている様子は、ひらひらと蝶が舞っているようだった。
そう、母は蝶のような人だった。撫子には、そう見えた。
コロコロと喉を鳴らして美しく笑う姿は温かい春を思わせる。一方で、撫子は母がいつか遠くに行ってしまうような、そんな薄ら寒い予感を覚えていた。
蝶のように音もなく軽やかに飛び去ってしまう。そんな理由のない不安に襲われ、ちょこちょこと母の後ろをついて回る。居心地が良ければどこにも行かないでくれるだろうかと、撫子は母の望むことを探しては先回りして動き、そして望む言葉を口にした。
「沙織はよ、きつそうに見えて馬鹿みたいによく笑うだろ? みんなあのギャップにやられちまう」
そう言ったのは、母に連れられてやって来た何人目かの男だった。
母はアパートに時々男の人を連れてきた。頻度はまちまちで、数回顔を合わせる人もいれば、一度会ってそれっきりの人もいた。
初めは父親だろうかと子供心が疼いたものが、母や男の口ぶりからするに違うらしい。
男女の性愛を匂わせるような行動を目の当たりにしたことはないが、母の恋人なのだろうというのは幼い撫子にもなんとなく察せられた。
その何人目かの男は、いつも煙草の煙たさを纏っていたので撫子は苦手だった。
母がちょうど近くのコンビニに買い物に行っていて、撫子は男と二人だった。狭いアパートの中で、男は肘を立てて寝転んでいた。浅黒い肌に筋肉質な上背のある男で、母と二人の時には感じなかった圧迫感が幼い身体を小さくさせた。
膝を抱えて丸くなる撫子に、男は怯えているとでも思ったのか、カラカラと笑った後、何事もなかったように話を続ける。
「よく笑うけど、あいつは面白くて笑ってんじゃなくてよ。ただその場を上手くやり過ごすために笑ってんだよな~」
なに考えてるか分かんねー女だぜ、と男は胸ポケットから煙草を取り出して一本咥えた。男は気味が悪いというように言葉を並べたが、その顔は笑っていて母のそんなところも気に入っていたのだろう。しかし、幼い撫子にはそんな男の機微など分からず、額面通りに受け止めて母を悪く言われたと思い、ムッとした。
「部屋の中で吸ったら、お母さん怒るよ」
眉を寄せて言うと、男は今しがた火を点けようとしていたライターを持つ手をピタリと止めた。そしておもむろにポケットに戻す。咥えたままの火のついていない煙草を、拗ねたような顔で揺らして遊びはじめた。
生まれてこのかた、母と二人の生活だったので撫子は男性に対してどういった接し方をしていいのか分からない。母の恋人なら、撫子も上手くやらなくてはいけないのかと思ったりもしたが、母は撫子になにも求めなかった。愛想をよくしろとも、良い子でいろとも、なにも言わない。
いつも黙り込んで母の後ろに隠れているだけだが、それに関しても邪魔だともどこかに行っていろとも言われない。
だから、男とはほどほどの距離を保って、じっと観察するのが撫子のいつものスタイルだ。いつだって物静かで表情に変化のない撫子が、面白くなさそうに口をついたのが意外だったのか、男は煙草を遊ばせつつ撫子をまじまじと見た後にニヤリと笑った。
「ああいうのはよ、誰にも見せねーもんを腹に抱えてるもんだろ? お前はそれがなんだか知ってんのか?」
腹ばいになって、不意に男が身を乗り出すように撫子を窺う。好奇心に疼く男の瞳をチラリと見て、撫子は顔をぷいと逸らした。
「さあね」
本当は男が言った言葉は難しくて撫子はちゃんと意味を理解していなかった。ただ母のことを訊かれているのは分かったので、それに分からないと答えるのはなんだか悔しかったのだ。だから明確には答えなかった。
生意気な撫子の言葉に男は気分を害した様子もなく、むしろガハハと大きく笑うと、随分と乱暴な手つきで頭を撫でてきた。
ぐわんぐわんと力強い手の動きで視界が回る。撫子はムスッとした顔をしながら仕方なく受け入れていた。
多分、心の中では嬉しかったのだと思う。大人の人と……誰かとこんなふうに気安く触れてもらったことはなかったから。
(そういえば、お母さんに撫でてもらったことってないかも)
ふと、そんなことに気づいた。
母に怒られたことも、叱られたこともほとんどない。けれど、褒められたことも触れ合ったことも撫子の短い記憶の中にない気がした。
多分、世間一般の親子がするような、手を繋いだり、頭を撫でてもらったり、抱きしめてもらったり……そういった、愛からくる触れあいを、撫子は母としたことがあっただろうか。
(……してもらったことないや)
途端に、撫子は泣きたいような切ない気持ちになった。淋しさが体を包んで、ぎゅうぎゅうに押しつぶされているみたいだった。
急に沈んだ様子の撫子に、男は首を傾げていたが気にする余裕はなかった。
男の問いかけを思い返す。
母はいつも笑っていて、撫子だって笑顔以外見たことがない。けれど、それでいいと撫子は思っていた。
だって笑っているということは、楽しいということだから。そう安直に考えていたが、男の言葉を聞くに、それは上辺だけだという。
ぐるぐると考え込んでいるうちに、コンビニ袋を掲げた母が帰ってきた。
ただいま、と笑う母に、撫子と男がおかえりと返す。
「部屋の中で吸うのはやめてよ」と、煙草を咥えたままの男に母が釘を刺すと、男は聞いてるんだか聞いてないんだか分からない返事で答えた。
そんな男の様子に、「もう」と母は笑っていたけれど、男の言葉を聞いた後の撫子にはどこか作り物めいて見えてしまった。
(お母さんは、いつもなにを考えてるの?)
今の笑顔も嘘? いつも、本当は楽しくない?
ぐるぐるした不安が幼い体を襲う。けれど、そんなこと怖くて母には訊けなかった。
だって頷かれたらと思うと怖いのだ。自分と一緒にいることが、母にとって退屈だなんて考えたくもない。
狭いキッチンで母が食材を広げ始めると、男が興味深そうに母の背中から覗き込んでいる。
そんな二人の姿を後目に、撫子はぎゅっと膝を抱えて膝頭に顔を押しつけた。そして、眼が痛くなるぐらいに力を込めて眼を瞑った。
暗くなった視界に、春のころに窓から見た蝶の姿が浮かんだ。ひらひらと風に流されるように音もなくどこかに消えてしまった美しい蝶。母もあんなふうにどこかに行ってしまうのだろうか。
頭を過った不安に、撫子はぶんぶんと頭を振って決意した。
(大丈夫。いい子でいれば大丈夫)
母が望むことを言って、母が過ごしやすいようにいうことを聞くんだ。
しかし、そんな子どもの決意なんてなんの役にも立たなかったと、撫子は翌年の冬に思い知った。
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