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第五章 逃避行
九
しおりを挟むここはいわゆる曖昧宿。
飲み屋兼宿泊施設。
宿泊施設と言っても普通の宿屋ではなく、私娼が客を取ったり、訳ありの男女が密会する場所であった。
桜子はもちろん、このような宿に来るのは生まれて初めてで、ただただ面食らっていた。
そんな彼女の様子を見て、天音はごめん、と頭を下げた。
「すまない。桜子を連れてくるようなところじゃないのは百も承知なんだが……。普通の宿だと見つかってしまうかもしれないと思ったんだよ」
桜子は首を振った。
「いいえ、わたくしはかまいません。ただ、少し驚いてしまって」
桜子が珍しそうに部屋を見回していると、枕元に置かれた背の低い屏風に目が止まった。
そこには、あけすけに交わる男女の姿を写した浮世絵が貼られていた。
天音は桜子の頭をそっと撫で、真っ赤になってうつむく彼女を愛おしげに見つめた。
「心配しなくてもいい。こんな下卑た宿で桜子を抱くつもりはないから」
そう言うと、天音は立ちあがり、窓の桟に腰かけた。
通りから、寂しい調子の三味線の音色が部屋に忍び込んできた。
天音は窓を少し開け、懐から財布と懐紙を出し、おひねりを作って、窓の外に抛った。
そして、桜子の方を見ずに言った。
「明日は朝一番の汽車に乗らなくては。寝過ごさないように俺は起きているから。疲れただろう。桜子はもう休んだほうがいいよ。あんな布団でもないよりはましだろう」
いつもとは違い、あせったような早口だった。
口数もやけに多い。
でも、桜子は子供のように首を横に振った。
「天音が起きているのなら、わたくしも起きています」
「明日は長旅になるんだよ。ちゃんと寝ておかないと」
「では、天音も一緒に」
天音はふーっと、大きくため息をついた。
「いい子だから、言うことを聞いてくれ。一つ布団で横になったりしたら……えらそうなことを言ってても、俺、桜子に何をしてしまうかわからない」
今だって、どれだけ自分を抑えているか……。
と、天音はやるせない声で付け加えた。
彼がふと漏らした本音。
それを耳にした途端、何を思ったか、桜子はすっと立ちあがった。
そして……
自ら帯を解き、紺の木綿の着物を肩からすべらせて畳に落とした。
天音は衣擦れの音に驚き、桜子に目をやった。
「何をしているんだ……」
自分の前で襦袢姿で立っている桜子に、天音は目を見張った。
「天音。わたくしはかまいません」
桜子は目をそらさずにきっぱりと言った。
「わたくしが夫と呼ぶのは、生涯、貴方ただ一人です」
「桜子……」
「だから天音」
ほとんど懇願する口調で、桜子は訴えた。
「今ここで、どうか名実共に、貴方の妻にしてください」
「いや、だが、大事な桜子との新床が、こんな場末の安宿では」
天音はまだためらいを見せた。
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