58 / 59
第七章 桜降る春に
六
しおりを挟む
***
それから数カ月の後、桜子は天音とともに英国に向けて旅立った。
前職を辞めていた天音は、忠明に請われ、中島商会の倫敦支店で働くこととなった。
今回の英国行も忠明と、彼の秘書である坂上夫妻と一緒だった。
外国航路の一等客船は海外の要人も乗ることから、絢爛豪華な造りとなっていた。
食堂や娯楽室も充実しており、約一カ月半の長旅を、できるだけ快適に過ごせるような工夫が随所になされている。
乗船して二週間ほど経ったある日、天音は桜子にある贈り物をした。
満面に笑みを浮かべて船室に入ってきた彼は、抱えてきた薄い長方形の箱を寝台の上に置き、桜子を呼んだ。
「開けてごらん」
「なんですか?」
「いいから、早く」
天音は片手で自身の顎を触りながら、桜子の反応をうかがっている。
桜子が箱を開けると、入っていたのは美しいシルクのローブ・デコルテだった。
色は桜色。
彼女がはじめて着たドレスと同じ色だった。
「まあ……」
桜子は豪奢なドレスを手にして、思わず感嘆の声をもらした。
「このようなもの、いったい、いつご用意なさっていたの? まったく気づかなかったわ」
天音は得意げにニヤリと笑った。
「日本を出航する前に、香港の洋装店に頼んでおいたんだよ。停船した時に届けてもらった。夜会に着ていく服は持参していなかっただろう? これを着た桜子をエスコートして今晩の舞踏会に出たいと思ってね」
船上では長旅の無聊をなぐさめるため、連夜、舞踏会が開かれていた。
桜子もそのことは知っていたが、幼子を連れている自分は、夜会には参加できないものと思っていた。
「でも、春子がおりますから」
「今晩だけ、坂上さんの細君が預かってくれるそうだよ。桜子にも、たまには息抜きが必要だと言ってくれてね」
そういえば、もうずいぶん、ドレスを着る機会もなかった。
「なあ、桜子。ぜひ俺のためにこのドレスを着てくれないか」
桜子はかつての天音の言葉を思い出した。
『美しく着飾った桜子を見られないのがつらい』と。
そうだ。
今のわたくしは、天音のためだけに美しく装うことができるのだ。
「ええ、わかりました」
彼女が頷くと、天音は顔を綻ばせた。
「素敵な贈り物をありがとうございます」
「どういたしまして」
天音は少しおどけて、胸に手をあて、礼をした。
それから数カ月の後、桜子は天音とともに英国に向けて旅立った。
前職を辞めていた天音は、忠明に請われ、中島商会の倫敦支店で働くこととなった。
今回の英国行も忠明と、彼の秘書である坂上夫妻と一緒だった。
外国航路の一等客船は海外の要人も乗ることから、絢爛豪華な造りとなっていた。
食堂や娯楽室も充実しており、約一カ月半の長旅を、できるだけ快適に過ごせるような工夫が随所になされている。
乗船して二週間ほど経ったある日、天音は桜子にある贈り物をした。
満面に笑みを浮かべて船室に入ってきた彼は、抱えてきた薄い長方形の箱を寝台の上に置き、桜子を呼んだ。
「開けてごらん」
「なんですか?」
「いいから、早く」
天音は片手で自身の顎を触りながら、桜子の反応をうかがっている。
桜子が箱を開けると、入っていたのは美しいシルクのローブ・デコルテだった。
色は桜色。
彼女がはじめて着たドレスと同じ色だった。
「まあ……」
桜子は豪奢なドレスを手にして、思わず感嘆の声をもらした。
「このようなもの、いったい、いつご用意なさっていたの? まったく気づかなかったわ」
天音は得意げにニヤリと笑った。
「日本を出航する前に、香港の洋装店に頼んでおいたんだよ。停船した時に届けてもらった。夜会に着ていく服は持参していなかっただろう? これを着た桜子をエスコートして今晩の舞踏会に出たいと思ってね」
船上では長旅の無聊をなぐさめるため、連夜、舞踏会が開かれていた。
桜子もそのことは知っていたが、幼子を連れている自分は、夜会には参加できないものと思っていた。
「でも、春子がおりますから」
「今晩だけ、坂上さんの細君が預かってくれるそうだよ。桜子にも、たまには息抜きが必要だと言ってくれてね」
そういえば、もうずいぶん、ドレスを着る機会もなかった。
「なあ、桜子。ぜひ俺のためにこのドレスを着てくれないか」
桜子はかつての天音の言葉を思い出した。
『美しく着飾った桜子を見られないのがつらい』と。
そうだ。
今のわたくしは、天音のためだけに美しく装うことができるのだ。
「ええ、わかりました」
彼女が頷くと、天音は顔を綻ばせた。
「素敵な贈り物をありがとうございます」
「どういたしまして」
天音は少しおどけて、胸に手をあて、礼をした。
0
お気に入りに追加
24
あなたにおすすめの小説
紀尾井坂ノスタルジック
涼寺みすゞ
恋愛
士農工商の身分制度は、御一新により変化した。
元公家出身の堂上華族、大名家の大名華族、勲功から身分を得た新華族。
明治25年4月、英国視察を終えた官の一行が帰国した。その中には1年前、初恋を成就させる為に宮家との縁談を断った子爵家の従五位、田中光留がいた。
日本に帰ったら1番に、あの方に逢いに行くと断言していた光留の耳に入ってきた噂は、恋い焦がれた尾井坂男爵家の晃子の婚約が整ったというものだった。

【完結】人生で一番幸せになる日 ~『災い』だと虐げられた少女は、嫁ぎ先で冷血公爵様から溺愛されて強くなる~
八重
恋愛
【全32話+番外編】
「過去を、後ろを見るのはやめます。今を、そして私を大切に思ってくださっている皆さんのことを思いたい!」
伯爵家の長女シャルロッテ・ヴェーデルは、「生まれると災いをもたらす」と一族で信じられている『金色の目』を持つ少女。生まれたその日から、屋敷には入れてもらえず、父、母、妹にも虐げられて、一人ボロボロの「離れ」で暮らす。
ある日、シャルロッテに『冷血公爵』として知られるエルヴィン・アイヒベルク公爵から、なぜか婚約の申し込みがくる。家族は「災い」であるシャルロッテを追い出すのにちょうどいい口実ができたと、彼女を18歳の誕生日に嫁がせた。
しかし、『冷血公爵』とは裏腹なエルヴィンの優しく愛情深い素顔と婚約の理由を知り、シャルロッテは彼に恩返しするため努力していく。
そして、一族の中で信じられている『金色の目』の話には、実は続きがあって……。
マナーも愛も知らないシャルロッテが「夫のために役に立ちたい!」と努力を重ねて、幸せを掴むお話。
※引き下げにより、書籍版1、2巻の内容を一部改稿して投稿しております

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
その溺愛も仕事のうちでしょ?〜拾ったワケありお兄さんをヒモとして飼うことにしました〜
濘-NEI-
恋愛
梅原奏多、30歳。
男みたいな名前と見た目と声。何もかもがコンプレックスの平凡女子。のはず。
2ヶ月前に2年半付き合った彼氏と別れて、恋愛はちょっとクールダウンしたいところ。
なのに、土砂降りの帰り道でゴミ捨て場に捨てられたお兄さんを発見してしまって、家に連れて帰ると決めてしまったから、この後一体どうしましょう!?
※この作品はエブリスタさんにも掲載しております。

愛しき夫は、男装の姫君と恋仲らしい。
星空 金平糖
恋愛
シエラは、政略結婚で夫婦となった公爵──グレイのことを深く愛していた。
グレイは優しく、とても親しみやすい人柄でその甘いルックスから、結婚してからも数多の女性達と浮名を流していた。
それでもシエラは、グレイが囁いてくれる「私が愛しているのは、あなただけだよ」その言葉を信じ、彼と夫婦であれることに幸福を感じていた。
しかし。ある日。
シエラは、グレイが美貌の少年と親密な様子で、王宮の庭を散策している場面を目撃してしまう。当初はどこかの令息に王宮案内をしているだけだと考えていたシエラだったが、実はその少年が王女─ディアナであると判明する。
聞くところによるとディアナとグレイは昔から想い会っていた。
ディアナはグレイが結婚してからも、健気に男装までしてグレイに会いに来ては逢瀬を重ねているという。
──……私は、ただの邪魔者だったの?
衝撃を受けるシエラは「これ以上、グレイとはいられない」と絶望する……。

愛する貴方の心から消えた私は…
矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。
周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。
…彼は絶対に生きている。
そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。
だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。
「すまない、君を愛せない」
そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。
*設定はゆるいです。
Fly high 〜勘違いから始まる恋〜
吉野 那生
恋愛
平凡なOLとやさぐれ御曹司のオフィスラブ。
ゲレンデで助けてくれた人は取引先の社長 神崎・R・聡一郎だった。
奇跡的に再会を果たした直後、職を失い…彼の秘書となる本城 美月。
なんの資格も取り柄もない美月にとって、そこは居心地の良い場所ではなかったけれど…。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる