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善悪の対岸で

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 ロイドはしばらく言葉を反芻するように何度か瞬きをした。

「善悪の概念が無い……つまり、私が無意識に、神の愛子とは善良なものであると考えてしまっているのは、誤りだと言う事ですか」

「どちらかと言えば、前提の誤りです。日常で人の思う善悪と同じものを、神も持ち、それによって采配は成されていると思い込み、それを根拠に神の寵愛も善性に拠ると断定してしまいがちです」

 ロイドは考え込むように眉間に皺を寄せた。

「先程、異国の異教徒の思想が浸透してきていると申し上げました。ロイド卿がそのように思われていた根源にも、それは関わっています」

 それまでユージーンの隣で黙って控えていたメイアが補足するように口を開いた。

「昨今、近隣諸国に伝播している創造神を祀る思想には、神の教えの名の元に道徳を説き、善と悪についてを明確に語る物が多く確認されています。それらは人にいとされる生き方を導くものとして、為政者にも民衆にも理解しやすく、受け入れられ易く、それ故に浸透も早い」

 情報収集と心理分析を得意とするメイアは、あくまでも事実として、と前置きをした。

「ヴァースの信仰を束ねる大教会としても、これら異教徒の思想が与える影響については、社会基盤に秩序を与え育むものとして、その機能と価値を認め静観の姿勢を貫いています」

 敢えて異なる思想を排斥する事を良しとしない、それが大教会の定めている方針だとメイアは語る。

「ですが、ここで問題が一つ。思想の上で信仰される象徴的な神と異なり、我々の神は常にものです。その存在の本質ゆえに、人が思うような善悪の価値観を、必ずしも当て嵌めることが出来ません」

 ロイドは顔を上げて、問うた。

「ヴァースは人の言葉を理解し加護を与えるのでしょう。ならば、人の善悪の価値観を理解してはくださらないのですか?」

「残念ながら、人の考える善悪というものは、我々が普段思っているよりも遥かに曖昧なのです」

 難解な顔をして考え込むロイドに、ユージーンが穏やかな声で問う。

「人を殺す事は、善悪のどちらでしょうか」

 ロイドは即答しようと口を開きかけて、しかしそこで動きをとめた。
 それから、腰に刺した愛剣に手を添える。

 騎士団の団長として、騎士として、剣技を磨いてきた。平和な時勢にあり、幸いにして戦争の気配は無い。それでも、その剣技を振るう必要な時が来れば迷いはしないだろう。

 その時に果たして──己の中に今と同じ善悪の認識はあるだろうかと、自らに問う。

 或いは、曽祖父に遡れば、先の戦争において大勝を収めた英雄と呼ばれ、それは曾孫のロイドの代にあっても名誉ある武勲と語られている。
 それを語る時、果たしてそこに善悪の認識などあっただろうか。


 しばしの沈黙が降りた後で、ロイドの答えを待たずにユージーンは言葉を続けた。

「ゴルド国も含め、この辺り一帯の国々では、ヴァースは大きくは豊穣を司る神という側面が強いですが、外海に面した沿岸諸国では、戦争の神としての色が濃くなります」

 ロイドはこれに首肯する。ヴァースが持つさまざまな側面の一つとして、騎士達にとっても戦いの神としての信仰は確かに存在した。

「過去には、戦場で勝利を導いた神の愛子が居た、という記録も残っています」

 これにも頷いた。善悪についてを意識していなかった為に、今の今まで気付かずにいたが、何処かで耳にした覚えのある話だった。

「些か極端な例ではありますが、人の善悪の価値基準とは、実際には様々な要因によって揺らぎ、変化を伴うもの。その曖昧さ故に、ヴァースは絶対的な善悪の物差しなど、はじめから持ち合わせて居ないのです」



 そこまで話し終えると、ユージーンは改めてロイドに視線を合わせ、ため息混じりに告げた。

「我らが神は、善悪の対岸に在るもの──実に気まぐれで、理不尽な存在です」

 その言い草にロイドは目を丸くする。ユージーンはと言えば、これまでの冷徹な印象のある言動からすれば珍しい程に、うんざりとした顔をしていた。

「……それでは、その力を悪用されてしまう事もあるのでは?」

 声を潜めて問うたロイドに、今度はユージーンとメイアが揃って肩を竦めた。

「目に余る秩序の崩壊を招くと認められた場合に、それを調査するのも、我々の仕事の一つです」

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