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第一章 樹下の接吻
六
しおりを挟む英国からひと月あまりの船旅を経て、日本に到着したとき、自分はまだほんの子供だった。
唯一の肉親だった日本人の母が心臓発作で急死し、天涯孤独となった自分を、吉田伯爵は家丁にするために引き取った。
物心ついたときから、父はいなかった。
死別なのか、離縁したのか、母から訊いていないのでわからない。
子供ながら、伯爵には心の底から感謝した。
親のない子供の末路は哀れだ。
あのまま英国にいたら、劣悪な環境のなかで末は野垂れ死か、せいぜい犯罪者として生きていくぐらいが、関の山だっただろう。
そうは言っても、慣れ親しんだ故郷を離れることは正直、怖かった。
しかも日本は欧州からはるか遠くの極東の地。
幼いころ、母からよく日本の思い出話を聞かされてきたとはいえ、知っていることはほんのわずか。
話せる日本語も挨拶程度だ。
だから、長い航海の間、いつも不安で心が押しつぶされそうになっていた。
夜、甲板に出て、暗黒の海を眺めながら身投げしようと思ったことも一度や二度ではなかった。
けれど、できなかった。
そこまでの勇気は持ち合わせていなかった。
そうやって逡巡しているうちに、船は横浜港に到着した。
タラップを降りると、出迎えに来ているのは、あたりまえだけれど日本人ばかり。
容貌も服装も英国人とはまるで違う。
そして、すれ違うたびに、彼らは自分に好奇の目を向けてきた。
ああ、そうか。
この国では、金髪で緑の目を持つ自分のほうが珍獣のようなものなのか。
この国で、どうやって生きていけばいいのか。
船中の不安が現実のものになったことを悟り、気持ちは暗く沈んでゆく一方だった。
「少し、ここで待っていなさい。出迎えの者を探してくるから」
伯爵にそう言われ、桟橋の係船柱に座って待っていた。
すると、強い風とともに目の前に小さな帽子が転がってきた。
黒いリボンのついた、女の子用の小さな麦わら帽だ。
天音は思わず立ちあがり、少し追いかけて拾い上げた。
そのとき、向こうから幼い少女が弾むように駆けてきた。
「それ、わたしの」と言いかけて、彼女は、はっと口を噤んだ。
言葉が通じないと思ったのだろう。
「どうぞ」
天音はそう言って、帽子を手渡した。
すると、少女はくりっとした黒い目を真ん丸に見開き、可愛らしい小さな口を大きく開けた。
「え、あなた日本語、できるの」
「す、少しだけ」
彼女の顔に笑みが浮かんだ。
ああ、なんて、愛らしい。
その笑顔は、それまで暗雲のように垂れこめていた愁いを一瞬忘れさせた。
それに彼女は、とても自然に日本人と違う容貌の自分を受け入れてくれた。
そのときの天音には、それが何よりの救いとなった。
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