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プロローグ

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 ずるりと足が階段を踏み外す。

(床を汚したら、また、罰が……っ)

 バケツを離すまいとして、けれどままならずにバケツも身体も宙を舞った。

 瞬間、がしりと身体が受け止められ、手から離れかけたバケツもなんとか手の中に残った。

 振り返ると、赤い瞳と目が合う。
 夜の闇のような艶やかな黒髪。
 精悍な顔立ちにいまは心配げな表情を浮かべて、わたしを抱きとめている。

「大丈夫か?」

「す、すみません」

 わたしは慌てて目をそらし身体を離して、詫びを口にする。
 顔を見られてしまっただろうか。

 ルピナお義姉様によく似た容姿は、眼鏡で隠してはいる。お義姉様がわたしの顔も大嫌いだからだ。
 見たことのない男性だが、服装から貴族だと思う。お義姉様によく似たわたしが義妹だと気づかれるわけにはいかない。メイド姿で使用人と同じことをしていると外に知られては、伯爵家の評判にかかわる。

「ありがとうございました」

 わたしは出来るだけ相手の方を見ないように俯き頭を下げ、その場を去ろうとする。

「待ってくれ」

 けれど二の腕を掴まれた。

「いっ……っ」

「あぁ、すまない! さっきからふらふらとして随分と体調が悪そうだが、怪我をしているのか?」

 気づかなかったが落ちかける前から見られていたらしい。

「……昨日も、転んでしまいまして」

「そうか……少しじっとしていてくれ」

 男性は懐から魔石を取り出すと、わたしの二の腕にそれを当てる。
 柔らかい黄緑色の光を帯びたそれは、わたしの腕の痛みを消していく。

「いけません、これは、治癒魔法が込められているのではないですか。こんな尊い魔法を使用人ごときに使用されてはなりませんっ」

 治癒魔法はとても貴重だ。上位の治癒魔導師は王家より聖女の称号を与えられ、医者が治せない病すらも治してしまう。

 ルピナお義姉様がそうだ。

 アイヴォン伯爵家はもともと治癒魔導師が生まれやすい家系で、ルピナお義姉様は歴代で随一の実力を誇る。その力は、毒ですら解毒出来てしまうほどだ。
 だからこそ、伯爵家という爵位でありながら第二王子の婚約者となれた。

「気づいていないのか? 怪我だけじゃない。熱も出ているだろう。身体が熱い。この魔石は本当に下位の治癒魔法だから、安心して治療させてくれ」

 言われてみれば、今日は朝から身体が辛かった。腕の痛みのせいだと思っていたのだが、熱まで出してしまっていたとは。

「いろいろ……ありがとうございます……」

 治癒魔法のおかげで二の腕はもちろんのこと、息苦しかった身体の痛みがすべて消えている。熱も下がったのだろう。下位でこれほどの力なのだ。最上位の聖女の称号を持つお義姉様の力は計り知れない。 
 
「この家で仕えるのは大変だろうしな。じゃあ、気をつけてな」

 赤い瞳に優しい色を浮かべて、男性は去っていく。
 その背中を見送って、わたしは掃除を再開する。
 バケツの水はほぼ零れていなかった。

(急がないと……)

 そうしなければルピナお義姉様だけでなく、アイヴォン伯爵夫人からも責め立てられるだろう。 
 
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