36 / 59
第五章 逃避行
四
しおりを挟む
父も、すでにわたくしがこの縁談に乗り気でないことに気づいているはず。
だからわたくしたちを一日も早く結びつけてしまいたいのだ。
大資産家である細谷家。
しかも陸軍の若き将校で、将来を嘱望されている高志さんの縁談が〝引く手あまた〟であろうことは、想像に難くない。
だから、父は私たちのあいだに間違いが起こることを、あえて望んでいるのではないか。
そして、その既成事実を盾にとって、この縁談を確実なものにしようと……
いや、もしかしたら、高志さんと父の間で合意があるのかもしれない。
彼に無体なことをされる可能性は、大いにあり得る。
そして……
たとえ酷いことをされたと訴えても、わたくしの味方になってくれる人は誰もいない……もちろん、両親も。
それに気づいて、桜子は冷水を浴びせられたように背筋が寒くなった。
同時に高志の高圧的で冷ややかな視線も思い出す。
「お飾りの妻としては充分だ」と言った言葉も。
まだ婚礼は先のことだと思っていたのに。
その間になんとか逃れるすべを見つけようと思っていたのに。
今すぐ、なんとかしなければならなくなってしまった。
でなければ、わたくしは一生、あの人の支配から逃れられなくなる。
***
桜子にとっての幸運は、敏子が母に付いて東京に行ったことだった。
彼女は美津に文をたくした。
「美津、お願い。この文を天音に渡してきて。人づてでなく、必ず本人に手渡してね」
「はい。お嬢様」
「それから、お前の着物を貸してほしいのだけれど。できるだけ目立たない柄のものを」
両手を握りしめ、必死で訴える桜子を安心させるように美津は大きく頷いた。
「わかりました。すべて美津にお任せください」
美津が出て行ったあと、桜子は長い髪をリボンでひとつに括り、当座の賄いのために宝石類をカバンに詰めた。
五分ほどして、美津が戻ってきた。
「ご安心ください。天音さんにちゃんと文を渡せましたから」
それから美津に彼女の普段着を着せてもらった。
「お嬢様がお召しになると、美津の着物も上等に見えますね」
「ごめんなさいね。東京に帰ったら、新しい着物を誂えてあげるから」
「滅相もないことです。そんなお気遣いはいりません。ただの着古しですから。お嬢様に着ていただくのが申し訳ないような代物なのですから」
玄関に置かれている柱時計が時を知らせた。
今、夜の九時。
これから厩舎に身を潜め、そこで天音を待つ。
桜子は部屋の掃き出し窓から庭に降りた。
そして夜陰に紛れて、門の方に向かった。
天音に宛てた文には、「厩舎に来てほしい」とだけ書いた。
どうにか誰にも見つからず、目的の場所に来ることができ、桜子はほっとため息をついた。
そして、馬たちを驚かさないように足音を忍ばせて、奥に隠れた。
だからわたくしたちを一日も早く結びつけてしまいたいのだ。
大資産家である細谷家。
しかも陸軍の若き将校で、将来を嘱望されている高志さんの縁談が〝引く手あまた〟であろうことは、想像に難くない。
だから、父は私たちのあいだに間違いが起こることを、あえて望んでいるのではないか。
そして、その既成事実を盾にとって、この縁談を確実なものにしようと……
いや、もしかしたら、高志さんと父の間で合意があるのかもしれない。
彼に無体なことをされる可能性は、大いにあり得る。
そして……
たとえ酷いことをされたと訴えても、わたくしの味方になってくれる人は誰もいない……もちろん、両親も。
それに気づいて、桜子は冷水を浴びせられたように背筋が寒くなった。
同時に高志の高圧的で冷ややかな視線も思い出す。
「お飾りの妻としては充分だ」と言った言葉も。
まだ婚礼は先のことだと思っていたのに。
その間になんとか逃れるすべを見つけようと思っていたのに。
今すぐ、なんとかしなければならなくなってしまった。
でなければ、わたくしは一生、あの人の支配から逃れられなくなる。
***
桜子にとっての幸運は、敏子が母に付いて東京に行ったことだった。
彼女は美津に文をたくした。
「美津、お願い。この文を天音に渡してきて。人づてでなく、必ず本人に手渡してね」
「はい。お嬢様」
「それから、お前の着物を貸してほしいのだけれど。できるだけ目立たない柄のものを」
両手を握りしめ、必死で訴える桜子を安心させるように美津は大きく頷いた。
「わかりました。すべて美津にお任せください」
美津が出て行ったあと、桜子は長い髪をリボンでひとつに括り、当座の賄いのために宝石類をカバンに詰めた。
五分ほどして、美津が戻ってきた。
「ご安心ください。天音さんにちゃんと文を渡せましたから」
それから美津に彼女の普段着を着せてもらった。
「お嬢様がお召しになると、美津の着物も上等に見えますね」
「ごめんなさいね。東京に帰ったら、新しい着物を誂えてあげるから」
「滅相もないことです。そんなお気遣いはいりません。ただの着古しですから。お嬢様に着ていただくのが申し訳ないような代物なのですから」
玄関に置かれている柱時計が時を知らせた。
今、夜の九時。
これから厩舎に身を潜め、そこで天音を待つ。
桜子は部屋の掃き出し窓から庭に降りた。
そして夜陰に紛れて、門の方に向かった。
天音に宛てた文には、「厩舎に来てほしい」とだけ書いた。
どうにか誰にも見つからず、目的の場所に来ることができ、桜子はほっとため息をついた。
そして、馬たちを驚かさないように足音を忍ばせて、奥に隠れた。
0
お気に入りに追加
24
あなたにおすすめの小説
紀尾井坂ノスタルジック
涼寺みすゞ
恋愛
士農工商の身分制度は、御一新により変化した。
元公家出身の堂上華族、大名家の大名華族、勲功から身分を得た新華族。
明治25年4月、英国視察を終えた官の一行が帰国した。その中には1年前、初恋を成就させる為に宮家との縁談を断った子爵家の従五位、田中光留がいた。
日本に帰ったら1番に、あの方に逢いに行くと断言していた光留の耳に入ってきた噂は、恋い焦がれた尾井坂男爵家の晃子の婚約が整ったというものだった。

【完結】人生で一番幸せになる日 ~『災い』だと虐げられた少女は、嫁ぎ先で冷血公爵様から溺愛されて強くなる~
八重
恋愛
【全32話+番外編】
「過去を、後ろを見るのはやめます。今を、そして私を大切に思ってくださっている皆さんのことを思いたい!」
伯爵家の長女シャルロッテ・ヴェーデルは、「生まれると災いをもたらす」と一族で信じられている『金色の目』を持つ少女。生まれたその日から、屋敷には入れてもらえず、父、母、妹にも虐げられて、一人ボロボロの「離れ」で暮らす。
ある日、シャルロッテに『冷血公爵』として知られるエルヴィン・アイヒベルク公爵から、なぜか婚約の申し込みがくる。家族は「災い」であるシャルロッテを追い出すのにちょうどいい口実ができたと、彼女を18歳の誕生日に嫁がせた。
しかし、『冷血公爵』とは裏腹なエルヴィンの優しく愛情深い素顔と婚約の理由を知り、シャルロッテは彼に恩返しするため努力していく。
そして、一族の中で信じられている『金色の目』の話には、実は続きがあって……。
マナーも愛も知らないシャルロッテが「夫のために役に立ちたい!」と努力を重ねて、幸せを掴むお話。
※引き下げにより、書籍版1、2巻の内容を一部改稿して投稿しております

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
その溺愛も仕事のうちでしょ?〜拾ったワケありお兄さんをヒモとして飼うことにしました〜
濘-NEI-
恋愛
梅原奏多、30歳。
男みたいな名前と見た目と声。何もかもがコンプレックスの平凡女子。のはず。
2ヶ月前に2年半付き合った彼氏と別れて、恋愛はちょっとクールダウンしたいところ。
なのに、土砂降りの帰り道でゴミ捨て場に捨てられたお兄さんを発見してしまって、家に連れて帰ると決めてしまったから、この後一体どうしましょう!?
※この作品はエブリスタさんにも掲載しております。

愛しき夫は、男装の姫君と恋仲らしい。
星空 金平糖
恋愛
シエラは、政略結婚で夫婦となった公爵──グレイのことを深く愛していた。
グレイは優しく、とても親しみやすい人柄でその甘いルックスから、結婚してからも数多の女性達と浮名を流していた。
それでもシエラは、グレイが囁いてくれる「私が愛しているのは、あなただけだよ」その言葉を信じ、彼と夫婦であれることに幸福を感じていた。
しかし。ある日。
シエラは、グレイが美貌の少年と親密な様子で、王宮の庭を散策している場面を目撃してしまう。当初はどこかの令息に王宮案内をしているだけだと考えていたシエラだったが、実はその少年が王女─ディアナであると判明する。
聞くところによるとディアナとグレイは昔から想い会っていた。
ディアナはグレイが結婚してからも、健気に男装までしてグレイに会いに来ては逢瀬を重ねているという。
──……私は、ただの邪魔者だったの?
衝撃を受けるシエラは「これ以上、グレイとはいられない」と絶望する……。

愛する貴方の心から消えた私は…
矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。
周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。
…彼は絶対に生きている。
そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。
だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。
「すまない、君を愛せない」
そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。
*設定はゆるいです。
Fly high 〜勘違いから始まる恋〜
吉野 那生
恋愛
平凡なOLとやさぐれ御曹司のオフィスラブ。
ゲレンデで助けてくれた人は取引先の社長 神崎・R・聡一郎だった。
奇跡的に再会を果たした直後、職を失い…彼の秘書となる本城 美月。
なんの資格も取り柄もない美月にとって、そこは居心地の良い場所ではなかったけれど…。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる