7 / 59
第一章 樹下の接吻
七
しおりを挟む
「おお桜子、迎えに来てくれたのか」
「お父様ぁ」
彼女は吉田伯爵に飛びついた。
伯爵は桜子を抱き上げると、その柔らかそうな頬にキスした。
くすぐったそうに身をよじりながら、彼女は一生懸命、伯爵に話しかけた。
「あの子が桜子のお帽子を拾ってくれたの」
伯爵は、彼女を地面にそっと下ろし、言った。
「天音だよ。英国から連れてきた。屋敷で働いてもらうんだ」
彼女はぱっと顔を輝かせた。
「お父様、桜子に王子様を連れてきてくれたの? わたし、王子様とお友達になれるの?」
「ははっ、残念ながらお友達にはなれんな」
「どうして?」
「桜子にふさわしい王子様は、お前が結婚する年になったら、わしが連れてきてやるから心配いらんよ」
彼女は小さな頭を左右に思い切り振った。
「いや! 桜子、この王子様がいい」
そう言って、桜子は天音の腕を掴んで、にっこり笑った。
まったく邪気のない笑顔。
真直ぐ見つめてくる、キラキラ輝く瞳。
魔法をかけられたように、天音の気持ちは明るくなった。
この子のいる家で働けるのなら、悪くはないか、と。
でも、屋敷で天音が桜子に会える機会はほとんどなかった。
伯爵付の家丁である天音は、女性たちが暮らす奥向きに足を踏み入れることはできず、庭への立ち入りも厳重に禁じられていた。
桜子との接点といえば、姉の梅子とふざけ合って笑う声をはるか遠くで聞くぐらいだった。
たったそれだけのことでも、彼女の存在は天音を慰めた。
慣れない異国での、きつい家丁の仕事も、彼女の可愛い笑顔を想って耐え続けた。
けれど月日が経つうちに、天音は自分の立場をしっかりと理解するようになった。
使用人の中でも、地位の低い家丁の自分は、令嬢の桜子と、たった一言の言葉を交わす機会さえ、この先訪れることはないであろうと。
いくらお嬢様を想ったところで詮ないことだ。
天音はそう自分に言い聞かせ、それからは努めて桜子のことを忘れようとした。
けれど、忘れるなんて無理だった。
園遊会で間近に見た桜子は、あまりにも美しく成長していて、雷に打たれたように、ふたたび恋に堕ちてしまった。
可憐な花のような彼女の姿が脳裡にしっかり焼きついて、離れなくなった。
たまたま廊下や玄関などですれ違うと、目で追わずにはいられなくなった。
でも彼女は主筋。
さらに自分を救ってくれた恩人の愛娘。
この恋が許されようはずもない。
自分はちゃんとわきまえている、と思っていた。
だから、付文などしてはいけないと、ただ諭すつもりでクスノキの下に行った。
桜子が本気のはずはない、お嬢様の気まぐれな火遊びに付き合うのはごめんだ、とも思っていた。
でも、抱きしめてしまった。
彼女の真剣で熱い想いと柔らかい肌の感触を知ってしまった今、もう後戻りなんてできやしない。
たとえ、身の破滅を招こうとも。
「お父様ぁ」
彼女は吉田伯爵に飛びついた。
伯爵は桜子を抱き上げると、その柔らかそうな頬にキスした。
くすぐったそうに身をよじりながら、彼女は一生懸命、伯爵に話しかけた。
「あの子が桜子のお帽子を拾ってくれたの」
伯爵は、彼女を地面にそっと下ろし、言った。
「天音だよ。英国から連れてきた。屋敷で働いてもらうんだ」
彼女はぱっと顔を輝かせた。
「お父様、桜子に王子様を連れてきてくれたの? わたし、王子様とお友達になれるの?」
「ははっ、残念ながらお友達にはなれんな」
「どうして?」
「桜子にふさわしい王子様は、お前が結婚する年になったら、わしが連れてきてやるから心配いらんよ」
彼女は小さな頭を左右に思い切り振った。
「いや! 桜子、この王子様がいい」
そう言って、桜子は天音の腕を掴んで、にっこり笑った。
まったく邪気のない笑顔。
真直ぐ見つめてくる、キラキラ輝く瞳。
魔法をかけられたように、天音の気持ちは明るくなった。
この子のいる家で働けるのなら、悪くはないか、と。
でも、屋敷で天音が桜子に会える機会はほとんどなかった。
伯爵付の家丁である天音は、女性たちが暮らす奥向きに足を踏み入れることはできず、庭への立ち入りも厳重に禁じられていた。
桜子との接点といえば、姉の梅子とふざけ合って笑う声をはるか遠くで聞くぐらいだった。
たったそれだけのことでも、彼女の存在は天音を慰めた。
慣れない異国での、きつい家丁の仕事も、彼女の可愛い笑顔を想って耐え続けた。
けれど月日が経つうちに、天音は自分の立場をしっかりと理解するようになった。
使用人の中でも、地位の低い家丁の自分は、令嬢の桜子と、たった一言の言葉を交わす機会さえ、この先訪れることはないであろうと。
いくらお嬢様を想ったところで詮ないことだ。
天音はそう自分に言い聞かせ、それからは努めて桜子のことを忘れようとした。
けれど、忘れるなんて無理だった。
園遊会で間近に見た桜子は、あまりにも美しく成長していて、雷に打たれたように、ふたたび恋に堕ちてしまった。
可憐な花のような彼女の姿が脳裡にしっかり焼きついて、離れなくなった。
たまたま廊下や玄関などですれ違うと、目で追わずにはいられなくなった。
でも彼女は主筋。
さらに自分を救ってくれた恩人の愛娘。
この恋が許されようはずもない。
自分はちゃんとわきまえている、と思っていた。
だから、付文などしてはいけないと、ただ諭すつもりでクスノキの下に行った。
桜子が本気のはずはない、お嬢様の気まぐれな火遊びに付き合うのはごめんだ、とも思っていた。
でも、抱きしめてしまった。
彼女の真剣で熱い想いと柔らかい肌の感触を知ってしまった今、もう後戻りなんてできやしない。
たとえ、身の破滅を招こうとも。
0
お気に入りに追加
24
あなたにおすすめの小説
紀尾井坂ノスタルジック
涼寺みすゞ
恋愛
士農工商の身分制度は、御一新により変化した。
元公家出身の堂上華族、大名家の大名華族、勲功から身分を得た新華族。
明治25年4月、英国視察を終えた官の一行が帰国した。その中には1年前、初恋を成就させる為に宮家との縁談を断った子爵家の従五位、田中光留がいた。
日本に帰ったら1番に、あの方に逢いに行くと断言していた光留の耳に入ってきた噂は、恋い焦がれた尾井坂男爵家の晃子の婚約が整ったというものだった。

【完結】人生で一番幸せになる日 ~『災い』だと虐げられた少女は、嫁ぎ先で冷血公爵様から溺愛されて強くなる~
八重
恋愛
【全32話+番外編】
「過去を、後ろを見るのはやめます。今を、そして私を大切に思ってくださっている皆さんのことを思いたい!」
伯爵家の長女シャルロッテ・ヴェーデルは、「生まれると災いをもたらす」と一族で信じられている『金色の目』を持つ少女。生まれたその日から、屋敷には入れてもらえず、父、母、妹にも虐げられて、一人ボロボロの「離れ」で暮らす。
ある日、シャルロッテに『冷血公爵』として知られるエルヴィン・アイヒベルク公爵から、なぜか婚約の申し込みがくる。家族は「災い」であるシャルロッテを追い出すのにちょうどいい口実ができたと、彼女を18歳の誕生日に嫁がせた。
しかし、『冷血公爵』とは裏腹なエルヴィンの優しく愛情深い素顔と婚約の理由を知り、シャルロッテは彼に恩返しするため努力していく。
そして、一族の中で信じられている『金色の目』の話には、実は続きがあって……。
マナーも愛も知らないシャルロッテが「夫のために役に立ちたい!」と努力を重ねて、幸せを掴むお話。
※引き下げにより、書籍版1、2巻の内容を一部改稿して投稿しております

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

骸骨と呼ばれ、生贄になった王妃のカタの付け方
ウサギテイマーTK
恋愛
骸骨娘と揶揄され、家で酷い扱いを受けていたマリーヌは、国王の正妃として嫁いだ。だが結婚後、国王に愛されることなく、ここでも幽閉に近い扱いを受ける。側妃はマリーヌの義姉で、公式行事も側妃が請け負っている。マリーヌに与えられた最後の役割は、海の神への生贄だった。
注意:地震や津波の描写があります。ご注意を。やや残酷な描写もあります。

もう、愛はいりませんから
さくたろう
恋愛
ローザリア王国公爵令嬢ルクレティア・フォルセティに、ある日突然、未来の記憶が蘇った。
王子リーヴァイの愛する人を殺害しようとした罪により投獄され、兄に差し出された毒を煽り死んだ記憶だ。それが未来の出来事だと確信したルクレティアは、そんな未来に怯えるが、その記憶のおかしさに気がつき、謎を探ることにする。そうしてやがて、ある人のひたむきな愛を知ることになる。
その溺愛も仕事のうちでしょ?〜拾ったワケありお兄さんをヒモとして飼うことにしました〜
濘-NEI-
恋愛
梅原奏多、30歳。
男みたいな名前と見た目と声。何もかもがコンプレックスの平凡女子。のはず。
2ヶ月前に2年半付き合った彼氏と別れて、恋愛はちょっとクールダウンしたいところ。
なのに、土砂降りの帰り道でゴミ捨て場に捨てられたお兄さんを発見してしまって、家に連れて帰ると決めてしまったから、この後一体どうしましょう!?
※この作品はエブリスタさんにも掲載しております。

愛しき夫は、男装の姫君と恋仲らしい。
星空 金平糖
恋愛
シエラは、政略結婚で夫婦となった公爵──グレイのことを深く愛していた。
グレイは優しく、とても親しみやすい人柄でその甘いルックスから、結婚してからも数多の女性達と浮名を流していた。
それでもシエラは、グレイが囁いてくれる「私が愛しているのは、あなただけだよ」その言葉を信じ、彼と夫婦であれることに幸福を感じていた。
しかし。ある日。
シエラは、グレイが美貌の少年と親密な様子で、王宮の庭を散策している場面を目撃してしまう。当初はどこかの令息に王宮案内をしているだけだと考えていたシエラだったが、実はその少年が王女─ディアナであると判明する。
聞くところによるとディアナとグレイは昔から想い会っていた。
ディアナはグレイが結婚してからも、健気に男装までしてグレイに会いに来ては逢瀬を重ねているという。
──……私は、ただの邪魔者だったの?
衝撃を受けるシエラは「これ以上、グレイとはいられない」と絶望する……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる