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息の緒に縋り

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 夜会の夜、衛兵に囲まれて、両の腕を痛みを覚えるほど粗暴に捕まれ、どんな言葉もまるで聞き入れられぬまま、アリシア・フィルハーリスは貴族牢に収監された。

 絶望が憔悴に拍車をかけて、長椅子に座り込んだ時には思考する事さえままならなかった。

 髪はほつれ、ドレスも皺だらけで崩れたままだ。天井から落ちて来たガラス細工の破片がつけた頬の傷は、まだ乾くことなく血を滲ませている。
 それら一切に構う事も出来ずに、己の無力さと喪失したものの大きさに、ただ動けずにいた。

 貴族牢付きの侍女かメイドか、誰か人の気配がして、茶器と紅茶の注がれたカップをテーブルに置いていったのを意識の隅で認識はしていた。



 茫然自失の状態から、時と共に思考が戻り始める。

(ここで、諦める訳には、いかない……何か、何としてでも)

 頭になけなしの執念が灯り始めたが、先の絶望が残した根は深く、判断力がすっかり鈍っていたのは否めない。

 唇も喉もすっかり乾ききっていて、テーブルに置かれたカップに手を伸ばし、勢いそれを口に含んだ。

「──……!!」

 飲み込んでしまった後で、口内と喉を焼くような違和感に、血の気が引き悪寒が走る。
 慌てて口に指を差し入れ、かつて学んだ知識を脳裏に浮かべ、引きずり出すように喉の奥を掻いた。

「ぐ、……ぅ、う」

 知識として知っているだけで、実践した事など無い。

 白く手入れの行き届いた手を、意に介さず丸ごと口に突っ込んで、何度も掻くが、吐き気は込み上げるのにそれ以上が上手くいかずに、眦に涙が浮かぶ。

 口の端からは唾液が零れ、苦しみに顔を歪ませ、それでも尚、口の中を、喉の奥を、掻き毟る。
 公爵家に生まれた娘が、およそ晒す事の無いだろう無様な姿で、矜持もかなぐり捨てて抗った。

 無力な上に、こんな謀略も避けられない自分が惨めで腹立たしくて、嘔吐く情けない声と共に、ぼろぼろと涙が零れる。

 漸く耳障りな嘔吐の音と共に胃の中身を床にぶちまけると、同時に身体から力が抜けた。
 意識が遠のくのを自覚して歯噛みする。

 悔しくて、視界は溢れる涙で霞んだ。

 それでも尚、一縷の望みを捨てる事が出来ない。どうあっても護りたかったものを、諦める事が出来ない。




 カタカタという振動に揺られている事に気付いて、ぼんやりと少しずつ意識が浮上した。
 目を開けようとするが、ほんの僅かに光を感じる程度で、瞼をそれ以上持ち上げる事が出来なかった。

 背中に感じる柔らかく暖かい感触から、寝台に寝かされているのはわかった。
 しかし起き上がる事はおろか、指先すらろくに動かない。

 言葉を発しようにも、唇が微かに動くばかりで声が出ない。ただ、自分の胸が上下し呼吸をしている事は認識出来て、その事に泣きたいような安堵が広がった。

「……良かった! 意識が戻ったのね」

 ふいに柔らかい女性の声を耳が拾う。

「私はジュノー。貴女を守る為にここに居る者よ」

 落ち着いた、慈しむような声の主が、優しく額を撫でてくれたのがわかった。
 それから窓を開けるような物音と共に、もう一人、人の気配がする。

「お! アリシアちゃんお目覚めか、少し速度を落とそうか」
 
 妙に馴れ馴れしいが聞いた事の無い若い男の声は、不思議と不快では無かった。

「俺はアルフレッド。ジュノーと同じく、君を守る為にここに居る。ああ、安心して、君のお世話はジュノーがしてるから、触ったりはしてな──……痛てっ」

「アル、余計な事を言うとかえって不審よ?」

「ええ~~」

 やけに脳天気な二人のやり取りは、アリシアを安心させる為のものに感じられて、張り詰めていたものが少し解けるような気がする。

「私達は大教会の人間で、ユージーン・クロヌス猊下の命により、貴女をラーヴェ修道院に護送中よ。馬車の外には他にも大教会の護衛が付いているわ」

「ラーヴェに着いたら、優秀な治癒士が何人も居るからね、すぐに良くなるよ」

 労わり励ますような二人の言葉に、声がする方に僅かに顔を向け頷いて見せた。

 行先は例え自身に下された処罰と同じ場所でも、今はこの繋がれた命に縋れる事の安堵が大きかった。



 目覚めたばかりで、毒による衰弱の影響もあるのだろう、思考は未だにぼんやりと霞みがかっている。
 救われ、守られている安堵が広がって、身体は再び休息を求めて意識を手放そうとする。

 それでも言葉を紡ごうと口を動かしていると、いつしかすっかり乾いてしまった唇に、ジュノーが水を含ませた綿を当ててくれた。

「……まだ、神は、国に……御座おわし、ます、か……」

 それだけ漸く音にすると、アリシアは再び眠りについた。
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