57 / 92
第6章 〈レッスン3〉 ハグ+キスの真の効用
4
しおりを挟む
***
その日の午後9時過ぎ、わたしは玲伊さんの待つカフェに出向いた。
ガラスの向こうに彼の姿を認め、わたしはドアを開けて、その席に向かった。
そして、観葉植物で隠れて見えなかった、もうひとりの存在に気づいた。
「優ちゃん」
玲伊さんと一緒に、笹岡さんが立ち上がった。
「加藤さん、今朝はどうも」
「こんばんは」
とっさに笑顔を作ろうとしたけれど、できなかった。
玲伊さんに促され、わたしはふたりの向かいに座った。
彼は店員さんに手で合図した。
「何がいい?」
「あ、じゃあアイスティーで」
なかば上の空で、わたしはそう答えた。
そのとき、頭のなかでは、これから玲伊さんに言われるであろうセリフが駆け巡っていた。
『昨日ははずみであんなことをしてすまなかった。優ちゃんが言っていたとおり、俺たちは付き合っているんだ』と。
覚悟して待っていると、予想とは違い、玲伊さんではなく、話しはじめたのは笹岡さんだった。
「オーナーから加藤さんがわたしたちのことを誤解していると聞いて、わたしが直接お話ししたほうがいいと思って」
グラスの水を一口飲んでから、彼女が語りだした話は、わたしがまったく思いもよらないものだった。
「あなたがわたしたちを見かけた日はね。亡くなったわたしの婚約者の命日で墓参りに行ったのよ。オーナーも彼の友人だったから」
「えっ?」
彼女は静かな表情のまま、話を続けた。
大学を卒業した笹岡さんはニューヨークの日系企業に就職した。
同じころ、玲伊さんもニューヨークの美容院に勤めていて、笹岡さんがお客さんになったのがきっかけで知り合ったそうだ。
当時、互いに付き合っている人がいて、たまに4人で飲みにいくような間柄だったと彼女は言った。
「わたしの彼は日本人で、同じ企業に勤めていたの。その次の年、日本に帰って結婚することも決まっていて」
でも、幸せなふたりに悲劇が襲った。
週末、たまたま訪れた郊外のショッピングセンターで、銃の乱射事件に巻き込まれてしまったのだ。
しかも、笹岡さんの婚約者が彼女をかばって犠牲となってしまった。
婚約者を目の前で失った事実は計り知れないほど大きなもので、立ち直れないほどのショックを彼女に与えた。
「わたしはそれからすぐ、日本に帰って、仕事もせずに実家に引きこもっていたわ。その間もオーナーは何かと気にかけてくれていた。3年後〈リインカネーション〉の立ち上げメンバーに誘ってもらって、ようやく仕事を始めることができたの」
あまりにも衝撃的な事実に、わたしはどういう表情をすればいいのかわからず、下を向いてただ「そんな……」と一言呟いた。
目に涙がにじんできた。
わたしは慌てて、ハンカチを出して目に当てた。
そんなわたしを優しい眼差しで見つめながら、彼女は続けた。
「オーナーに大変な恩義を感じていることは確かだけど、恋愛感情を抱いたことは一度もないのよ。わたしは亡くなった彼しか愛せないから。話はこれで全部。後は信じていただくしかないのだけれど」
彼女は口元にかすかに笑みを浮かべた。
わたしは頭を下げた。
「ごめんなさい。そんなつらい思い出をお話していただくなんて」
「いいえ。どうかお気になさらないで。もうずいぶん昔の話だから。オーナーに『加藤さんにその話をしていいか』と聞かれたとき、自分で話すと言ったぐらい。散々世話をかけたオーナーのためだもの。そのくらいのこと、なんでもないわよ」
笑顔を浮かべてそう言うと、笹岡さんは立ちあがった。
「では、わたしは帰るわね。彼からあなたに話があるそうだし」
「笹岡、世話をかけたな」
彼女は「どういたしまして」と言うと、店を後にした。
その日の午後9時過ぎ、わたしは玲伊さんの待つカフェに出向いた。
ガラスの向こうに彼の姿を認め、わたしはドアを開けて、その席に向かった。
そして、観葉植物で隠れて見えなかった、もうひとりの存在に気づいた。
「優ちゃん」
玲伊さんと一緒に、笹岡さんが立ち上がった。
「加藤さん、今朝はどうも」
「こんばんは」
とっさに笑顔を作ろうとしたけれど、できなかった。
玲伊さんに促され、わたしはふたりの向かいに座った。
彼は店員さんに手で合図した。
「何がいい?」
「あ、じゃあアイスティーで」
なかば上の空で、わたしはそう答えた。
そのとき、頭のなかでは、これから玲伊さんに言われるであろうセリフが駆け巡っていた。
『昨日ははずみであんなことをしてすまなかった。優ちゃんが言っていたとおり、俺たちは付き合っているんだ』と。
覚悟して待っていると、予想とは違い、玲伊さんではなく、話しはじめたのは笹岡さんだった。
「オーナーから加藤さんがわたしたちのことを誤解していると聞いて、わたしが直接お話ししたほうがいいと思って」
グラスの水を一口飲んでから、彼女が語りだした話は、わたしがまったく思いもよらないものだった。
「あなたがわたしたちを見かけた日はね。亡くなったわたしの婚約者の命日で墓参りに行ったのよ。オーナーも彼の友人だったから」
「えっ?」
彼女は静かな表情のまま、話を続けた。
大学を卒業した笹岡さんはニューヨークの日系企業に就職した。
同じころ、玲伊さんもニューヨークの美容院に勤めていて、笹岡さんがお客さんになったのがきっかけで知り合ったそうだ。
当時、互いに付き合っている人がいて、たまに4人で飲みにいくような間柄だったと彼女は言った。
「わたしの彼は日本人で、同じ企業に勤めていたの。その次の年、日本に帰って結婚することも決まっていて」
でも、幸せなふたりに悲劇が襲った。
週末、たまたま訪れた郊外のショッピングセンターで、銃の乱射事件に巻き込まれてしまったのだ。
しかも、笹岡さんの婚約者が彼女をかばって犠牲となってしまった。
婚約者を目の前で失った事実は計り知れないほど大きなもので、立ち直れないほどのショックを彼女に与えた。
「わたしはそれからすぐ、日本に帰って、仕事もせずに実家に引きこもっていたわ。その間もオーナーは何かと気にかけてくれていた。3年後〈リインカネーション〉の立ち上げメンバーに誘ってもらって、ようやく仕事を始めることができたの」
あまりにも衝撃的な事実に、わたしはどういう表情をすればいいのかわからず、下を向いてただ「そんな……」と一言呟いた。
目に涙がにじんできた。
わたしは慌てて、ハンカチを出して目に当てた。
そんなわたしを優しい眼差しで見つめながら、彼女は続けた。
「オーナーに大変な恩義を感じていることは確かだけど、恋愛感情を抱いたことは一度もないのよ。わたしは亡くなった彼しか愛せないから。話はこれで全部。後は信じていただくしかないのだけれど」
彼女は口元にかすかに笑みを浮かべた。
わたしは頭を下げた。
「ごめんなさい。そんなつらい思い出をお話していただくなんて」
「いいえ。どうかお気になさらないで。もうずいぶん昔の話だから。オーナーに『加藤さんにその話をしていいか』と聞かれたとき、自分で話すと言ったぐらい。散々世話をかけたオーナーのためだもの。そのくらいのこと、なんでもないわよ」
笑顔を浮かべてそう言うと、笹岡さんは立ちあがった。
「では、わたしは帰るわね。彼からあなたに話があるそうだし」
「笹岡、世話をかけたな」
彼女は「どういたしまして」と言うと、店を後にした。
2
お気に入りに追加
111
あなたにおすすめの小説
優しい愛に包まれて~イケメンとの同居生活はドキドキの連続です~
けいこ
恋愛
人生に疲れ、自暴自棄になり、私はいろんなことから逃げていた。
してはいけないことをしてしまった自分を恥ながらも、この関係を断ち切れないままでいた。
そんな私に、ひょんなことから同居生活を始めた個性的なイケメン男子達が、それぞれに甘く優しく、大人の女の恋心をくすぐるような言葉をかけてくる…
ピアノが得意で大企業の御曹司、山崎祥太君、24歳。
有名大学に通い医師を目指してる、神田文都君、23歳。
美大生で画家志望の、望月颯君、21歳。
真っ直ぐで素直なみんなとの関わりの中で、ひどく冷め切った心が、ゆっくり溶けていくのがわかった。
家族、同居の女子達ともいろいろあって、大きく揺れ動く気持ちに戸惑いを隠せない。
こんな私でもやり直せるの?
幸せを願っても…いいの?
動き出す私の未来には、いったい何が待ち受けているの?
あなたと恋に落ちるまで~御曹司は、一途に私に恋をする~
けいこ
恋愛
カフェも併設されたオシャレなパン屋で働く私は、大好きなパンに囲まれて幸せな日々を送っていた。
ただ…
トラウマを抱え、恋愛が上手く出来ない私。
誰かを好きになりたいのに傷つくのが怖いって言う恋愛こじらせ女子。
いや…もう女子と言える年齢ではない。
キラキラドキドキした恋愛はしたい…
結婚もしなきゃいけないと…思ってはいる25歳。
最近、パン屋に来てくれるようになったスーツ姿のイケメン過ぎる男性。
彼が百貨店などを幅広く経営する榊グループの社長で御曹司とわかり、店のみんなが騒ぎ出して…
そんな人が、
『「杏」のパンを、時々会社に配達してもらいたい』
だなんて、私を指名してくれて…
そして…
スーパーで買ったイチゴを落としてしまったバカな私を、必死に走って追いかけ、届けてくれた20歳の可愛い系イケメン君には、
『今度、一緒にテーマパーク行って下さい。この…メロンパンと塩パンとカフェオレのお礼したいから』
って、誘われた…
いったい私に何が起こっているの?
パン屋に出入りする同年齢の爽やかイケメン、パン屋の明るい美人店長、バイトの可愛い女の子…
たくさんの個性溢れる人々に関わる中で、私の平凡過ぎる毎日が変わっていくのがわかる。
誰かを思いっきり好きになって…
甘えてみても…いいですか?
※after story別作品で公開中(同じタイトル)
ある日、憧れブランドの社長が溺愛求婚してきました
蓮恭
恋愛
恋人に裏切られ、傷心のヒロイン杏子は勤め先の美容室を去り、人気の老舗美容室に転職する。
そこで真面目に培ってきた技術を買われ、憧れのヘアケアブランドの社長である統一郎の自宅を訪問して施術をする事に……。
しかも統一郎からどうしてもと頼まれたのは、その後の杏子の人生を大きく変えてしまうような事で……⁉︎
杏子は過去の臆病な自分と決別し、統一郎との新しい一歩を踏み出せるのか?
【サクサク読める現代物溺愛系恋愛ストーリーです】

手を伸ばした先にいるのは誰ですか~愛しくて切なくて…憎らしいほど愛してる~【完結】
まぁ
恋愛
ワイン、ホテルの企画業務など大人の仕事、そして大人に切り離せない恋愛と…
「Ninagawa Queen's Hotel」
若きホテル王 蜷川朱鷺
妹 蜷川美鳥
人気美容家 佐井友理奈
「オークワイナリー」
国内ワイナリー最大手創業者一族 柏木龍之介
血縁関係のない兄妹と、その周辺の何角関係…?
華やかな人々が繰り広げる、フィクションです。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

君色ロマンス~副社長の甘い恋の罠~
松本ユミ
恋愛
デザイン事務所で働く伊藤香澄は、ひょんなことから副社長の身の回りの世話をするように頼まれて……。
「君に好意を寄せているから付き合いたいってこと」
副社長の低く甘い声が私の鼓膜を震わせ、封じ込めたはずのあなたへの想いがあふれ出す。
真面目OLの恋の行方は?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる