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追い水と陽炎

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 王都の商業街の一角、安宿の亭主は閉め切った薄暗い店の中で妻と肩を寄せ合い座り込んでいた。

 不気味な程の静寂をつんざくように、壁越しに人の怒鳴り合う声が響く。

「いい加減にしとくれ、売れるもんなんて、残ってるわけ無いだろ!? あたしらだって、生きるだけで精一杯なんだよ!!」

 軒を並べる商店の、よく見知った女主人が、聞いた事も無いような金切り声を上げていた。 

「煩いねぇ! 無いもんは無いんだ!! 誰が死んだって、知ったこっちゃ無いよ!!」

 叫ぶような怒鳴り声と共に陶器が壁にぶつかって割れる音が続いて、安宿の亭主と妻は悲愴な顔をして身を縮め肩を抱き合う。

「いつもは、あんな人じゃあ無いのにね……」

 ほんの数日前までは、「商売人は気前が良いくらいで丁度良い」が口癖の、おおらかで面倒見の良い女性だった。
 事情は同じだ。もう店には何も無い。それが分かっていても、隣人の豹変ぶりに、妻は青い顔をしている。

「平穏で、気持ちに余裕のある時は、誰だって善良で居られるが。追い詰められた時にも善人で居られるかと問われたら、簡単な事じゃ無いさ。俺だって……」

 亭主の男は泣きそうな顔をして俯いた。

 脳裏を過ぎるのは、何時ぞや泥水を飲んでいた子供、配給からあぶれて途方に暮れていた母子、水を求めて近所を尋ねて回っていた、足の悪い老人。
 男は親切を信条に生きてきたつもりでいたが、水も食糧も蓄えは底を尽き、長い時間を掛けて自分達の配給にありつくのがやっとの中では、見て見ぬふりをする事しか出来なかった。

 大教会と近隣の国々からの物資が日々配られて、すぐさま飢えと乾きで死ぬ事は無い。だが、だからといって、何もかもが平等に、潤沢に行き渡ることも無い。

 毎日長い行列に並び、いつ元の生活に戻れるかもわからない中で、心は不安に擦り切れて行く。
 時折貯めた雨水でほんの少しの余裕を分けても、切り捨てなければならないものは、あまりに多かった。



 明くる日、遂に雨は止み、数日ぶりに陽の光が差し込んだ。
 それを待ちわびた好転の兆しと喜ぶ者は、しかしことのほか多くは無かった。水の枯れた街では、どれほど陰鬱であれ雨水で凌いでいた側面は大きかったからだ。

 昼間に気温が上がり始めると、また別の不安が沸き起こる。

「みんな、飲み水もぎりぎりだってのに、この暑さじゃ……本当に死人が出るんじゃないかね……」

 街の住人達は疲れきった顔をして空を見上げる。

 陽の光は落とす影を濃くするばかりで、希望など運んではくれなかった。


◇◆◇


 ユージーンはロイドと共に、はやぶさが届けたアルフレッドの報告文書を読んでいた。

「アリシア様の容態は……ひとまず治癒は順調のようですね。そちらは?」

 一通を確認していたロイドが顔を上げて問えば、ユージーンは思案顔のまま文書をロイドに手渡す。

「高度な術式が、した痕跡が残っていた、と記されています」
「失敗した? それは……一体何の術式なのでしょうか」

 目を瞬くロイドに、同封された別の文書を確認していたメイアが答える。

「アルフレッド卿の分析によれば、思考操作系術式の痕跡との事です。先日我々が仮説を立てた、記憶消去のものでは無いかと推測されています」

 アルフレッドは授かったよろずの術式の才と、当人が幼少の頃から長く培った知識により、大教会でも屈指の術式分析を担っていた。痕跡から術式の種類を特定するのも彼の得意とするところだ。

「つまり、私と同様にアリシア様も記憶を消されかけ、何らかの理由でそれを免れていたと……」

「その可能性が高い。何故失敗したのかも気に掛るところですが、彼女が何かを知っているのなら、毒を盛られた理由もそこにあるのかもしれません」

 ロイドは神妙な面持ちで頷いた。

「ただ、アリシア嬢が会話が可能な程回復するまでには、もうしばらく時間が掛かりそうですね」
 
 ユージーンとロイドは揃って息を吐く。
 
「アルフレッドを呼び戻して、ロイド卿の他、記憶を消されている方を探して痕跡を調査させましょう。レオン殿下はいつお戻りに?」

「三日後の予定です。……やはり殿下も、とお考えですか」

「レオン殿下の言動の不自然さから言えば、その可能性は高いかと」

 ロイドは頷き、しばらく思案してから声を潜め口を開いた。

「……それともう一つ。状況次第ですが、術者にを指示した者に、直接尋ねる事も、想定して動きましょう」

 ロイドの口振りは、それが誰かを確信しているような響きがある。ユージーンは瞬きを一つ返した。
 
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