明治ハイカラ恋愛事情 ~伯爵令嬢の恋~

泉南佳那

文字の大きさ
上 下
6 / 59
第一章 樹下の接吻

しおりを挟む
 
 英国からひと月あまりの船旅を経て、日本に到着したとき、自分はまだほんの子供だった。

 唯一の肉親だった日本人の母が心臓発作で急死し、天涯孤独となった自分を、吉田伯爵は家丁にするために引き取った。
 
 物心ついたときから、父はいなかった。
 死別なのか、離縁したのか、母から訊いていないのでわからない。
 
 子供ながら、伯爵には心の底から感謝した。

 親のない子供の末路は哀れだ。

 あのまま英国にいたら、劣悪な環境のなかで末は野垂れ死か、せいぜい犯罪者として生きていくぐらいが、関の山だっただろう。

 そうは言っても、慣れ親しんだ故郷を離れることは正直、怖かった。

 しかも日本は欧州からはるか遠くの極東の地。

 幼いころ、母からよく日本の思い出話を聞かされてきたとはいえ、知っていることはほんのわずか。
 話せる日本語も挨拶程度だ。
 
 
 だから、長い航海の間、いつも不安で心が押しつぶされそうになっていた。

 夜、甲板に出て、暗黒の海を眺めながら身投げしようと思ったことも一度や二度ではなかった。
 けれど、できなかった。
 そこまでの勇気は持ち合わせていなかった。

 そうやって逡巡しゅんじゅんしているうちに、船は横浜港に到着した。

 タラップを降りると、出迎えに来ているのは、あたりまえだけれど日本人ばかり。
 容貌も服装も英国人とはまるで違う。

 そして、すれ違うたびに、彼らは自分に好奇の目を向けてきた。

 ああ、そうか。
 この国では、金髪で緑の目を持つ自分のほうが珍獣のようなものなのか。

 この国で、どうやって生きていけばいいのか。
 船中の不安が現実のものになったことを悟り、気持ちは暗く沈んでゆく一方だった。



「少し、ここで待っていなさい。出迎えの者を探してくるから」

 伯爵にそう言われ、桟橋の係船柱に座って待っていた。
 すると、強い風とともに目の前に小さな帽子が転がってきた。

 黒いリボンのついた、女の子用の小さな麦わら帽だ。

 天音は思わず立ちあがり、少し追いかけて拾い上げた。

 そのとき、向こうから幼い少女が弾むように駆けてきた。

「それ、わたしの」と言いかけて、彼女は、はっと口をつぐんだ。

 言葉が通じないと思ったのだろう。

「どうぞ」
 天音はそう言って、帽子を手渡した。

 すると、少女はくりっとした黒い目を真ん丸に見開き、可愛らしい小さな口を大きく開けた。

「え、あなた日本語、できるの」
「す、少しだけ」

 彼女の顔に笑みが浮かんだ。

 ああ、なんて、愛らしい。

 その笑顔は、それまで暗雲のように垂れこめていたうれいを一瞬忘れさせた。


 それに彼女は、とても自然に日本人と違う容貌の自分を受け入れてくれた。


 そのときの天音には、それが何よりの救いとなった。
 
しおりを挟む
感想 5

あなたにおすすめの小説

紀尾井坂ノスタルジック

涼寺みすゞ
恋愛
士農工商の身分制度は、御一新により変化した。 元公家出身の堂上華族、大名家の大名華族、勲功から身分を得た新華族。 明治25年4月、英国視察を終えた官の一行が帰国した。その中には1年前、初恋を成就させる為に宮家との縁談を断った子爵家の従五位、田中光留がいた。 日本に帰ったら1番に、あの方に逢いに行くと断言していた光留の耳に入ってきた噂は、恋い焦がれた尾井坂男爵家の晃子の婚約が整ったというものだった。

【完結】人生で一番幸せになる日 ~『災い』だと虐げられた少女は、嫁ぎ先で冷血公爵様から溺愛されて強くなる~

八重
恋愛
【全32話+番外編】 「過去を、後ろを見るのはやめます。今を、そして私を大切に思ってくださっている皆さんのことを思いたい!」  伯爵家の長女シャルロッテ・ヴェーデルは、「生まれると災いをもたらす」と一族で信じられている『金色の目』を持つ少女。生まれたその日から、屋敷には入れてもらえず、父、母、妹にも虐げられて、一人ボロボロの「離れ」で暮らす。  ある日、シャルロッテに『冷血公爵』として知られるエルヴィン・アイヒベルク公爵から、なぜか婚約の申し込みがくる。家族は「災い」であるシャルロッテを追い出すのにちょうどいい口実ができたと、彼女を18歳の誕生日に嫁がせた。  しかし、『冷血公爵』とは裏腹なエルヴィンの優しく愛情深い素顔と婚約の理由を知り、シャルロッテは彼に恩返しするため努力していく。  そして、一族の中で信じられている『金色の目』の話には、実は続きがあって……。  マナーも愛も知らないシャルロッテが「夫のために役に立ちたい!」と努力を重ねて、幸せを掴むお話。 ※引き下げにより、書籍版1、2巻の内容を一部改稿して投稿しております

すれ違ってしまった恋

秋風 爽籟
恋愛
別れてから何年も経って大切だと気が付いた… それでも、いつか戻れると思っていた… でも現実は厳しく、すれ違ってばかり…

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

その溺愛も仕事のうちでしょ?〜拾ったワケありお兄さんをヒモとして飼うことにしました〜

濘-NEI-
恋愛
梅原奏多、30歳。 男みたいな名前と見た目と声。何もかもがコンプレックスの平凡女子。のはず。 2ヶ月前に2年半付き合った彼氏と別れて、恋愛はちょっとクールダウンしたいところ。 なのに、土砂降りの帰り道でゴミ捨て場に捨てられたお兄さんを発見してしまって、家に連れて帰ると決めてしまったから、この後一体どうしましょう!? ※この作品はエブリスタさんにも掲載しております。

愛しき夫は、男装の姫君と恋仲らしい。

星空 金平糖
恋愛
シエラは、政略結婚で夫婦となった公爵──グレイのことを深く愛していた。 グレイは優しく、とても親しみやすい人柄でその甘いルックスから、結婚してからも数多の女性達と浮名を流していた。 それでもシエラは、グレイが囁いてくれる「私が愛しているのは、あなただけだよ」その言葉を信じ、彼と夫婦であれることに幸福を感じていた。 しかし。ある日。 シエラは、グレイが美貌の少年と親密な様子で、王宮の庭を散策している場面を目撃してしまう。当初はどこかの令息に王宮案内をしているだけだと考えていたシエラだったが、実はその少年が王女─ディアナであると判明する。 聞くところによるとディアナとグレイは昔から想い会っていた。 ディアナはグレイが結婚してからも、健気に男装までしてグレイに会いに来ては逢瀬を重ねているという。 ──……私は、ただの邪魔者だったの? 衝撃を受けるシエラは「これ以上、グレイとはいられない」と絶望する……。

愛する貴方の心から消えた私は…

矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。 周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。  …彼は絶対に生きている。 そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。 だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。 「すまない、君を愛せない」 そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。 *設定はゆるいです。

Fly high 〜勘違いから始まる恋〜

吉野 那生
恋愛
平凡なOLとやさぐれ御曹司のオフィスラブ。 ゲレンデで助けてくれた人は取引先の社長 神崎・R・聡一郎だった。 奇跡的に再会を果たした直後、職を失い…彼の秘書となる本城 美月。 なんの資格も取り柄もない美月にとって、そこは居心地の良い場所ではなかったけれど…。

処理中です...