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剣と魔法の世界のストレンジャー
休日に塩なしパンを
しおりを挟む業務が終わった厨房で――調理台に置かれたガラス容器に手をかける。
薄布で覆われたそれからは甘いような苦いような強い香りがする。
そっと開けば白い塊がいっぱいに膨れ上がってた。
ところどころ細かい穴が開いて、しっとり固まった見た目は焼く前のパン生地にも思えなくもない。
「これがビガよ。発酵種っていって、これがうちの塩なしパンのベースになるの」
奥さんの指が「触ってみなさい」と促してきた。
先日仕込んだ小麦粉と酵母と塩が原料のそれはぐにょっと膨らんでる。
ニクも触れれば、二人揃ってこんなのがパンになるのかと疑問形だ。
「えーと、これに小麦粉を混ぜて生地にするんだっけ?」
「そうよ、種も本生地も硬い品種の小麦粉を使うのが絶対よ? 季節によっては発酵に使う時間はちょっと変わるから気を付けてね、基本は12時間と覚えておきなさい」
「小麦粉の量は確か……」
「発酵種の三倍ほど?」
「そう、三倍ほど。そこにぬるま湯だっけか?」
「正解よ二人とも、ちょっとやってみなさい?」
頷く奥さんの前で、少しぎこちなく続きをすることにした。
ここ最近見せてもらった工程をどうにか思い出す。
まずボウルに発酵種の数倍ほどの小麦粉を準備した
ええとそれから……"ビガ"を溶かすんだったか。ニクが湯冷ましを持ってくる。
「細かくちぎって溶かしやすくするんやでえ」
見守るスカーレット先輩からのゆるい声で思い出した、千切るんだ。
ぶちぶち指でこまかくして水分を足して匙でかき混ぜた。
するとどんどん溶けて、粒の浮かぶ濃いミルク色が広がった。
「はい、ボウル」
「どうも……こうか?」
ニクが小麦粉入りのボウルを持ってきた――ここに溶かした種を入れて本捏ねだ、ゆっくり混ぜ込む。
ボウルの内側に添ってすくい取るように手を動かせば生地に重みができた。
底の方がまだ少し混ざりきってない。もう少しだけ水を足してもらう。
「……思ったより柔らかいぞこれ、むにゅむにゅしてる」
「かなり柔らかく感じたなら間違ってないわ。水を足したのも大正解ね」
「正解だったか。で、ボウルの中でひとまとまりになったらこね台に移ると」
少しぼそっとした見た目だけど生地は丸くまとまってる。
作業を切り上げればニクがこね台にさらっと打ち粉を引いてくれた。
両手いっぱいに掴める大きさをそこにどすんと転がす――柔らかな生地だ。
事情を知らないやつが今の俺を見たら「なにしてんだ」が第一声だろう。
『白き民』を討伐してしばらく経った今、またパン屋で働いてた。
そういえばあれから俺たち旅人への扱いが変わった気がする。
熱心にスキルを上げるやつ、気の合う仲間と少し危険な仕事に挑むやつ、集会所を訪れるやつ、いろいろだ。
……『ストレンジャー』はどうなったって?
人食いカルトから傭兵崩れまでを等しくぶち殺し、白き民をぶちのめし、今はこうしてパンを作ってる。
最近は奥さんのご厚意で塩なしパンの作り方を教わってた。
オーブンの使い方から生地の発酵のさせ方まで、暇ができればスカーレット先輩も交えてわざわざ教えてくれた。
今回は前日に作らされたパンの種を使って実践してみようとなったわけで。
「これけっこう大変だな……!?」
「捏ねる時はきびきびね! 中途半端だとパンの味も相応になるわよ!」
「い、いつまでやればいいんだ奥さん……」
「大体は手にくっつかず、表面がきれいで滑らかに整うまでね。こねすぎもダメから気を付けるのよ?」
そんな経緯で本日はパン屋の二人に見守られながらの生地作りだ。
掌底であの手この手、押したり引いたりで整えると、生地の抵抗力に打ち勝ってどうにか丸形ができた。
「はいそこまで、これで生地は完成よ。けっこう手際が良いじゃない?」
もう十分らしい。奥さんがチェックしにきた。
せっせと丸めた生地に一目で「まあまあね」と言いたげだ、及第点らしい。
「そしたら次は発酵やなあ、寒くない場所で生地を膨らませるんやでえ」
スカーレット先輩のゆるい笑顔も「まあよし」といった感じか。
ボウルに生地を放り込んで布をかぶせた。こうして放置すると生地が膨らむ。
『一次発酵』だ。これでパンの膨らんだ食感や味が決まる大切な仕事である。
「お二人の様子からしてパン屋開業にはかなり遠い感じか?」
「まだまだねえ、でもいい腕してるわ。パン屋が焼ける冒険者ってだけでもいい響きじゃない?」
「ははっ、確かにそうだな。先輩たちに自慢してみるか」
「今のうちにパンに使うかまどの使い方も教えておくわ、ついておいで」
その間に焼き上げに使うかまどの使い方の確認だ。
店奥の白い壁に大きなかまどが四角形に埋め込まれてる。
レンガづくりの横幅と奥行きは今なお現役で、香ばしさを一際漂わせてた。
「じゃ、確認ね。うちの一部商品はここで焼いてるの、魔導オーブンは確かに便利だけれども火の通り方が若干違うからね。塩なしパンとかだとこっち作った方が絶対おいしいから」
「そんなに違うのか?」
「香ばしさが全然違うわ、だからこっち。それにあなた魔法が効かないんでしょ?」
「ご配慮ありがとう奥さん。でもこれ俺にも使えるか不安」
そんな大層なものを俺が使う時が来てしまった。
魔法無効化を知ってる奥さんはわざわざここを使わせてくれるらしい。
とはいえ現代人からすれば原始的にすら思える調理法だ。中で薪を燃やしてパンを焼くんだぞ?
「難しく考えることはないわ、歯車仕掛けの都市の製品だからね。戸の横に温度計があるでしょ?」
そんな心配をよそに奥さんは相変わらずいい顔で教えてくれた。
かまどには308口径弾も防げそうなほど分厚い金属の戸がはめてあった。
横には温度計があって、構造は謎だが目盛りが温度を可視化してるようだ。
「これか」
「そう、それよ。この奥で薪を燃やしてかまどの温度を調節するの」
「その火で焼く感じか」
「いいえ、パンは火で焼くんじゃなく熱で焼くのよ。覚えておいてね?」
「熱で焼く。オーケー覚えた」
「それとスカーレットちゃんが紙に書いてくれたわ。参考にしてね?」
「うちが使い方まとめといたでえ、これ読んでなあ」
使い方は紙三枚に書かれたイラストつきのマニュアルとして手に渡ってきた。
見る限りはこうだ。かまどに小さな火を起こす、薪を入れて中の温度を上げる。
十分に温まると熱が行き届いて、パンを包み込むようにじっくり焼けるそうだ。
片隅でデフォルメされたスライム系美少女がそういってるのだ、間違いない。
「ご親切にありがとう。かまどで焼くときは中にたまった熱で焼き上げるって感じか?」
「そうね。余熱で調理とかいうけど、「焼き上げる」だから石窯そのものを調理器具と見立てるといいわ。焼けてきた薪をかき出してうまく温度を操るだけよ」
「てっきり燃えた薪で焼くのかと思ってた」
「そんなことしたら真っ黒こげよ? ピッツァじゃないんだから!」
「逆に一気に焼き上げるなら薪と一緒にやるんでえ」
また一つ学んだ、難しそうに見えてけっこう単純らしい。
傍らで可視化された温度に気を配りながら熱をコントロールすればいいだけだ。
ブラックガンズの訓練よりは楽である。なら俺にだってできる。
「火のつけかたは分かるかしら?」
「一応訓練で受けてる。焚火ぐらいはできるぞ」
「じゃあ楽勝よ。旅人さんって焚火もできないって良く言われてるけれども、あなたはちゃんと誰かに教わってたのね?」
「ああ、便利なものには頼りすぎるなって教わった。ついでにいろいろ焼いたよ」
おかげでプレッパーズの生活も思い出した、ボスに生存術を叩きこまれたもんだ。
機械に頼らず自力で火を起こせ、とかいわれて火打ち金からマッチまで、果てには石器時代さながらのやり方でだ。
「小さな火を大きくしていく」と一言で言い表せるぐらいには身に染みた。
……そういえばヒドラ、相変わらず悪い奴燃やしてるんだろうか。
「さて質問、この後あなたが行う工程は?」
火炎放射器を使う気さくな友人をかまどに重ねてると不意の質問だ。
でも頭の中にはしっかりつづき叩き込んでる。
生地を発酵させたらまたこねる、ガス抜きして形を作って二度目の発酵だ。
「えーと……一次発酵が終わったらガス抜き」
「正解、ガス抜きをする理由は?」
「パンの食感をきめ細かくするため」
「あってるわ。その次は分かるわよね?」
「二次発酵で形を美味しそうに整える」
「熱心に学んでくれたみたいで嬉しいわ。それじゃ今から私たちがすることは?」
「空いた時間を使って仕込みだな?」
「おめでとう、全問正解よ。それじゃ並行して仕事やっちゃうわよ」
一件複雑そうなパン作りも「どうして」を理解すればけっこう簡単だ。
全てはあのふっくらした美味しさを生むために必要な道のりだ、そう考えれば苦しくもないし面倒でもない。
思えば俺の旅路もそうだったな。
近道は決してなかったけど、遠回りだからこそ得られるものがいっぱいだった。
「そういえばイチ君、ミコちゃんとはどうなの?」
「最近よくあってるよ、朝のお目覚めの挨拶も毎日だ」
「良かったわ。あの子も初めて見た頃とはだいぶ変わってて驚いたけど、きっとあなたの影響ね?」
「それいい意味で言ってる?」
「当然でしょ? ミセリコルディアっていったらなんだかいつもおどおどしてるリーダーがいて有名だったのに、今じゃ背を伸ばしてまっすぐ前を見てるもの。良い男がいるとやっぱり変わっちゃうのねえ」
「ミコさん前よりアクティブになっとるなあ、やっぱ彼氏パワーやろかあ」
「いいや、恩人のおかげだ。俺たちその人に強く育ててもらったんだ」
「こんないい子を私の店にもたらしてくれるんだから、きっとその人は素晴らしい人なんでしょうね? 会ってみたいわ」
「会ったらびっくりすると思う」
「この前のゴーレムより?」
「あんなのよりおっかないし強いぞ。すごくいい人だよ」
それから安定した生活に軽口を叩ける余裕も。
ストレンジャーは本当にうまくやってると思う。ボスにまた会えたら見せてやりたいぐらいだ
◇
床を掃いてオーブンを掃除して、小麦粉を運んで材料を計量して、翌日の仕込みは大体こんなものだ。
並行してかまどにも火をつける、通称『火入れ』だ。
まずは奥に可燃物をセット、そしたら手持ちの道具で火を起こす。
点火して火が落ち着いたら薪を投下、燃え尽きそうというところまで放置だ。
時々温度計を見ながら生地の仕上げにも入る。
さっきの布をどければ待ってたのは倍ほどに膨らんだパン生地だ。
もっと柔らかくなった生地を打ち台でまた捏ねる、打ち粉は多めでガスを抜くように大きく広げて混ぜ込む。
時々ひっくり返したり畳んだりの工程を繰り返して、巻くように四角く整える。
そうやって生調子を整えたら楕円型に成形、最後は生地のつなぎ目を下に濡れ布巾をかぶせて二次発酵である。
「……よ、よし……焼くぞ……?」
そして仕込みが全て終わる頃だ。
俺は周りに不安をいっぱいに表明しながらかまどを覗いた。
そこにじんわりとした熱が漂ってた。
薄い暗がりの奥で穏やかな赤みが左右に広がってる。
温度計を見るに200度を超えたいい塩梅だった、焼きごろだ。
「中に入れる時は火元に近づけすぎないようにね? 必要だったら火かきで中を調整すること」
「……了解、奥さん」
「いや緊張しすぎでしょう? なに運命の決断突きつけられた時みたいな顔してるのよ」
「だ、だって緊張するし……」
「一回やればもうしないわよ、頑張りなさい」
そばにいてくれる奥さんが何時にもなく頼もしかった。
念のため火かき棒で確かめると、炭になりかけた薪はこれ以上燃えることはなさそうだ。
「これを使って。打ち粉はたっぷりにしておくのよ?」
そこへ木製のシャベルみたいなのが届く、パン焼き用の大きな木べらだ。
俺はニクと一緒に昨日からの付き合いになった生地を乗せて。
「……うまくいきますように」
「ん、うまくいくはず」
二人で祈るような気持ちを込めて押し込んだ。
取っ手を引くとパン焼き用の空間に自作の生地がすっ……と落ちた。
「よしよし、ちゃんとはいっとるなあ。ついでにおやつのチーズケーキ焼くでえ」
おまけでスライムの腕が焼き台を何個か足した、火の有効活用だ。
後はもう全力でお祈りするだけだ、そっと戸を閉じた。
「…………奥さん、もし失敗したらどうしよう」
「もう、どんだけ心配なのよあなた。パンって言うのは変に冒険したり、大雑把にならなきゃ大体は成功するものなんだから大丈夫よ」
「俺どっかでミスってなかった?」
「心配性ねえ。大体ミスしてたら私が指摘するでしょう、パン屋の店員らしくどんと構えてなさい」
「うちのチーズケーキも一緒やから大丈夫やろお、できたら一緒に食おなあ?」
二人に励まされる先にはパンと現世を隔てる鉄板一枚だ。
面会謝絶時間は三十分。PDAでタイマーを設定していつでも駆けつけられるようにするとして。
「それにしてもおかしな話ね? あれだけこの街で大活躍したっていう冒険者が今じゃこうしてパンの焼き具合にびくびくしてるなんて」
後はのんびりしろ、とばかりに奥さんがお茶を淹れてた。
面白がってくれるのは何よりだけど俺からすれば死活問題だ。
「だってわざわざこんな機会作ってくれたんだぞ? 無下にしたくない」
「期待に応えようって頑張るよりも、パンを焼くのが楽しいって思ってくれた方が私としては嬉しいかしらね? さっきだって生地作ってるときに楽しそうだったじゃない?」
「その楽しく作った生地が無残な姿で帰ってきたらどうすればいいと思う?」
「万が一失敗してもうちのお財布事情も良心も痛まないから気にしなくていいわよ、だって塩と小麦粉なんだから? ほら、お茶でも飲んで落ち着きなさい」
仕方がなく腰かけると湯気立つカップがやってきた。
ちょっと濃さそうな紅茶だ、一口飲めばまったり甘い熱量たっぷりのお味。
「そりゃどうも……久しぶりのミルクティーだな」
「紅茶だけはこだわれって知り合いの子が言っててね。はちみつとミノタウロスのミルクは欠かさずに、スコーンがあればなおよしよ」
「そういえばスコーン売り切れてるな最近」
「このごろ客層も増えたでしょ、そのせいじゃない? お茶のお供にするお客様が増えたのかしら」
「紅茶とスコーンを嗜む奴が俺の知ってるやつじゃないといいんだけどな」
「あら、何か嫌な思い出でもあるの?」
「当たらずともなんとやら。会いたいようで会いたくないような人がいる」
俺の命日は恐らくメイドと芋と女王様が揃いし時だ、それまで人生を謳歌しよう。
「――おて!」
静かになった店内を眺めてると、厨房のどっかでそんな声がした。
スカーレット先輩が人のわん娘ににゅっと手を伸ばしてる場面だ。
「ん」
「えらいでえ、ぐっどぼーいやあ」
うちのわん娘は律儀に応じたらしい、犬っぽい手と触れ合った。
まさか戦闘用のジャーマンシェパードがパン屋で共に働いて、こうしてスライムガールの遊びに付き合うとは育ての親も思わなかったはずだ。
「――ばんざい!」
「ばんざーい……?」
あと「ばんざい」も、きょとんとしながらホールドアップ。
「――だぶるぴーす!」
「ん……?」
……しまいには疑問顔ダブルピースになった。
隣で見てた奥さんは「なにしてるの」と面白がってるからまあいいとする。
「そういえば気になってたのだけれども、ニクちゃんとはどんな関係なの? ご主人だなんて言われてて気になってたのよね」
しかし飛んできた質問は「ぴーす」とかやってるわん娘への疑問形である。
どんな関係かといわれれば、説明するのに生い立ちを"ボルター"あたりまで引き戻さなきゃいけなさそうだ。
「実は元々犬だったんだ、あいつ。それがいろいろあって精霊になった」
いい説明の仕方があった、PDAの写真だ。
画像フォルダを開けばプレッパーズの面々に混じる真っ黒なわんこがいた。
訓練時の一コマだ。ヒドラが人の犬にゴーグルとバンダナをつけようと追い回して、サンディも付き合ってるシーンだ。
止めようとするアレクと「なにやってんだ」と呆れるボス、それから面白そうにするツーショットも一緒である。
「あら、変わった道具ねそれ。歯車仕掛けの都市の製品?」
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「おお、そのスマホみたいなの写真撮れるんやなあ。うちにも見せてくれへんかあ」
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「こいつは変身する前のニクと俺の恩人たちだ。みんないい顔してるだろ?」
「なんか洋画の世界から飛び出たような人たちばっかやなあ、プレイヤーさんじゃなさそうやけど。こっちの黒いわんわんがもしかして……」
「ぼくだよ」
「そう、そのわんわんがこいつだ」
「かわええなあ……ところでこれ、どういう状況なん?」
「ダチが人のわんこに「ファッションだ」とかいってアクセント加えようとしてる場面だ。あの野郎晩飯まで追い回しやがって」
「ん、鬼ごっこ楽しかった」
「まあこいつからしたら遊んでもらえた程度の話だったらしい」
「みんな楽しそうやなあ、いち君友達いっぱいやんかあ」
けっきょくあの時はニクに逃げ切られて未遂に終わったな。
そばの愛犬の頭を撫でてやった、にへっと緩んだ頬が気持ちよさそうだ。
*BeeP*
そうやってしばし思い出に浸ってるとアラームが鳴った――そろそろだ。
紅茶を空にして向かえば黒い戸と緊張が立ちはだかる、そっと開いた……。
「お……おおお……!?」
馬鹿みたいな声が出るのも仕方なかった。
熱のこもった奥で、ふっくら焼けた楕円形があったからだ。
周りのチーズケーキもきれいな焼き目がついてる、甘さの混じった香ばしさがなんともいえない。
「わ~お、ちゃんと焼けとるでえ。うちのバスク風チーズケーキどやろかあ?」
「待ってろ今取り出す!」
スカーレット先輩も一目で褒めてくれるのだ、きっといい結果に違いない。
パン用の木べらを掴んでキャッチ、まずはパンを引っこ抜けば。
「や、焼けてる!? すげえマジで焼けてるぞ!」
喜ぶしかなかった、どっしりとしたパンに薄茶色の焼き目がぱちぱちついてる。
触れば熱いが触り心地もいい――ほんとに自分が焼いたのか、これ?
それとチーズケーキも忘れずに、手繰り寄せると包み紙からこんがり甘い香りだ。
「見ろよニク、焼けたぞ! なんかできちゃった!!」
「おー……」
「パン焼けたぐらいでこんなにはしゃぐなんて面白過ぎるわよ。でもよくやったわね、初めてにしては中々よ」
ニクにも見せびらかして、ついでに自撮り機能でパンもろとも映ってると奥さんがくすくす笑ってた。
褒めてくれたのだ、本職の人にそう言われるなんて嬉しいほかない。
まあ問題は味だ、嬉しいのは極まりないけどとりあえず味見だ。
「いい? この塩なしパンは少し冷めてから食べるのがおすすめ。塩が入ってないから塩気の強い料理と合うのよ」
「そういえばなんでこのパンって塩入ってないんだ?」
「私の国でこういう話があってね? パンは塩が欠かせないんだけど、ある時政治のいざこざで供給を断たれてしまいました。それなら塩抜きでもパンは作れると証明してやらあ、みたいな感じで作られたの」
「こいつの原材料は小麦粉、酵母、水に反骨精神ってことか。そう言うの好き」
「偉く気合の入ったパンなんやなあ、塩ぬきパンって」
このパンが生まれた経緯を耳に挟みつつ、俺たちは冷めるのを待つことに。
その間にかまどの火を下ろして中を掃除でもしていればあっという間だ。
スカーレット先輩のおやつの隣で塩なしパンがだいぶ落ち着いてくると。
「この作り方だと大体二日は持つわ。それ以上だとかっちかちになっちゃうんだけど、その場合でもお料理とかに使えるからね?」
「硬くなったパンを?」
「ええ、パン粥とかサラダとか色々よ。作り方が知りたかったら教えてあげるわ。さっそく味見してみましょうか?」
奥さんは戸棚からオリーブオイルと塩の瓶を持ってきた。
受け皿にどばどばいれた点から察するにパンと合わせるみたいだ。
さっそくまな板の上のパンにナイフを入れた。ざくっと厚くて硬い皮の感触だ。
「……ほんとにこれ、俺が焼いたのか……!?」
一枚切り分けると良い意味できめの粗い断面が「これはパン」と表現してた。
匂いもナッツみたいにこんがりしてるし、食べ応えのありそうな質感だ。
かじってみた――ぎっしりとした噛み応えだ。
「塩なし」っていう部分は間違いない、普通のパンみたいに舌に触れる刺激がないのだから。
でもよく噛むと小麦の強い味を感じる、確かに濃い味の料理と合いそうだ。
「んん……塩味がないせいか小麦のうまみがすっごい……味しねえ」
「塩入ってないんだから当たり前じゃない。もっと味わいたかったらオリーブオイルと塩よ」
奥さんに従うことにした、何枚か切り分けて油と塩をさっとつけて食べる。
すると味がはっきりしてきた。パンの風味に油と塩の刺激が混ざってうまい。
「……確かに塩つけたら全然違うな、急においしくなった」
「塩なしパンやなあ。初めてにしてはええんちゃう? 店に出すにはまだまだやけどなあ」
「んっ……お肉欲しい」
「おいしいわね。でもまだまだ、私の作るパンには及ばないってところかしら」
まあ、周りからすれば精進しろってことらしい。
手厳しいけどこんなもんだ、いきなり完璧にいくほど俺は出来ちゃいない。
四人であれこれいいつつもそもそ食ってると。
「でもなあ奥さん、なんでイチ君の初めてのパンが塩なしパンなんやろかあ。他に簡単に作れるもんとかあるやろお?」
チーズケーキを切り分け始めたスカーレット先輩が気にかけてきた。
どうしてこのパンを作らせたのか疑問らしい。
俺からすれば「安上がりだし」という理由だと思うけれども。
「パンに塩がないとどうなるかって教えたかったのよ、味も変われば作るときの勝手も違うんだから。でも塩がなくても作れるってこれで分かったでしょう?」
なるほど、そういうことか。
俺は塩と油の効いた一切れをもぐもぐしながら頷けた。
これならどうして塩が必要なのか知るにはうってつけだ、味覚的な意味で。
「塩の大切さを学ぶにはいい機会だったと思うな。そういう配慮だったか」
「なるほどなあ、それにあんまり簡単すぎるのもあれやしな」
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「これからもよろしくってことだな?」
「ええ、もちろんよ。色々な子が来てくれてうちの業務は完璧なぐらい回ってるけれども、あなたがいるとこの店は退屈せずに済むからね?」
「了解、奥さん。次はもっとうまく焼けるようにしないとな」
「お店で出せる塩なしパンを作るのは大変よ? だってここは舌の肥えた人達が集うクラングルだもの、もっと精進しなさい」
末永くここに働きに来てください、だそうだ。
そう言われて嬉しいに決まってる。誇らしげな顔でもう一切れ食べた。
◇
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