明治ハイカラ恋愛事情 ~伯爵令嬢の恋~

泉南佳那

文字の大きさ
上 下
49 / 59
第六章 別離

しおりを挟む
***

 天音は見知らぬ部屋の寝台の上で目覚めた。

 木目の美しい板張りの天井が目に入ってくる。
 寝返って横を向くと、大きな窓があり、そこから湖が見える。

 清潔で居心地の良い部屋だ。

 寝ぼけてぼんやりとしていた頭が、徐々にはっきりしてきた。

 ここがどこだかわからないが、助かったということだけはわかる。

 天音は安堵して、大きく息をはいた。


 桜子とのことが露見し、さんざん鞭で打たれて、まるで犬か猫のように林のなかに置き去りにされた。

 意識はあったが、身体の節々が痛み、なかなか起き上がることができず、ずいぶん長い間、そのまま地面に横たわっていた。

 そのうち、辺りが暗くなってきた。

 陽は傾き、草むらでは虫が鳴きだし、遠くから犬の遠吠えが聞こえてきた。

 まずいな。

 暗くなれば、血のにおいをかぎつけた野犬がやってくるだろう。
 こんなに傷ついた身体で、そんな奴らに囲まれたらひとたまりもない。

 起き上がらなければ。
 こんな山の中で、人知れず犬の餌食になってくたばるなんてごめんだ。

 天音は総身の力を振りしぼって立ちあがった。
 頭ががんがん痛むが、さいわい脚は折れていない。
 ちゃんと動く。

 とにかく、湖までいこう。
 そこまで行きつくことができれば、助けを求めることもできる。

 途中、何度も転び、足を踏み外して危うく斜面から落ちそうにもなった。

 それでもどうにか、林を抜け、湖畔の別荘地にたどり着いた。

 そこまでは覚えているが、そのあとの記憶はなかった。



「お目覚めかな」
 日本語ではなく、英語で問われた。
 
 急に声をかけられたことに驚き、扉の方を振り向くと、紺の背広を着た外国人の紳士が立っていた。
 
「ここはいったい?」
 起き上がろうとすると、激しく頭が痛んだ。

「起きないほうがいい。まだ熱も高いようだ」

 その男性は天音を寝かせると、枕元に椅子を置き、そこに座った。
 
「昨晩、君はこの建物の前で倒れていたんだ。リンチを受けたようだね。医者には診てもらってある。すり傷や打撲はひどいが、どこも骨折はしていないようだ」

「ここはどこですか?」
 天音は英語で尋ねた。

「英国大使館のカントリー・ハウスだよ。私は駐日大使の秘書官のチャールズだ。君の名前は?」
「天音です」
「アマネ……美しい響きだね」
「ありがとう」

「まだ顔色が悪い。しばらくゆっくり休むといい。元気になれば事情を聴かせてもらわなければならないが」

「はい、わかりました」

 そう言って頷くと、天音はふたたび目を閉じた。

***

 献身的な看病のおかげで、二、三日経つと、天音の体力は回復してきた。

 もう床についている必要もなくなった。
 往診に来た医師も、天音の快復の速さに舌を巻いた。
 
「アマネ」
 診察を受けた応接室から部屋に戻ろうとしたところ、医師と入れ替わるように、チャールズと、英国人があと二人入ってきた。

 チャールズは初老の紳士をサー・ハロルド・バークリー大使、もう一人は通訳だと紹介した。

 大使は天音に握手を求め、それから穏やかな声で言った。
 
「さて。では、詳しいいきさつを話してくれるかな」

 
 天音は頷くと、これまでのことを英語で説明しはじめた。

 吉田伯爵家に家丁として仕えていたこと。
 令嬢と恋仲になり、それがばれて、折檻を受け、追い出されたこと。

 それらを包み隠さず話した。

 天音の英語は、通訳の必要もないほど流暢で、三人は大いに驚きを示した。

 
「なるほど、では、もうその家には戻れないわけだな。しかし、暴行は行き過ぎだ。人道的見地から見過ごせない。訴える気があれば、手助けすることはできるが」

「いえ、できれば事を荒立てたくないです。同意があったとはいえ、俺が令嬢を外に連れ出したのは事実ですから」

「そうか」
 大使は鷹揚に頷いた。
しおりを挟む
感想 5

あなたにおすすめの小説

紀尾井坂ノスタルジック

涼寺みすゞ
恋愛
士農工商の身分制度は、御一新により変化した。 元公家出身の堂上華族、大名家の大名華族、勲功から身分を得た新華族。 明治25年4月、英国視察を終えた官の一行が帰国した。その中には1年前、初恋を成就させる為に宮家との縁談を断った子爵家の従五位、田中光留がいた。 日本に帰ったら1番に、あの方に逢いに行くと断言していた光留の耳に入ってきた噂は、恋い焦がれた尾井坂男爵家の晃子の婚約が整ったというものだった。

【完結】人生で一番幸せになる日 ~『災い』だと虐げられた少女は、嫁ぎ先で冷血公爵様から溺愛されて強くなる~

八重
恋愛
【全32話+番外編】 「過去を、後ろを見るのはやめます。今を、そして私を大切に思ってくださっている皆さんのことを思いたい!」  伯爵家の長女シャルロッテ・ヴェーデルは、「生まれると災いをもたらす」と一族で信じられている『金色の目』を持つ少女。生まれたその日から、屋敷には入れてもらえず、父、母、妹にも虐げられて、一人ボロボロの「離れ」で暮らす。  ある日、シャルロッテに『冷血公爵』として知られるエルヴィン・アイヒベルク公爵から、なぜか婚約の申し込みがくる。家族は「災い」であるシャルロッテを追い出すのにちょうどいい口実ができたと、彼女を18歳の誕生日に嫁がせた。  しかし、『冷血公爵』とは裏腹なエルヴィンの優しく愛情深い素顔と婚約の理由を知り、シャルロッテは彼に恩返しするため努力していく。  そして、一族の中で信じられている『金色の目』の話には、実は続きがあって……。  マナーも愛も知らないシャルロッテが「夫のために役に立ちたい!」と努力を重ねて、幸せを掴むお話。 ※引き下げにより、書籍版1、2巻の内容を一部改稿して投稿しております

すれ違ってしまった恋

秋風 爽籟
恋愛
別れてから何年も経って大切だと気が付いた… それでも、いつか戻れると思っていた… でも現実は厳しく、すれ違ってばかり…

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

その溺愛も仕事のうちでしょ?〜拾ったワケありお兄さんをヒモとして飼うことにしました〜

濘-NEI-
恋愛
梅原奏多、30歳。 男みたいな名前と見た目と声。何もかもがコンプレックスの平凡女子。のはず。 2ヶ月前に2年半付き合った彼氏と別れて、恋愛はちょっとクールダウンしたいところ。 なのに、土砂降りの帰り道でゴミ捨て場に捨てられたお兄さんを発見してしまって、家に連れて帰ると決めてしまったから、この後一体どうしましょう!? ※この作品はエブリスタさんにも掲載しております。

愛しき夫は、男装の姫君と恋仲らしい。

星空 金平糖
恋愛
シエラは、政略結婚で夫婦となった公爵──グレイのことを深く愛していた。 グレイは優しく、とても親しみやすい人柄でその甘いルックスから、結婚してからも数多の女性達と浮名を流していた。 それでもシエラは、グレイが囁いてくれる「私が愛しているのは、あなただけだよ」その言葉を信じ、彼と夫婦であれることに幸福を感じていた。 しかし。ある日。 シエラは、グレイが美貌の少年と親密な様子で、王宮の庭を散策している場面を目撃してしまう。当初はどこかの令息に王宮案内をしているだけだと考えていたシエラだったが、実はその少年が王女─ディアナであると判明する。 聞くところによるとディアナとグレイは昔から想い会っていた。 ディアナはグレイが結婚してからも、健気に男装までしてグレイに会いに来ては逢瀬を重ねているという。 ──……私は、ただの邪魔者だったの? 衝撃を受けるシエラは「これ以上、グレイとはいられない」と絶望する……。

愛する貴方の心から消えた私は…

矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。 周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。  …彼は絶対に生きている。 そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。 だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。 「すまない、君を愛せない」 そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。 *設定はゆるいです。

Fly high 〜勘違いから始まる恋〜

吉野 那生
恋愛
平凡なOLとやさぐれ御曹司のオフィスラブ。 ゲレンデで助けてくれた人は取引先の社長 神崎・R・聡一郎だった。 奇跡的に再会を果たした直後、職を失い…彼の秘書となる本城 美月。 なんの資格も取り柄もない美月にとって、そこは居心地の良い場所ではなかったけれど…。

処理中です...