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第五章 逃避行
四
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父も、すでにわたくしがこの縁談に乗り気でないことに気づいているはず。
だからわたくしたちを一日も早く結びつけてしまいたいのだ。
大資産家である細谷家。
しかも陸軍の若き将校で、将来を嘱望されている高志さんの縁談が〝引く手あまた〟であろうことは、想像に難くない。
だから、父は私たちのあいだに間違いが起こることを、あえて望んでいるのではないか。
そして、その既成事実を盾にとって、この縁談を確実なものにしようと……
いや、もしかしたら、高志さんと父の間で合意があるのかもしれない。
彼に無体なことをされる可能性は、大いにあり得る。
そして……
たとえ酷いことをされたと訴えても、わたくしの味方になってくれる人は誰もいない……もちろん、両親も。
それに気づいて、桜子は冷水を浴びせられたように背筋が寒くなった。
同時に高志の高圧的で冷ややかな視線も思い出す。
「お飾りの妻としては充分だ」と言った言葉も。
まだ婚礼は先のことだと思っていたのに。
その間になんとか逃れるすべを見つけようと思っていたのに。
今すぐ、なんとかしなければならなくなってしまった。
でなければ、わたくしは一生、あの人の支配から逃れられなくなる。
***
桜子にとっての幸運は、敏子が母に付いて東京に行ったことだった。
彼女は美津に文をたくした。
「美津、お願い。この文を天音に渡してきて。人づてでなく、必ず本人に手渡してね」
「はい。お嬢様」
「それから、お前の着物を貸してほしいのだけれど。できるだけ目立たない柄のものを」
両手を握りしめ、必死で訴える桜子を安心させるように美津は大きく頷いた。
「わかりました。すべて美津にお任せください」
美津が出て行ったあと、桜子は長い髪をリボンでひとつに括り、当座の賄いのために宝石類をカバンに詰めた。
五分ほどして、美津が戻ってきた。
「ご安心ください。天音さんにちゃんと文を渡せましたから」
それから美津に彼女の普段着を着せてもらった。
「お嬢様がお召しになると、美津の着物も上等に見えますね」
「ごめんなさいね。東京に帰ったら、新しい着物を誂えてあげるから」
「滅相もないことです。そんなお気遣いはいりません。ただの着古しですから。お嬢様に着ていただくのが申し訳ないような代物なのですから」
玄関に置かれている柱時計が時を知らせた。
今、夜の九時。
これから厩舎に身を潜め、そこで天音を待つ。
桜子は部屋の掃き出し窓から庭に降りた。
そして夜陰に紛れて、門の方に向かった。
天音に宛てた文には、「厩舎に来てほしい」とだけ書いた。
どうにか誰にも見つからず、目的の場所に来ることができ、桜子はほっとため息をついた。
そして、馬たちを驚かさないように足音を忍ばせて、奥に隠れた。
だからわたくしたちを一日も早く結びつけてしまいたいのだ。
大資産家である細谷家。
しかも陸軍の若き将校で、将来を嘱望されている高志さんの縁談が〝引く手あまた〟であろうことは、想像に難くない。
だから、父は私たちのあいだに間違いが起こることを、あえて望んでいるのではないか。
そして、その既成事実を盾にとって、この縁談を確実なものにしようと……
いや、もしかしたら、高志さんと父の間で合意があるのかもしれない。
彼に無体なことをされる可能性は、大いにあり得る。
そして……
たとえ酷いことをされたと訴えても、わたくしの味方になってくれる人は誰もいない……もちろん、両親も。
それに気づいて、桜子は冷水を浴びせられたように背筋が寒くなった。
同時に高志の高圧的で冷ややかな視線も思い出す。
「お飾りの妻としては充分だ」と言った言葉も。
まだ婚礼は先のことだと思っていたのに。
その間になんとか逃れるすべを見つけようと思っていたのに。
今すぐ、なんとかしなければならなくなってしまった。
でなければ、わたくしは一生、あの人の支配から逃れられなくなる。
***
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彼女は美津に文をたくした。
「美津、お願い。この文を天音に渡してきて。人づてでなく、必ず本人に手渡してね」
「はい。お嬢様」
「それから、お前の着物を貸してほしいのだけれど。できるだけ目立たない柄のものを」
両手を握りしめ、必死で訴える桜子を安心させるように美津は大きく頷いた。
「わかりました。すべて美津にお任せください」
美津が出て行ったあと、桜子は長い髪をリボンでひとつに括り、当座の賄いのために宝石類をカバンに詰めた。
五分ほどして、美津が戻ってきた。
「ご安心ください。天音さんにちゃんと文を渡せましたから」
それから美津に彼女の普段着を着せてもらった。
「お嬢様がお召しになると、美津の着物も上等に見えますね」
「ごめんなさいね。東京に帰ったら、新しい着物を誂えてあげるから」
「滅相もないことです。そんなお気遣いはいりません。ただの着古しですから。お嬢様に着ていただくのが申し訳ないような代物なのですから」
玄関に置かれている柱時計が時を知らせた。
今、夜の九時。
これから厩舎に身を潜め、そこで天音を待つ。
桜子は部屋の掃き出し窓から庭に降りた。
そして夜陰に紛れて、門の方に向かった。
天音に宛てた文には、「厩舎に来てほしい」とだけ書いた。
どうにか誰にも見つからず、目的の場所に来ることができ、桜子はほっとため息をついた。
そして、馬たちを驚かさないように足音を忍ばせて、奥に隠れた。
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