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 すると彼は振りむき、前髪をかき上げながら、悩ましげな流し目でわたしを見つめてきた。

 「じゃあ……キス、してくれます?」
 「えっ?」

 急変した彼の表情に驚いて、思わず凝視してしまった。

 切れ長で明るい茶色の瞳。すっきり通った鼻筋。シャープな顎のライン。

 みんなが騒ぐだけある。
 麗しすぎる。
 国民的イケメンタレントたちと比べてもまったく遜色ない。
 
 驚きに対する身体の反応は後からやってきた。
 ドキドキと心臓が高鳴る。顔が紅潮してきたのもわかる。

 「わ、わたしのキスなんてお礼にならないでしょう?」
 
 慌てるわたしに、浅野くんは耐えきれなくなったように笑い出した。

 あ、からかわれたのか。もう。

 「よかった。少しだけど顔色、戻りましたね。さっきは真っ青で倒れるんじゃないかって心配になったけど」
 「も、もう、年上をからかわないでよ」

 彼は何も言わず、微笑んでわたしの額を指先でつんとつついた。

 つ、つん? つんって……

 「今の梶原さん、可愛すぎるんです。会社にいるときとまるで違うから反応が面白くて、つい」

 「何、それ。そっちこそ、会社にいる時とぜんぜん違うじゃない。すぐからかってくるし」

 「そう。実は腹黒なんですよ、俺。さ、本当に遅くなるから」

 そう言って、まず洗面所、そしてゲストルームに案内してくれた。
 ベッドとサイドテーブルだけの、シンプルな部屋だった。

 「そうだ。明日の予定とかありますか?」
 「ないない。その先だってどうなるかわからないんだし」
 「そうでしたね。じゃあ、お休みなさい」
 「うん、お休み」

 洗面を終え、部屋に入り、ベッドに腰をおろす。
 
 浅野くんとのやり取りで、ほんの少しショックが遠のいていたけれど、こうして一人になると数時間前の記憶がまざまざと脳裏に蘇ってくる。

 よりによって、同じ部の留奈を家に連れ込むなんて。
 誘惑したのはたぶん彼女だろうけど、もう完全にアウト。
 あそこはわたしの家でもある。そこであんなことされたら、もう宣人のことは一切、信用できない。

 正直、会社にも行きたくない。
 でも、今の会社をやめるつもりはない、というか、やめることなんてできない。

 失業した娘を養ってくれるほど、うちは裕福じゃないから。

 父は昨年、定年退職したので、つましい年金暮らし。加えて、母の通院費や入院費もかかる。

 転職という手もあるけれど、一介の事務員であるわたしにたいしたスキルはない。
 年齢を考えれば、今以上の条件、いや正社員で雇ってくれる会社があるかどうか。

 あーあ、なんでこんな目に合わなければならないんだろう。

 引っ越し費用のことも頭が痛い。
 部屋が見つかるまでのマンスリーマンションの賃料、新しい部屋の敷金、礼金……

 こつこつ貯めてきた貯金をはたくことになりそう。

 でも、いつまでくよくよしても仕方がない。
 出ていく以外の選択肢はないのだから。

 あれこれ悩んでいたから、さすがに眠れないかと思っていたけれど、いろいろな疲れとベッドのあまりの寝心地の良さに引き込まれるように眠りに落ち、目が覚めたときはすでに朝の9時を過ぎていた。

 (一人にするのが心配なんです)って、浅野くんは言ってくれたけど。

 こんな図太いわたしを心配してくれたなんて、浅野くん、取り越しく苦労もいいところだ。

 着替えと洗面を終えて、リビングに向かった。

 「おはよう」とリビングに入ってゆくと、黒いエプロンをつけた浅野くんがアイランドキッチンに立っていた。
 「おはよう。眠れました?」

 そう言って微笑む彼に、一瞬、くらっと眩暈のようなものを感じた。
 
 イケメンがエプロンしてキッチンに立ってるなんて。
 もう、このシチュエーション、ズルすぎるんだけど。

 心の態勢をなんとか立て直し、わたしは答えた。
 「うん、今までぐっすり」
 「それはよかった」

 そういう彼は明らかに寝不足の顔をしていた。
 「浅野くんは眠れなかったの?」
 「いや、寝る前にゲームをはじめちゃって。休みの時にしかできないから」
 「そっか。ねえ手伝うよ」

 彼はガスコンロの火を止め、鍋のなかのものをうつわによそいながら言った。
 「もうできましたから、そこに座っててください」
 見ると、配膳はすっかり終わっていて、あとは彼が手にしている器を置くだけになっていた。
 
 「もう何から何までお世話になって、本当、感謝しかない」
 「もう聞き飽きましたって。そのフレーズ」
 彼は苦笑しながら「どうぞ」と湯気の立っている茶碗をわたしの前に置いた。

 粉引の大振りな器の中身はお粥だった。
 「わざわざ作ってくれたんだ」

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