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第一章 樹下の接吻

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 やはり、文は届かなかったのかしら。
 それとも、無視……されたということ……

 落胆して気持ちが沈みかけたそのとき、大樹の背後から周囲を伺うように白の詰襟の上着に黒のトラウザーをはいた青年が現れた。

 仄暗い木陰でも、桜子にはすぐ、わかった。  

 まさしく付文の相手であることが。

「桜子様」
「天音、来てくださったのね」

 彼の名は天音あまね
 それはこの家での呼び名で、本名はしらない。

 天音は英日混血の孤児であった。

 桜子の父が公使として英国に赴任していたとき、公使館で下働きをしていた天音の母が急死し、天涯孤独の身となった彼の庇護を父が申し出て、日本に連れ帰った。

 天音がとても美しい少年だったので、父は自分の手元に置きたくなったらしい。

 桜子の父、吉田義謙よしかね伯爵は自分の身のまわりの世話をさせる家丁かていに見目麗しい少年をそろえていた。

 けれど、選りすぐりの少年家丁のなかでさえ、天音の美しさは際立っていた。

 十年前、桜子がはじめて横浜の港で出会ったとき、天音は透けるような金色の髪と緑青のような不思議な色の瞳を持つ、お伽話に登場する異国の王子そのものだった。

 今は悪目立ちするので金髪は黒く染めているけれど。

 そのとき桜子は、まだ七歳の幼い少女だったけれど、出会った瞬間、天音に恋をした。
 
 あれから十年あまり。
 桜子よりふたつ年上の天音。
 華奢だった少年は、逞しい青年に成長を遂げていた。
 
「ご忠告に参ったのです。いけません。伯爵家のご令嬢がこのような蓮っ葉女の真似などなさっては」

「でも、こうでもしなければ、人目がうるさくて、天音とゆっくりお話ができないもの」

 彼はふうっと大きく息をつき、桜子を見つめた。

「もし旦那様に見つかりでもしたら」

「大丈夫よ。お父様、今夜はあちらのお宅にお出かけになっていらっしゃるし、お母様は宮西様の晩餐会にお出かけだから」

 どう諭しても従いそうもない桜子の様子に、天音は小さくため息をもらすと、お仕着せの上着をさっと脱ぎ、それを芝に敷き、桜子に座るように促した。
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