明治ハイカラ恋愛事情 ~伯爵令嬢の恋~

泉南佳那

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第五章 逃避行

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 しばらく坂を下ると、湖が見えてきた。

 漆黒の湖面も星を映して煌めいている。

「ああ、やっぱり」

 天音は得意げに呟いた。
 見ると、坂下に数台の人力車が客待ちをしている。

 湖畔には外国の大使館の別荘が建ち並んでいる。
 そのため、東京からの緊急の呼び出しに備えて、待機させているのだろう。

 天音は予想が当たったことを喜び、その中の一人の車夫に近づいていった。

 交渉は成立し、一台の人力車が桜子の前まで来て、停まった。

「俺たちは兄妹で母が危篤だって言ったんだ」

 天音は桜子に耳打ちした。
「相場の三倍出す、とも言ったけどな」

「じゃ、行きますぜ」
 二人が乗り込むと、車夫は支木を持ち上げた。

 車が動き出すと、天音は膝掛けの下で、桜子の手を取り、指を絡めてきた。

 兄妹なら、こんなことしてはいけないのに。

 そう思ったけれど、彼の手の温かさが嬉しくて、もちろん桜子は手を引くようなことはしなかった。

 夜道だというのに、道に精通している車夫は、難所である「いろは坂」も苦も無くくだり、一時間ほどで二人を汽車の停車場まで連れて行った。

 ぎりぎり最終の汽車に間に合うかもしれない。
 東京までは行けずとも、日光を離れれば、少しは安心できる。

 でも残念なことに汽車は出発した後だった。

「今夜はこの辺りに泊まるしかないな。朝一番の汽車に乗ろう」
「ええ。でも、こんな時間から泊めてくれるような宿はあるのかしら」

 天音は桜子の方を見て、一瞬迷った顔をした。

「どうなさったの?」

「いや、宿なら心当たりがあるよ。さっきの車夫にそれとなく尋ねておいたから」

 天音は桜子の手を取り、暗い夜道を歩きはじめた。

 しばらく坂をくだり、細い裏通りに入ってゆき、一軒の小料理屋の前で立ち止まった。

 天音は看板を確かめ「ここだ」と言った。

***
 

 その頃、別荘の桜子の部屋では、美津がひとり気をもんでいた。

 二人は無事に街まで行かれただろうか。

 夜道で迷ったりしていないだろうか。

 心配は尽きないけれど、自分にはどうすることもできない。
 せめて朝まで、皆に気づかれないように一生懸命ごまかさなければ。

 お嬢様がいなくなったことがわかったら、一番の責めを負わされるのは自分だろう。
 折檻されて、この家から追い出されるかもしれない。

 でも……
 美津は自分を犠牲にしても、大好きな桜子を助けたかった。
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