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第六章 別離
三
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***
その後、桜子は三日三晩高熱にうなされた。
ようやく熱が下がった日、桜子は食事を持ってきた女中に天音のことを尋ねた。
口止めされていたようだったが、熱心に尋ねる桜子に絆され、ためらいながらも「もうここにはいません」と告げた。
そして後日、ふと耳にした女中たちの噂話は桜子の心を絶望の淵に沈めた。
――あんな傷ついた身体で山中に置き去りにされたのだから、狼か野犬の餌食になったんじゃないかね?
――ああ、無事ではすまないだろうねえ。伯爵様もずいぶん酷なことをなさったねえ……
もう、二度と天音に会うことができないなんて。
そんなこと、あるはずがない。
桜子は、どうしてもその事実を受け入れることができなかった。
毎晩、天音を夢に見た。
ほら、やっぱり、天音はわたくしのそばにいるわ。
夢のなかで、桜子は至福の時間を過ごす。
けれど目覚めると、待っているのは非情な現実。
幻想の幸福と、現実の絶望が繰りかえされる毎日は、少しずつ桜子の精神を蝕んでいった。
***
それから一週間ほどして、梅子の出産が無事終わり、桜子の母も日光に戻ってきた。
沈み切った様子で寝台に横たわっている桜子の、頬にかかる髪を優しく払いながら、母は言った。
「桜子。食事を残してばかりいるようね」
桜子は何も答えなかった。
母の顔さえ見なかった。
桜子は誰とも口をきかなくなっていた。
完全に自分の殻に閉じこもっていた。
「銀座であなたの好物のあんぱんを買ってきたのよ」
そう言って、女中に煎茶とあんぱんを持ってこさせた。
桜子はもちろん、見向きもしない。
母は大きなため息をつくと「欲しくなったらお食べなさい」と言って、部屋から出て行った。
誰もいなくなったことを確かめてから、桜子はのろのろと寝台を出た。
そして、生気の失せた目で母が残していったあんぱんを、まるで敵のように睨みつけた。
これが毒入りなら良かったのに。
自分はなぜ、まだ生きながらえているのだろう。
天音はもういないというのに。
ジュリエットが羨ましい。
ロメオの死を知ったとき、彼女のそばには剣があったのだから。
わたくしには何もない。
毒薬も、剣も……
ふと、腰に巻いている紐に手が触れた。
桜子は腰紐をほどき、手に持つと、両腕をひろげて左右に伸ばした。
ああ、そうだ。
これがあったじゃない。
桜子の唇には、駅から連れ戻されて以来、はじめて笑みが浮かんでいた。
これでようやく、天音のもとに行くことができる。
それから、彼女はひさしぶりに鏡台の前に座った。
鏡に映っている自分は、別人ではないかと思えるほどやつれていた。
こんな姿、天音には見せられない。
ちゃんと綺麗にしないと。
桜子は女中の多江を呼んだ。
部屋に入ってきた多江は、鏡台の前で髪をとかしている桜子を見て、驚きの声をあげた。
「まあ、桜子様」
桜子はゆっくり振り返り、言った。
「顔を洗って、それから着物を着替えたいの。この間誂えたものがあるでしょう。あれがいいわ。すぐ用意してちょうだい」
桜子の突然の変化に若干の戸惑いを見せながらも、多江は声を弾ませた。
「はい、はい。すぐ支度いたします。まあ、きっと奥様がお喜びになります。桜子様のご様子をどれほどご心配なさっていたことか。やはりお母様がお戻りになってご安心なされたのですね。まあ、良かった」
桜子は的外れに喜ぶ多江に、内心、苦笑していた。
けれど、表には見せず、ただにっこりと微笑んだ。
その後、桜子は三日三晩高熱にうなされた。
ようやく熱が下がった日、桜子は食事を持ってきた女中に天音のことを尋ねた。
口止めされていたようだったが、熱心に尋ねる桜子に絆され、ためらいながらも「もうここにはいません」と告げた。
そして後日、ふと耳にした女中たちの噂話は桜子の心を絶望の淵に沈めた。
――あんな傷ついた身体で山中に置き去りにされたのだから、狼か野犬の餌食になったんじゃないかね?
――ああ、無事ではすまないだろうねえ。伯爵様もずいぶん酷なことをなさったねえ……
もう、二度と天音に会うことができないなんて。
そんなこと、あるはずがない。
桜子は、どうしてもその事実を受け入れることができなかった。
毎晩、天音を夢に見た。
ほら、やっぱり、天音はわたくしのそばにいるわ。
夢のなかで、桜子は至福の時間を過ごす。
けれど目覚めると、待っているのは非情な現実。
幻想の幸福と、現実の絶望が繰りかえされる毎日は、少しずつ桜子の精神を蝕んでいった。
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それから一週間ほどして、梅子の出産が無事終わり、桜子の母も日光に戻ってきた。
沈み切った様子で寝台に横たわっている桜子の、頬にかかる髪を優しく払いながら、母は言った。
「桜子。食事を残してばかりいるようね」
桜子は何も答えなかった。
母の顔さえ見なかった。
桜子は誰とも口をきかなくなっていた。
完全に自分の殻に閉じこもっていた。
「銀座であなたの好物のあんぱんを買ってきたのよ」
そう言って、女中に煎茶とあんぱんを持ってこさせた。
桜子はもちろん、見向きもしない。
母は大きなため息をつくと「欲しくなったらお食べなさい」と言って、部屋から出て行った。
誰もいなくなったことを確かめてから、桜子はのろのろと寝台を出た。
そして、生気の失せた目で母が残していったあんぱんを、まるで敵のように睨みつけた。
これが毒入りなら良かったのに。
自分はなぜ、まだ生きながらえているのだろう。
天音はもういないというのに。
ジュリエットが羨ましい。
ロメオの死を知ったとき、彼女のそばには剣があったのだから。
わたくしには何もない。
毒薬も、剣も……
ふと、腰に巻いている紐に手が触れた。
桜子は腰紐をほどき、手に持つと、両腕をひろげて左右に伸ばした。
ああ、そうだ。
これがあったじゃない。
桜子の唇には、駅から連れ戻されて以来、はじめて笑みが浮かんでいた。
これでようやく、天音のもとに行くことができる。
それから、彼女はひさしぶりに鏡台の前に座った。
鏡に映っている自分は、別人ではないかと思えるほどやつれていた。
こんな姿、天音には見せられない。
ちゃんと綺麗にしないと。
桜子は女中の多江を呼んだ。
部屋に入ってきた多江は、鏡台の前で髪をとかしている桜子を見て、驚きの声をあげた。
「まあ、桜子様」
桜子はゆっくり振り返り、言った。
「顔を洗って、それから着物を着替えたいの。この間誂えたものがあるでしょう。あれがいいわ。すぐ用意してちょうだい」
桜子の突然の変化に若干の戸惑いを見せながらも、多江は声を弾ませた。
「はい、はい。すぐ支度いたします。まあ、きっと奥様がお喜びになります。桜子様のご様子をどれほどご心配なさっていたことか。やはりお母様がお戻りになってご安心なされたのですね。まあ、良かった」
桜子は的外れに喜ぶ多江に、内心、苦笑していた。
けれど、表には見せず、ただにっこりと微笑んだ。
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