紫玉

Nick Robertson

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「いつから見てたんだ?」
「かなり最初からだよ」ニックは平然と答える。「えっと………あのね、あのモンスターとの攻防でね、実は怪我人出てるってこと、知ってる?知らないでしょ」
「嘘をつけ」

男は即座に否定する。この山に家なんか見たこともない。つまり住人はいない。

「…僕ら冒険家はみんなでここに登ってたんだよ。みんなって言っても三人だけど」
「登って…」
「そうそう。で、近くで爆発音みたいなのが聞こえて、地面がグラグラー、って」
「それで怪我?」
「うん、一人、足挫いちゃったの」
「それは…悪かった」

男自身、山に住んでいるわけではない。でも、そこに毎日やって来る。
それなのに、冒険者が登る可能性を考えなかったとは、トホホだ。

「で、大丈夫なのか?そいつは」
「うん。たいしたことないよ。サキって言うんだけど、あいつちょっとオーバーなんだ。『痛ーい痛ーい』って叫び回ってたけど、見たところ少し腫れただけだね」
「えええ…」
「サキはもう一人の仲間に抱きかかえられて下りて行ったよ。だから感謝してるんだ」
「は?」
ニックが試すように男を見ている。

「それは、どういう…」
男がそう言いかけると、何の前触れもなく地面が傾き始めた。

もちろん、男はそのことを瞬時に理解するほど頭の回転が速くなかったので、最初は手を地面について四つん這いになることが精一杯だった。

だが、ニックはスラリと弓を構える。
「…ケンが凄いことは認めてるんだよね、僕。だから興味あるんだ。後でゆっくり、あの子たちについても聞かせてよ。リリーとルルのこと…」

その直後に男の、ただでさえ極限まで細くなっている目に砂が入って視界がくらんだ。
風も力強く走っているらしい。髪はほつれて首にへばりつく。

それでもまたニックが見えた。
何も聞こえなかったが、ニックの口は「頑張ってね」と確かに動き、その目元は笑っていて、首は少し揺れていた…。

山頂めがけて去っていくニックを見ると、男の脳内はやはりスローモーションになった。苦しいくらい全てが遅い。だから震えてしまいそうだと思った。
………


「おじさーん!」
「さーん!」
リリーとルルが気絶している男を呼び覚ます。

「あ、あ…?」
「もう朝だよー、なんつって」
この声は…ニックである。

「なんで…俺…」
男が頭を振って、まだぼんやりしている視界を直していると、
「疲れたんでしょ」とニックが先陣を切り、
「大変だったもんねー」
「ねー」というように続いた。

「さっきは、えっと」
「もう終わったよ」ニックは、君の言うことは全て分かっているんだぞとでも知らせるように説明する。「僕らはね、今日ここでモンスターを倒そうってことで来たんだよ。でも、先を越されちゃったなあと思って」

「はあ」
「でも、君達みたいに派手にやるつもりはなかったんだけどさ。『静かに上品に穏便に』がモットーの冒険者チームだから」
「はあ」

男はどう返せばいいか分からなかったので、とりあえず「はあ」で済ませる。

「さっき山がパックリ傾いたのはね、ドラゴンの奴と比べ物にならないくらいおっきな怪物が山を割って出て来たからなんだ。僕らは感知能力で知ってたんだけど」
「はあ」

「おじさん起きてる?」
「てる?」
リリーとルルがウズウズと問いかける。

「あ、ああ…」
「うーん、寝ぼけてるね」
「てるね」
「いやいや、そうでもないんだぞ、これでも」
男は真面目な顔を装った。

「でも凄いね!僕、いつ助けようかとずっと頃合いを見計らってたんだけど、どんなピンチの状況でも切り開いていくもんだから、弓を持ったままビックリして動けなかったよ」
「はあ…」

男が気の抜けた返事を連発した時、向こうから「おーい!オッケーだよー」という高い声が聞こえた。

「はーい!サキー!じゃあすぐ行くー!」
「え?すぐ行くってのは…?」
「君達があんまり無茶したからだよ」ニックが笑いながら言う。「逃げなくちゃ」

(ところで、まだ男の体は完全に目覚めたわけではなかった。本調子ではなかったということだ。だが、そんなこと御構い無しにニックはリリーに指示を出して、男はすぐに鳥になって無重力を感じていた。こーゆーことを、ループ、繰り返し、またはデジャヴ、既視感、などと言う)
………

「はい、到着ー!」
「はーい!」
「はーい!」
「ほんっとに感心するよー!僕らのチームが置いてけぼりにされそうになったのは初めてだよ!」

だが、ニックは息を切らしていない。それどころか、チームメイト二人を両脇に抱えているのだ。

「…で…でも、ゴホッ、結局はぁ、ついて来れてるくせにぃ」動いてもいない男が一番息を切らせているとはこれいかに。

「ははは、僕も頑張ったんだからね!ここからは追っ手もいないだろうし、ゆっくり行こうよ!話しながらさ!!」

ニックが笑うと同時に、オエエエ、と嫌な音がした。
サキが吐いたのだ。

「…あーあー!サキ、山に登るって言っただけでご飯を食べ過ぎたんだな!どーせそんなとこだろう!だから僕は『そんなに高い山じゃないんだよ』って念を押したじゃないか!!」
「そうじゃなく……、慣れないんだよ…なあ…。この、空中ブランコ…」

空中ブランコとは、絶対にニックに運ばれることを指しているんだろう。男は無意識のうちに同情して、彼女の背中を撫でていた。男の他にも似たような人はいたのだ。時折忘れそうになるが、このような反応をするのが普通である。いわゆる「一般人」では堪えられない、と。

それから休憩時間も終わりを迎えて、ゆっくりとみんなで歩き始めた。まずは自己紹介からだ。


/リリーとルルは、小柄な少年で、顔もそっくりだ。でも、ちゃんと見分ける方法がある。赤い目で、二人並んで立つと少し背が高いのがリリー。青い目で、髪が微妙に、いや、かき分けないと分からないくらい微々たるものだが、茶髪がかった毛が数本混じってるのがルルだ。どっちがリリーかどっちがルルかということは、大抵の人は背丈で判断する。王宮に仕え、書類の配達なんかを頼まれている。とにかく速い。

男は代々銃を扱う家に生まれている。両親のことは話したがらないのでみんなも聞かない。冒険者なら親とは別れるものだが、この男は違う。ケンと呼ばれているが、これはカタラ肉屋のオヤジが勝手に命名したモノである。男によれば、カタラ肉屋は男の父の面倒も見ていたという。狩りの方はほとんど失敗するが(何しろ動物も数が限られているから、無理はできないので)、時々成功した時に受け取った金で生活している。山にはそれでも毎日赴く。

ニックは冒険者で、「サイロッグ」というチームのリーダーである。チームの名前は響きが良さそうだからという理由でニックがつけた。それから普通はチーム勧誘を行うところだが、ニックはそれをせずに独りでニコニコ任務をこなしていたらしいが、最近二人の仲間が入ってきた。追わず拒まずの彼はすぐに了承した。

テトラもサイロッグのメンバーである。彼は周りの人間を近づけないようにする役なんだそうだ。まだ弱いとはいえ、結界(見えない壁)を作れるらしい。だから、ニックが戦っている時に押し寄せてくる観客を止める仕事を請け負っているのだ。邪魔にならないように。さっきの戦いでもその力を遺憾なく発揮して、(モンスターが出した風なんかで二、三回破壊されたそうだけど)みんなを中に入れないようにしていた。いわく、街の自衛団や警察に見つからないようにするのが一番大変だった、らしい。

サキはサイロッグへ、三日前に入って来た。テトラに誘われたのだ。なぜ誘ったかを聞くと、ニックがいそいそと答えようとしたが、テトラにしばかれた。テトラの顔は真っ赤だった。でも、あんな反応をしていれば薄々サキも気づくだろう。攻撃なんかは術が使えるのにカラキシ駄目で、それは敵を見るとビビってしまうからである。だから回復魔法を使う役割を担い、万が一の万が一、ニックが怪我した時の保険として参加している。だが、大抵は自分で怪我をして自分で癒している。/

「…ところでこれからどこへ行くんだ?」男がニックに聞いた。
「君は港街の人?」
「そうだが」
「こっちはその反対の街に行く道だよ。森の上ね」
「上か…」

モンスターと戦って平らになった山を皮切りに、森林はずっと続いているようだった。

「ねえ、おじさんはこの先に行ったことあるの?」リリーが口を挟む。
「あるの?」
「ねえな。危ねえって言うし…」
「そう、危なーいんだよ?」ニックがリリーとルルに対して、怖い顔で語る。一生懸命に表情を作り出しているのはバレバレだ。

「どう危ないの?だっておじさん達はそこから来たんでしょ?」
「でしょ?」
「おじさんじゃないよ。『男は全員おじさんだ』と言う考え方を改めるんだ。……例えば僕はお兄さん!そうだな、又はニックって呼んで」
ニックが頬を膨らませて不満を示す。

「じゃあニック」
「ニックぅ」
「うん、そっちの方がいいや。……確かに僕らはそこから来たんだけど、ほら、僕、強いからさ」
ヒョロリと細い力こぶが服から覗く。

「ふーん」
「ふーん」
「だから、僕達から離れちゃダメだよ?」
「分かったぁ」
「分かったぁ」

川に沿って歩いて行くようだ。
男は後ろを振り向いて、どうりで追ってくる人はいないわけだ、と思った。もしここの居場所が突き止められたとしても、誰も来ないだろう。ここを通るのは、きっと余程自分の実力に自信があって、なおかつ変わったモノが好きという人くらいだろうから。
……

「ここ注意ー、この植物に触ったら呑み込まれるからねー」先頭のニックが呼びかける。
どこまでも長く続く森には、仕掛けも無数にあって、どれだけニックが教えてくれても、彼以外の全員は、どれかには必ず引っかかった。

どんな危機に陥ってもニックが助けてくれる確証があるからいいが、できれば森は避けて欲しかった。

ニックは、「遠くに何かいるねえ、大きい狼みたいな奴だなー、刺激しないように慎重に進んで!物音を立てないように」というふうに、コソコソと警告することもあれば、
「あ、こっち来る」と喋った後すぐに射抜くこともあった。

リリーやルルは最初は一番威勢がよかったが、もう目がトロトロしてきて、瞼がドロンと落ちかかっている。

「くあー」
「あー」
「…君達よく眠くなれるもんだね。いつ襲われるかわからないのに、まるで緊張感が無いんだから。ま、ここら辺は安全っぽいけどさ」ニックが眉を上げて鼻から息を吐く。
「もう、くあー」
「あー」

二人とも倒れてしまった。

「お疲れ様。じゃ、今日はこれくらいにしとく?だいぶん暗くなってきたしね」
「うう、あー」それを聞くと途端に力が抜けて男もストンと腰を下ろした。

「おやすみー」
「ふあーあああ」
「テトラー、ちゃんと結界、しろよー」
「分かってる」

横になったサキをチラチラ見ているテトラをからかって、ニックが言った。
それから夜。夜、夜ーーー

「…なんだ、起きてるのか」ニックが目を開けている男に気がついた。
「…俺、意外と神経質だからな。どんだけ疲弊してても怖くて寝つけねえ」
「大変だねえ」
「全くだよ」

よっこらしょと男が起きた。
「はあ、俺もぐっすり眠ってみたいんだけどな」
ルルの頭を撫でる。

「…リリーちゃんととルルのこと、好き?」ニックがそっと聞く。
「…ああ」男はすぐに答えた。こいつに嘘は通用しないと思った。

「うん」ニックは強く頷いた。「…せっかく今起きてるんだからさ、深夜まで目を開けててよ」
「どうしてだ?」
「星が綺麗だからさ」夜の闇のせいか、ニックの声はひときわ澄み切って聞こえた。「特に、木に登って見た時の」
……

「なるほどな」結局、男は起きていた。
ニックに引き上げられて太い木の枝に腰を下ろすと、壮大な空。

「…この感動をさ、何度も誰かと共有したいって思ったよ。同時に、独り占めしたいとも思ったかなあ。最初ここに来た時は、ギルドってトコに冒険者登録したすぐ後でさ。…それにしても、考えてみるとあんまり僕にとって意味無い所なんだよなあ。ギルド、ギルドか。港街にもある?」

「あるな。多くの奴がそこに登録してる」
「…はあ、やっぱりそうか。君はやめといた方が良いよ。楽しくもなんともないから。依頼を選んで、それを遂行して。ただそれだけ。別にギルドにいなくてもできることでしょ?そんなの。それなのにギルドの信頼はますます厚くなったりして」

「知ってるよ。所属なんて絶対にしないから。まず俺には登録料さえねえんだ」
「そっか。……そんな生活の方が素敵かもしれないね。生活に必要なだけの動物を獲って」
「まあ、俺はこれが普通と思って育ってきたからな。…あ、俺これからどうなるんだろう」

「山、無くなったからね……。どうだろう、今僕は一番デカイモンスターの目ん玉持ってて、これをギルドに提出すれば幾らかまとまった収入が入るんだけど、一部あげようか?」
「…要らねえな」
「…だよね」

静寂になると、動物達の寝息も聞こえてくるようだった。
空からは柔らかな光が絶えず投げかけられている。

男が下を見ると、ぼんやりとみんなが見えた。輪郭ははっきりしないが、二人でくっついているのがリリーとルルだろう。
こんな時でも夢は見えるものだろうか、と、ふと考えた。
夢といえば、俺が見ているこの幻想的な風景こそ、それらしいのに、と。

するといきなりニックが右手を上げて、シュッと黄緑色の球を投げた。
一瞬辺りが明るくなって、また暗くなる。
「どうした?」
「いや、テトラの結界を崩せるくらいの大物がこっち狙ってたから、牽制しただけ」
「へえ」男は軽くそれを流した。

「…眠くないの?……なんだかどんどん覚醒してるみたいだけど」
「ああ、冴えてるんだよ。興奮してんのかな」
「そう、かもね」
ニックの声の調子がおかしかった。男を心配しているようにも聞こえた。

「…そういや、お前、…ニックは、どうして弓を使うんだ?」
「……それは『どうして君が銃を使うのか』っていう問いと同じじゃない?」
「いや、だって…、俺は魔力の集束が下手だから、筒に魔力をはめ込んで強制的にやってんだ。でも、ニックは魔力を扱うのが上手いじゃないか。さっきも当然のように魔力玉を放ったし」

「この弓はね、持ってるだけでグングン魔力を吸収していくの」
「じゃ、もっと要らねえじゃんか」
「僕の魔力量は多過ぎて暴発しちゃうから、その防止になるんだ」
「贅沢だな」

「そうかも」静かな笑顔が青白く浮かび上がる。「…それに、この弓は魔力を吸収するごとに強くなっていくんだ。だから、使い込むほど弾く時に威力が出る。そのまま放つより何十倍も強いんだよ。でも、一番の理由はね」

男の方を向く。
「…君もね、なんか似てると思うんだ。君の父さんも、そのまた父さんも、みんなその筒を持ってたんでしょ?だってそんな銃見たことないもの。失礼かもしれないけど、君が考案したとは思えないしね。…ひっそり受け継がれてきたんだよ。……多分、最初にその筒を作った人は、この道具が継承されることを知ってたんだ」
「?」
「ほら、装飾がこんなに凝ってる。色んな手に渡ってるから、だいぶ削れて薄くなってるけど…。これは数日で彫れる模様じゃない」
「そうなのか…」

古びた筒を月にかざすと、本当にチラチラと線が刻み込まれている。
それを眺めていると、一度にたくさんの思いが溢れてきたから、体の外にまで出てきそうだったから、思わず顔を上げて月を見た。

月の周りは白い煙で覆われたようになっていて、星もそこだけ少なかった。だから、ぽっかり浮いているようだった。

「でさ、魔力も相当帯びてるんだよね、それ。でも、彫刻が消えかかってるってことは、それだけずっと使い続けられてきたってことだと思うんだよね。だから僕は君を、君の一族を尊敬したい」

ニックの言葉が、耳の奥で幾重にもこだまする。
まだ眠気がどこかに残っていたのだろうか、ほろ酔いの気分だ。それも、躍起になって飲んだ酒ではなく、穏やかに酒盞を傾けた時の。カタラ肉屋のオヤジは、男の機嫌が理不尽に悪くても、逆に良い場合でも、安酒をおごる癖があった。何気なく受け取っていたが、男の父にも同じことをしていたのかもしれない。

「…」男は何も言わなかったが、ニックは楽しそうに続けた。
「……僕の弓はね、小さい頃に自分で作ったものなんだ。最初は魔力を取られ過ぎてフラフラしたっけ。魔力を吸い取るような術を施してくれるのは決まって母さんだった。うん、ほら、道具に対する思い出って凄くあると思わない?」

今日戦いの最中に男が思ったことだ。鼻の奥がツンとして、男は困ってしまう。
「…それが最も大きな理由。もうこの道具を使わないのが惜しくて惜しくてしょうがない。……時々考えることはあるよ、この弓が無い生活」
男は、そんなことは想像もしなかったが。

「…きっと万事うまくいくはずなんだ。別に、何か手に持っていたいなら他の道具もあるわけだし。…でもね、過去が無い、そう、過去が霧に覆われたみたいになっちゃうかもって、恐ろしくなっちゃうんだ。絶対に」

だから、ニックは弓を持つ。当然だった。
……

「…ぬあっ?」男はガバリと飛び起きる。
「やっと起きたー」
「たー」
リリーとルルが男の腹の上でニコニコ笑っていた。

ニックがやって来て、耳元で「フッと寝ちゃうもんだからビックリしたよ。木から落ちても大変だし、そのまま下に運んで置いたら、今の今までぐっすりだった」
「お前は寝たのか?!」男は驚いて尋ねる。

「…まあ、僕はそんなに睡眠しなくてもいいタチなんでね。ちょっとウツラウツラしたかなー、くらい」
「へええ…」
「よっぽど起こそうかとも思ったんだけどね。夜明けも綺麗だったよ。光のカーテンがサーー、って」
「ふーん」

雲が心細そうにしているくらいの晴天が、木々の上いっぱいに両腕を広げていた。太陽が昇ってくるのは、さぞ美しかったに違いない。
それでも、「ま、いいんだけど」と、男は胸の内で呟く。もっと美しいものが、昨晩手に入ったからだ。

「今日は森終わるかな?」
「かな?」
「どうだろうねー、終わるんじゃないかなー?」ニックはもうリリー達と遊んでいる。

男が他の二人を見てみると、ぴったりのタイミングで、ニックが「テトラー、ちゃんと起こせよー」と言葉を入れた。リリーやルルと鬼ごっこをしていると見せかけて、周囲もキチンと見渡しているのだ。

テトラは、サキを目の前にしてずっとモジモジしていた。彼女はまだずっと寝たままで、テトラは起こすように命じられたが、寝顔を直視できないといった感じだった。ニックも意地が悪い。
でも、テトラはようやく、目をつぶって「朝!!」とだけ叫ぶことができたので、サキも目を覚ました。

「んじゃ、しゅっぱーつ!」ニックが朗らかに叫んで、一行は進み始めた。
昨日と同じように、ニックが注意喚起して、それを聞いた何人かは対処しきれないで、というのを繰り返す。あまりにも危ないと思われる生き物はニックが破壊した。

しかし着実に前へと進んでいる。実はニックがみんなが迷わないようにしっかり指揮をとって、導いていたのだ。ぐるぐる同じ所を回らないように。

「あれえ、変だな。僕が記憶してるのよりもずっと早くにこの森を抜けそうだよ」
ニックがふざけたような声を出す。

「わあ!ほんとだ!明るーい!」
「るーい!」
今までキョロキョロ周りを観察していた二人が飛び出していく。光の渦に吸い込まれるように、サッと森の外に走っていってしまった。

「ほんっとに元気だなあ」テトラが呟いた。
すかさず「サキ、なんか反応してあげて」とニックが喋りかけ、「え、あ、ごめん、聞いてなかった。えっと、何?」とサキが困惑したように言う。

「あらあ、サキちゃん注意散漫だねえ」
「ごめんってニック!景色に見とれてて」
「謝るなら彼にだよ」ニックが顎でテトラを示す。

「え、え?」
サキがクルリと体を方向転換させたので、テトラはすっかり慌てて首をブンブン振った。

「…どうしたの?」
「…」
「怒ってるの?」
「…」
「…」

二人とも黙ってしまった。あーあ。

そうしているうちにニック達も森を抜けた。
「ね?そうビクビクしながら歩くような道でもないでしょ?」
「それはニックが強いからだよ…」男はやっと肩の力を抜くことができた。どうしても力んでしまっていたのだ。

「うわあ、あれ飛行機?ブーン!」
「ブーンブーン!」
「お、正解!森の中でもちょくちょく見えてたと思うんだけどな」
「知らなかったー」
「たー」

空の上の方に小さく飛んでいる。これは見つけにくい。

「どこ行ってるのー?」
「のー?」
「他の国だと思うな。君達はアイナ国出身って言ってたよね?」
「うん!」
「うん!」
「でもアイナ国には飛行場って無かったかな…」ニックが右手を顎に当てて、何かを考える仕草をした。

「うん!時々見えただけ!」
「だけ!」

語尾の方を繰り返すルルに、男はいちいち違和感を覚えていたが、もう何も言わないことに決めていたので、グッと歯をくいしばる。

「そうかそうか。じゃ、乗ったことは無いんだ」
「無い!」
「無い!」
「…そうだね、一週間に二回、ここの森を通過する便があるんだけど、帰りはそうする?」
「する!」
「する!」
「じゃ、当日にちゃんと乗れなきゃいけないから、今日にでも予約しとく?いつ帰る予定なの?」
「知らなーい!」
「なーい!」
「そんなにはっきり『知らない』なんて言われても…」
ニックは笑った。

「やっぱり、森を通る方が楽しいよね、ルル!」
「うん!」
「あ、そう?じゃ、帰りも送っていこう」
「ありがとう!」
「とう!ありがとう!ございましたっ!!」
「はっは!!丁寧にどうも」

彼らの顔は華やかだった。彼らと言うのは、リリーとルルだけじゃなくて、男やニックやテトラやサキも含めて、全員が。

「ねえ、リリーちゃんとルルちゃん。お母さんは何してるの?」
「ん?えっとね、えーっとね、元気にしてる!」
「してる!」急に先に質問されたリリーだが、すぐに答えた。それはサキの望んでいた回答では無かったけれど。

「心配してないの?」
「大丈夫!」
「大丈夫!」
「そうだよお、サキ。この子達は凄く強いんだから」ニックも加勢する。

「…そうかな?まあ、王宮の依頼を何回もこなしてるんだから、さすがに慣れてるのかな…?」
そう言いながらルルの頬を両手でつまんでポヨポヨと伸ばす。「…でも、こんなに可愛いんだから、ちょっとは心配すると思うけどなあ」
「えへへー」

「わあ、ポヨポヨ良いなー!良いなー!」
「えへへー」
リリーが羨ましそうにしたので、サキが代わり番こにフニフニと動かす。

「…ね、ケンもやっちゃえば良いのに」ニックがコショコショ囁く。
「するわけねえだろ。だいたい、俺があんなことしたら、あいつらが困る」
「そうかな?」
「そうだよ。あれができるのは美人の特権なんだ」
「嘘をつけ」

一通り終わったらしく、サキは二人の頭をポンポンと軽く叩いて息を吐いた。

そして、すぐそばでリリーよりも羨ましそうに(それはもう涎を垂らしそうなくらい)、でもじっと我慢して見ていたテトラに話しかける。
「…ね、めっちゃ可愛いでしょ?」
「あ、ああ、うん…」
「虜になっちゃうよね」
「そう、だな…」

そんな様子を横目で見て、ニックは「軽い拷問だな」と評した。
……

「ここは?」
ニックに従って、ズンズン大通りに進んでいったかと思えば、急に狭い路地に入るもんだから、みんな不思議がる。
「いいから。ちょっとの間ここで待ってて。うー、そうだ!テトラ、みんなを見張っててくれ。監督ってことで!」
「分かった」

その返事を待たずして、ニックはサッサと出て行ってしまった。

表通りへの入り口を塞ぐように立ったテトラは、フン、と鼻息を漏らして後ろを振り返り、腕を組んだ。
「…何してんの?」
「これが監督の姿勢だ」
「ああ、そうですか…」
テトラの胸はますます反り返っていく。

しかし、それからすぐに、監督の雰囲気は雷撃で打ち砕かれたように散り散りになった。
「あ、おしっこ!」
「しっこ!」
二つの声が壁に反響して呼応する。声が混じっていく…。

「あ、こら!止まれ!!」
テトラが反応した時には、二人の姿は無かった。

「馬鹿、ここで立ちションすりゃ良い話じゃねえか!おーい!!」
男も叫んだが、その声は自分の耳元に帰ってくる。

そうできない理由があったのだ、この二人には。
王宮で教わったことの一つとして、小便大便のマナーがあった。

ー宮殿(とは名ばかりの、かなり質素な建物ではありますが、そこ)にシッコを吹っかけるなど言語道断、ちゃんとトイレを使いましょう。
ー任務中に便意を催して、それが小なら、人目につかぬ草むらなどで済ませましょう。
ー任務中に便意を催して、それが大なら、王宮に戻ってくる覚悟をしなさい。もしどうしてもというなら、深い穴掘ってそこにして埋めてみなさい。勿論誰にも見られないように………

リリーとルルは、王宮に仕えている人の中で、年齢は特異だったものの、大きな規律違反はしてこなかったつもりだった。
だから、「このトイレに関する規則を破ることは、とても重い犯罪に匹敵する可能性さえある」と常々言われていた二人は、こんな所で叱られるようなことをしてたまるか、と思っていたわけである。

だが、悲しいかな、二人が走って行った路地裏には、道がクネクネと曲がりくねり、すぐにみんなと逸れることはできたけれど、トイレが道の真ん中にポツンと立っているわけではなかった。
横は建物でいっぱい、そして地面は石畳で掘ることもできない。

「うう、も、漏れちゃうう…」
「ちゃうう、ううう…」

どこまでも続く幅の小さな道。
その時二人は思い出した。もう一つの打開策。

ー街の中で漏らしてしまいそうになったら、どこかの店のトイレを借りなさい……

ガシャン!
「あれ!閉まってる!閉まってるよう…」
「うわ、ああああ…」
錆びついたドアノブを捻っても、どれも冷たく口を閉ざしていた。

「開けてぇ!開けてよお!!」
「ああああああ!!」
二人の小さな望みは叶わなかった。

なぜなら、この路地裏は、ほとんどが居酒屋となっていて、夜にしか店を開くことがないからだった。だから、人も通っていないのだ。

「も、もう…」
「…」涙が顔を濡らす。息が切れる。
ダメだ。

「おーい!!」
その声を聞いて、ハッと二人が顔を上げると、そこにはニックが居た。

「…どう…して…?」
「…ハァ、君達の、これ、服…なんだけど…話……っ、聞いたよ…。あの、トイレ…ね…」
ニックが切れた息の中からトイレの場所を教えようとしている。
それが二人にとってどれだけ心強かったことか。

いくら焦っていたって、みんなと離れていくことが分からない二人ではない。
だから…

「あ」
「あ!!」
「あああ!!!!」
安心してしまって、気が緩んだルルのズボンからとうとう水が滴り落ちた。

「ああ…」それを見てリリーも漏らしてしまう。

ニックは茫然とそれを見て、たった一言「………ズボンとパンツ、買ってくる」と言った。
……

「だぁー、何でそうなるのかなあ、森でも立ちションしてたじゃねえか。何ならウンコもしたんだろ?どうしてここでそれを思いつかないんだ?」
「まあ、ケンも許してやれよ。王宮がプライドをかけてリリーとルルを躾けたんでしょ?だって二人は王宮の、いや、アイナ国の顔だもんね。なるべく放尿してる姿は見せたくなかったんだよ」

「きったねえ話だな」テトラが笑う。
「でも、『おおっぴらにオシッコをする小さな英雄』っていうブランドを構築するチャンスかもしれなかったのに」

「全然嬉しくないブランドだ」
今度はリリーとルルの二人を除いてみんなが笑った。

…さっき、ニックはコートと目深の帽子を買いに走っていたのだ。
どうしてなのかと男が聞くと、「君達があんまり素晴らしい活躍をしたから目立ち過ぎちゃってね」と説明した。

本当はもっと早くに戻ってくる予定だったのだが、小さいお子様用、つまり子供用の服を探すのに手間取り、少し遅れてしまったというわけだ。

「ごめん…なさいぃぃぃ」
「なさいぃ」
「だーかーら!全員怒ってないんだってば!謝る必要なんて無いって、何回言ったら分かるの?!」
「そうだよ!リリーちゃん、ルルちゃん。だってね、叱る理由が無いんだもの」
「…いや、あるだろ」
「ケンは黙って!」

たった一人、男だけは、なぜ立ちションを二人が選択しなかったのか分かっていないようだった。小さい頃から野ションベン(屋外排泄)のプロだった彼にとって、そのまま漏らすことは理解できなかったのだ。

「それより!リリー、ルル!!ここはね、居酒屋街って言って、夜に賑やかになる街なんだ。だからそのまま『夜のマク街』って呼ばれてる。さあ!もう『昼のマク街』に行こうよ!涙拭いてさ」
ここの地名は「マク」である。街の名前も無難にマク街。

ズボンを綺麗にする代わりに、顔をぐっしょりと濡らした二人は、鼻水をグスグス吸いながらやっと頷いた。

「よし、…あわわ、コートで鼻水拭いちゃダメえ!あ、ティ、ティッシュ買ってくる!!」
またニックが店に飛んで行ったので、帰って来るまで他の人達であやさなければならなかった。
……

「ここ、は?どこ?」
「どこ?」
「ギルドって所。知ってる?」
「知らない…」
「ない…」

アイナ国では、王宮が依頼を出すことはあっても、ギルドなんて言う建造物は無かった。
元々、ギルドは王宮から独立すべく設立された民間団体だったが、いつの間にか王宮より親しみ深い場所となっている。

アイナ国というのは、他の国と比べると、かなり新しくできた国だったから、ギルドを自国に侵入されると王宮の力が弱まることは過去の例から予想できていた。そこで、ギルドを招き入れなかったのだ。

「じゃ、行こっか」
サキが努めて明るく言った。帽子からチラリと覗くリリーとルルの目はまだ真っ赤に充血している。

「よし!みんな、こっからはあんまり目立たないように頼むよー!」ニックが抑えた声でそう言って、冒険者たちの列に加わった。

整理券も無いので、みんな一杯一杯にギルドの前で立ち尽くしている。

「こりゃあ進みそうも無いな」男が低く唸ると、ニックは笑いながら「普通はこんなもんさ。ケンはギルドに所属してないから分からないだろうけど、そっちの街もこんなもんだと思うよ」
「知ってらあ。見たことはあるんだからな」
「そっか、そうだよね。さすがにギルドがある街で住んでるんだから、見ようとしなくても目に入ってくるか」
「住居は持ってねえけどな」
「ああ、すっかり忘れてたよ」
ニックが頭を掻く。

「なあ、冬はどうするんだ?凍えないのか?」テトラが聞いた。
「あ?…そうだなあ、あんまり寒過ぎたら、オヤジに宿を借りる」
「肉屋さんのことだね」
「そう」

強引に宿を取っていく。そのオヤジと言えば、鼻で笑って許すのだ。
でも、それから数日間は、狩った動物の肉は少し安く買い取られることも、決まりごとだ。

「…ふーむ。それにしても、いっこうにギルドの入り口が近づいてこないな。よし、ズルしちゃおう!……こっちだよ」
ニックがバッと列を外れる。テトラとサキがいち早く反応したが、その後が続かない。

「おい、もうみんなあっち行ったって!」そう言いながら男がオロオロ人混みをかき分ける。
リリーとルルがいなくなったのだ。小さいから、人の流れに押し流されていったのだろう。

「どこだよ、もう…」
これ以上目立てない立場にある男は、大声を出すこともできず、力任せに人々を押して歩いた。

「バカッ!押すな!」「痛えなぁおい!」「周りのこと考えやがれ!!」様々な怒号が飛び交い、とうとう殴られてしまう。

「ぐっ」思わず蹲りかけたが、そうなると蹴られまくるのがオチだ。
男は無念を感じながら人波を脱出した。

「大丈夫?騒がしかったけど」ニック達が寄ってきた。
「わ!青アザだ!殴られたんだな!うーむ、気が短い奴もいただろうからな。長時間立たされて、その上、後から来た人に押しのけられたからカッとしたんだろうな…。サキ!頼む」
「わ、分かったあ!よっしゃ、怪我だー!!」

サキがキラキラした目で男に座るように指示を出し、回復魔法を試みる。
「どう?」
「いい感じだけど…あの…リリーとル……」
「やったあ!『良い感じ』だって!」

この興奮ぶりはどうしたことだろう。男は思い出した。サキは、味方を回復させる役目を持っているくせに、いつも自分で傷ついて自分で癒しているのだと。つまり他人に回復術を使う機会に恵まれていないのだ。

ふと気がつくと、静かにテトラが男を見つめていた。
男はタジタジと目をそらす。俺だって、殴られたくて殴られたんじゃねえよ。

回復魔法が終わったようで、サキは男の顔から手を離した。

「あ…痛くない……」
「でしょ?!!」満面の笑顔。テトラの表情と対照的。俺のせいじゃない、絶対!!

テトラとにらめっこをしていたら、「ねーねー」と、遠くからどもった声がした。そっちを見ると、ニックが右手をプラプラ振っている。左手は鼻をつまんでいた。

「どうして変な声を出してるんだ?」
「だって目立たないようにしなきゃいけないから」
「だからそんな声にしてるのか?」
「そう!賢いでしょ!」
「どう、だろうな…」

男は思わず苦笑いした。

すると、グイ、と何かを腹に押し当てられた。

「…何?」
「これ!失くしたんでしょ!」
帽子だった。

「あれ?!あれ?!!」
頭を触っても髪しかない。

「人混みの中で揉みくちゃにされただろうからね…。一応、三つ買って来た」
「なんで…?」
「そりゃ、まだ何とも言えないけど」
ニックが男に帽子を被せる。

「…ほら!ここにずっといたら、いずれ誰かに見つかって、どこかに連行されるかもしれないでしょ?だからさっさと行こう!!」
「いや、でもリ…」
「急いで!」

ニックに言葉を遮られたので、男は舌打ちをした。
でも、帽子をわざわざ買って来てもらったのだし、それに身を隠している原因だって、実際男の方にあるようだし……。
そういうわけで、大人しくついていった。
……

ニックはみんなをギルドの裏側に案内した。表側からは考えられないほど、ほとんど人が見えなかった。しかも、そこにいた人達はどこかぼんやりしていて、地べたにグタッと座り込んでいた。
反対側の喧騒も、日射も届かない空間。

ギルドの裏口には扉が一つついていて、ニックは迷わずそれを押そうとしている。
「え、いいの?」
「良いんだって」
「でも、ここって…」サキが何か喋ろうとするのを、テトラが止める。

「…そっか。サキも初めて見るのか。急ぎとか見つかりたくない用事の時とかはこっちを使うんだよね。見てて」
グイッとニックが扉を開けた。

その途端、パチパチと力無い拍手が後ろから聞こえてきていたが、男は何かに引き込まれるように扉の向こう側に移動していたので、ニックに何も聞けなかった。

フワッと一瞬無重力を実感していたように思えたが、すぐに現実に戻る。

「今のは…」
「知る人ぞ知る、ギルドの裏口入門だよ。セコい意味じゃなくて、本当にそのままの意味なんだ。普通の人達は、あの門を『開かずの扉』なーんて勘違いしてるけど、そうじゃない」
ニックがここまで言った時、知らない女の人が飛んできた。大きい。

「あ、あの!あなたが扉をお開けになった…?」
「そうだよ」
「そうですかっ!…えと、今日はどのようなご用件で……?」
「受け取り、お願いできる?」
「は、はいっ!喜んで!!」
「じゃ、頼むね」

ニックはコートから干からびた目玉を出した。

「わわ!モンスターの眼ですか!!大きいですねっ!さすがです!!」
「それじゃ…」
「あの、すみませんが」
「はい?」
「今、ギルド中で数人グループを見つける指令が出ています。何でも、山一つを破壊してモンスターを倒したとかで…」
「頼むね」
「へ?!」
「そこらへんも含めて、頼むよ」ニックが両手を合わせる。

「あっ!そんなっ!頭を上げてくださいっ!!こんなところ誰かに見られたら私…っ!」
男は、「自分より一回りくらいガタイがいい人が、こうペコペコしてたら変な気分になるなあ」などと思いながら、ニックとその女の会話を聞いていた。

「…じゃ、オッケーなんだね?」
「まあ…絶対にバレますよ」
「バレるのは構わないから。じゃ、お願いねー」
「はいー…」

女の人は体をすぼめて出ていった。
来た時は突風が巻き起こるかというくらい(は、言い過ぎか)勢いよくやって来て、大声で喋っていたのに、帰って行く時はショゲ返っている。ニックの実力の一部が滲み出たってところだろうか。

「…どんなことを言ったんだ?」テトラが聞いた。
「ん?ああ…『受け取り場所に持って行くな』って」
「……じゃ、特別室で査定してもらうわけだな?」
「そうそう」

なるほど、とテトラはすっかり納得してしまった。でも、男やサキは腑に落ちない。

「あの、どうしてさっきの門が『開かずの扉』って言われてるの?そう言われてたのは知ってたけど、開いたよね?」そう、そこからだ。
「あ、それはね、ごく一部の人しか扉を開けられないからだよ」
「どうして?」
「あの門を一度開くためには、すごく圧縮された膨大な魔力を注ぎ込む必要があるからさ。『魔力袋』ってのが扉に内蔵されてて、そこに一定量の魔力をつぎ込まないと門が言うことを聞いてくれないんだ」

「意地悪いことにね、魔力袋って小さいから、圧縮しないと、その一定量に到達しないんだよ」
テトラが引き継いで言った。だが、男に対しては目もくれず、完全にサキに説明している。こんなに執心なんだったら、いっそ告白したらいいのに。

「扉の仕掛けは分かったわ。じゃ、『受け取り場所に持って行くな』というの…」
「ストーップ!まだギルドの裏側には罠があってだね、こいつも面倒くさいんだ。それはね、扉の近くに30秒間立ってると体内の魔力をかなり消耗す…」
「その話は聞いたことあったと思うわ」テトラがサキの話を遮ったから、負けじとサキもテトラの説明に口を挟む。うまいっ!

その横槍の入れ合いによって、両者とも沈黙したが、やがてどちらからともなく息を吐き出した。

「…で、『受け取り場所』については?」
「険悪ムード、一触即発状態を懸念して、僕が説明しよう!サキは知ってるだろうけど、受け取り場所は、依頼を達成する際に提出物がある場合に立ち寄る所だよ。本物かどうかとか、価値とかを、主に若い姉さんが見てくれるんだ」サキとテトラを面白そうに眺めていたニックが喋りだした。

「…その、若い姉さんっていう言葉は、必要なのか?」
「もっちろん!強面のおっさんより話しかけやすいでしょ」
「そりゃそうだろうが…」
「でも、みんなの前で査定されちゃうと騒ぎになっちゃうから、重要な物とかを取り扱う特別室まで持ってってもらったんだ」

「お前にそんな権限があったのか…」
「あの扉を開ければ、ある程度の実力の証明になるからね」
「『ある程度』って、どれくらいだ?」
「ふふん、トップクラス!」
「だよな…。どこが『ある程度』だよ」

男が呆れていると、ドスドスと足音を鳴らしながらあの女の人がやって来た。

「あれは…」
両腕にリリーとルルを抱え込んでいる。

「あ!おじさん!!おーい!!!」
「おーい!」

男に向かって手を振っている。
「ハハ、何が『おーい』だ、この野郎!」
拳をブンブン振り回して応えた。涙も出ねえぜ、チクショウ!

こんな風にして、あっけなく、二人は無事に帰って来た。
「あなたが言った通り、ギルドの中に入っていましたよ」
「ま、感知はできてたからね」
ニックが微笑みながら言う。

「何?!リリーとルルがギルドの中にいたって知ってたのか?!!なぜ言わなかったんだっ!」
「いやいや、僕が二人を探そうと感知能力を駆使したのは、君が殴られた後だよ。帽子を渡す直前ね。その時二人が人々の間をすり抜けて果敢に進んでいってるのが分かったから、すぐにギルド内に入るだろうと予想して、君達を急かしたんだ」

つまり、男に言っても言わなくても、すぐに会えるのだから、とにかく急ごうと言う考えに至ったらしいのだ。

「それでも一言…っ」
「それにね」ニックは穏やかな目で男を見た。「……君が困ってる姿をもっと見ていたかったんだ」
「尚更酷いな…」怒る気力も消えてしまった男は、ペタンと腰を下ろした。

「…よお、リリー、ルル。元気にしてたか?」
「すっごい楽しかっよ!ね!ルル!」
「うん!!」

人に押しつぶされそうになりながら前進するのが楽しいのか。それをスリルと感じたのなら、その思考方法を知りたい。男は眉を上げた。

リリーとルルにも、こういう時くらいは泣いてほしいものだ。普通なら、今は泣きすさびながら再開を喜ぶ場面じゃないのか。

でも、リリーとルルを泣かせたのは、離れ離れになることではなくて、お漏らしだった。ハァ、俺がいなくても健やかに育っていくんだろうな、この二人は。なんだかやり切れない。

思えば、リリーとルルは両親を放って不定期の依頼に挑んでいる。紫玉なんて、あるのかどうかも疑わしいと思われていると二人は語っていた。そんなことを平気で臨んでいる人に、昨日知り合った男との別れを惜しめと言ったって、できるはずがなかったのだ。

「…で、あなたに会いたいという人が……」おずおずと女の人がニックに話す。
「ミル…だろ?」
「は、はいっ!」
「分かってるよ。場所は二回の奥だよね?」
「……会ったことがあるのですか?」
「まあね。前の依頼もこんな感じだったよ。…よし、すぐ行こう」

ニックはそう言うやいなや、サッサと歩き始めた。少し右手を挙げて左右に振っている。女の人はニックの横に並んで同じように進んでいく。

ずっとドンヨリしているテトラがゆっくりついて行った。好意からの早まった言動でサキと揉めかけたのを後悔しているのだろう。

「…これ、俺らも……だよな?」
「そう…みたい」
「行こう!」
「行こう!」

それで、全員ニックの背中を追った。

階段は一段踏み込むごとにギシギシと音をたてて、いつ崩れるか心配なくらいだった。
端の方には埃も薄く積もっていて、掃除を怠っていることが窺えた。
どこからパラパラと木屑が落ちるような音がする。
今まで気づかなかったが、窓が綺麗だと思っていたら、ガラスが完全に外れているのだった。

「おいおい、ここ金持ちじゃねえのか…?」
男は心配になりながらも、もう戻ることはできなかったので古びた部屋を歩いて行った。
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