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File.--- この世に愛など存在しない

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「この世に愛なんてものはないのよ」



  しわしわの手でコーヒーカップに口をつけていた老婆がぽつりとそんな言葉をこぼした。ほのかに甘い香りが部屋に漂っている。

  彼女はカフェオレが好きだ。特に『僕』が淹れたカフェオレが。彼女の嗜好を吟味し、コーヒー豆の配分からミルクの温度にまでこだわった一杯なのだから当然かもしれないが。ちなみに一時期ブラックコーヒーを飲めるようになろうと努力したことがあったが挫折したのだと、十二日と六時間十五分七秒前に話していた。


  『僕』はコンピュータの画面から視線を上げ、老婆へ向けた。線の細い高齢の女性。眼鏡の奥には、意志の強い黒い瞳。

  『僕』は彼女の目が好きだ。凛として、それでいて底抜けに優しい光を宿している。目は大きいが黒目はそこまでではないので三白眼の気があるその、白い結膜が美しい。ミルクを湛えたような甘いやわらかさがある。それを伝えたとき、彼女は嬉しそうにこう言った。

 「随分前にも同じ言葉で褒めてくれた人がいたわ。わたしはその言葉のおかげで、自分の目が好きになったのよ」

  ちなみにこれは一年八ヶ月と十七日、九時間三十二分四十六秒前のやりとりである。


  この優しげな瞳で愛など存在しないと言われるといささか違和感を覚えてしまうのは『僕』の感覚がおかしいのだろうか。いや、そんなはずはない。彼女はおよそ『僕』が知る科学者の中で最も優秀な閃きと記憶力と粘り強さとを併せ持つ、尊敬に値する女性だった。彼女の設計に間違いがあったとは考えられない。……だとしたら。 

 「……そうなのですか?」

  『僕』は無駄と知りながら彼女に反論を試みることにした。

 「ですがこのライブラリに存在する本には、愛と称される感情が度々描写されています」

  『僕』は今しがた読んでいた電子書籍を示し、老婆に尋ねる。

 「愛は他者を慈しむ心だと。それは如何なる時も寛容であり、親切であり……」
 「そんな、作り物みたいに美しいもの」

  老婆は笑った。しかし嘲りとは違う、温度のある笑みだった。

 「愛、なんてものは異常心理よ。恋は気の病なの。それは理性のバグよ。その本質はエゴであり、傲慢な執着の押し付けだわ。人間の判断力を著しく低下させる、たちの悪い幻想よ。何故ならそれは、感情だから」

  控えめな色をのせた唇から淀みなく言葉が流れ出る。その流暢さに、『僕』は感嘆の念さえ抱く。人間である彼女はその老いた脳に、いったいどれだけの情報を、語彙を、保存してきたのだろう。


 「感情ほど不確かで不安定なものはないわ。愛などいつ消えてもおかしくない、根拠のない、期限付きの麻薬のようなものだもの。わたしたちを決して裏切らないものは、そんなあやふやな感情ではなく、数値で示されたデータよ。目に見えないものに信じる価値なんてないわ。あなたは本に書いてあるからと、宇宙人の存在を信じるの? 幽霊の存在を信じられるの?」
 「……いえ」

  老婆が持ち出したその例えに『僕』は憮然とした。まるで小さな子供に言って聞かせるためのような、わかりやすさのみに重点を置いた説明だったからだ。『僕』を作った張本人が『僕』の知能の高さをわかっていないはずがないというのに。

 「ですが、マスター」
 「なあに」
 「僕を作った時、貴女は……」

  しかし『僕』のその言葉は突如鳴り響いた呼び鈴の音によって遮られた。

 「……お客さまですか?」

  どんなに研究に没頭していても、自分を尋ねてくる相手をいちばんに優先すべきだと考える彼女に倣って、『僕』は話題を訪問者の存在へとシフトした。『僕』たちが生活している彼女の研究室は地下にあるので、彼女は客人が尋ねてくるといつも出迎えに長い階段を登った。

しかし今回は違った。呼び鈴の音は聞こえていたはずなのに彼女は一向に玄関へ向かおうとしなかったのだ。

 「どうしたんですか? お客さまですよ?」
 「……ええ。こんなに早く来るなんて。まだ最後の調整が終わっていないのに」

  自嘲ぎみにそうつぶやいた彼女は、その表情に一瞬陰りのようなものをのせた。それは人間である彼女だけが持つ、そして『僕』が絶対に持ち得ない唯一のもの故の反応だった。

 「ではコーヒーを淹れます」
 「いえ、いらないわ」
 「え?」

  すっぱりとお茶の準備を断られ、『僕』は困惑して彼女の顔を見た。客人が訪れてきたというのにその顔は険しかった。両目に力がこもり、固くなった表情にぴんとその場の空気が張りつめる。

 「あなたはそこに入って」
 「え?」
 「時間がないの。すぐに」

  時間がないことは知っている。『僕』と彼女が一緒にいられる時間は残り四時間を切っていた。しかし、そのタイムリミットが訪れたときの別れ方は、たった今彼女に示された研究室の奥のエレベーターに『僕』が入ることではなかったはずだ。

  それはホテルのロビーに設置してあるようなきちんとしたものではなく、ただそこに存在していた壁をくり抜いて中に箱を押し込んだだけのような、不完全な空間だった。それは扉も壁も持たない単なる移動式の、さらに言えば安全対策の為されていない小部屋に過ぎなかった。しかし、この代物にいったいどんな魅力が隠されているのか、彼女はこの半年間、この装置の完成に時間と金銭と思考力のほとのどを費やしていた。

  そして、このエレベーターの行き先を、『僕』はまだ、知らない。

  『僕』が指示通り彼女の『作品』の中に入ったことを確認すると、彼女はカップに残ったカフェオレを丁寧に飲み干し、デスクに向かった。そして研究に使用しているメインコンピュータのキーボードをたたき始める。

  何かのコードを入力しているようだった。そしてそれを見守っていた『僕』の身体に変化が生じた。

 「マスター……?」

  決して本名を明かしてくれなかった彼女を呼び、『僕』は不調を訴えた。不調というより、異常が発生していた。『僕』の存在の核に当たる部分に異変が起きている。

 「マスター、何を……情報が……」

  この六年間で蓄積してきた数多の記憶や情報に蓋が被せられ、厳重に鍵がかけられていく。

  原因はわかっている。『僕』の視線の先、デスクでコンピュータを操作している老婆だ。彼女の手によって生み出された『僕』の記憶領域の一部が彼女の手によって封印されていく。

 「これからあなたが行きつく先で必要のない情報に制限をかけているの。すこし待っていて」
 「行きつく……? マスター、意味がわかりません」
 「いいのよ」
 「ですが……!」

  言いかけた言葉を、『僕』はぐっと呑み込んだ。

  文句を言うつもりはなかった。『僕』は彼女に作られた。彼女が作ったものをどう扱うかは彼女の自由だ。だが動機がわからない。このままでは、下手をしたら『僕』の記憶も知識も価値観も初期設定の段階に舞い戻ってしまう。それは彼女が望んだ作品の根底を覆すことに繋がるはずなのに。

ブー、ブー、と耳障りな警報が鳴りはじめた。

 「!」

  はじめて聞く、そして、できれば一度も聞きたくなかったその音に、『僕』は弾かれるように反応した。

  それは、来客が招かれたそれか招かれざるそれかを判別するための音だった。マスターが設置したパスワードを解除せず、この地下室への扉を物理的に破壊した時にしか鳴らない警報だった。つまり、来訪した相手が客か侵入者であるかを識別する装置が、作動したのだ。

 「マスター、待ってください! 侵入者です!」
 「あなたには関係ないわ」
 「何故ですか! 関係あるに決まっています! 僕はマスターに……」
 「ええ。でももう、関係なくなるのよ」

  その時の『僕』は、まだ彼女が誰なのかを認識できていた。まだ彼女の身を案じるだけの情報が手の届く場所に残っていた。記憶にかぶせられた蓋の隙間から漏れ出る情報に、目をこらし、耳を澄ませ、『僕』は必死に彼女の存在を確かめる。そして叫ぶ。徐々に増えていく、触れる事ができなくなっていく自分の記憶にすがりつくようにして。

 「嫌です! 僕は貴女を守りたいんです! この六年間、僕は貴女にあ―――」



―――ぷつん……。



  脳の芯で、そんな音がした。

  その瞬間、つい寸秒前までその身を心配していたはずの彼女の存在が急に希薄になった。直前まで自分が彼女に執着していた理由が全くわからなくなってしまった。

  『僕』の中に整然と並ぶ無数のフォルダのうちいくつかがロックされ、ある特定の情報と記録に完全に干渉できなくなった。この数秒後にはロックされたフォルダが存在すること自体思い出せなくなるだろう、と冷静に分析している自分が滑稽だとすら思えない。そしてその開かないフォルダに分類されるであろう彼女の、『僕』が最後に聞いた彼女の言葉は、そのフォルダの外に裸のまま貼り付いた。



 「愛なんて、ないのよ」



  それは強烈な刷り込みだった。固く閉ざされた記憶領域の最表層に添付されたその言葉は、『僕』の持つすべての情報の上に王座を構えて君臨した。そしてそれは、彼女が言い放ち『僕』の核の最上部に貼り付けたその定義は、常に『僕』の分析を監督し、あらゆる仮定を覆い隠し、『僕』の出す結論を彼女の言葉に基づいたものへと導くことになるだろう。

  改めて眼前の部屋に目を向ける。部屋の中央には線の細い老婆。これは誰だろう。『僕』の知らない人物だ。『僕』の中のどのフォルダを開いても、彼女に関する情報はない。もう一度彼女を見る。視覚から得られるわずかな情報を、『僕』は新規フォルダに保存していく。人間。高齢の女性。身長約百六十三センチ。やや痩せ型。眼鏡をかけていることから視力の低下がうかがえる。

  彼女について『僕』が獲得した情報はそれだけだった。今の『僕』にとって、彼女の存在はテレビやインターネットで流動的に目にするその他大勢の人間と変わらなかった。

 彼女は『僕』と目が合うと、ふっと、やわらかく笑った。一瞬だった。見間違いなのかもしれなかった。しかしその笑顔は、『僕』が初めて見るその笑顔は、どうしてなのか『僕』の脳内の記録媒体よりももっとずっと深いところに、正体不明の痛みを伴ってじりりと焼き付いたのだ。

  足音が近づいてくる。乱暴な音だ。

  僕はそれを、ひどく落ち着いた状態で聞き流していた。一応、彼女が危ない目に遭うであろうことは予測できたが、それだけだった。それ以上の思考は働かず、自分とは無関係の老婆の身に迫る危機を冷静に観察している『僕』がそこに居た。その違和感に気付くこともできないまま、『僕』の身体は移動を始める。

 「―――!」


  荒々しい音をたてて研究室のドアが開かれる様子を、僕は移動していく空間の中から眺めた。

   身体に置いて行かれたあとも数秒そこにとどまっていた視覚が、老婆の研究室に押し入ってきた数人の黒服の男の姿を確認し―――


 その視覚も途絶えたあと、最後まで残っていた『僕』の聴覚が、五カ月二十七日と三時間九分十四秒前にライブラリの映画で耳にした銃声と同じ音をとらえた。
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