上 下
8 / 31

崩れゆくもの

しおりを挟む
 王都の商業地区の片隅で安宿と飯屋を営む男は、軒先に出て昏い空を見上げると顔を曇らせた。

「今日は随分と冷えるな。雨とはいえ、こうも冷えちゃ、麦や野菜に響くんじゃねぇか……」

 初夏の頃とは思えない程底冷えする。杞憂だとは思いながらも、不作で高騰でもすれば商いにおいても死活問題だ。
 昨晩の地震から、不安を煽る話題が続くのもあって、悪い予感ばかりが頭を過ぎる。

「ちょっとアンタ!大変だよ、来ておくれよ!」

 妻の金切り声に呼ばれて慌てて向かえば、裏の路地にある共用の井戸の周りに人集りが出来ていた。

「水が枯れちまってるんだよ!」

 近隣の商い仲間と金を出し合って付けた手押しのポンプ式の井戸は、初めに泥水が出たかと思えばそれきり水が出なくなったという。

 試しに石ころを投げ入れてみたが、水音がしない。

 井戸を囲む住人達は困惑と不安に顔を歪めた。

「ああ、ここもだめか……」

 やがて空の水樽を抱えた男衆がやって来て、その光景に肩を落とす。
 大通りの向こうに店を構える商工達だ。

「あっちの井戸も全滅でね、分けてもらおうと思ったんだが……こりゃ一体どうしたってんだ……」

 いくつか近隣の井戸を回ったがどこも水が無いのだという。

「地震の後に水が濁るって話は聞いた事があるがね、こいつは……」

 安宿の亭主は険しい顔をして額を手で覆った。

「ひとまず、女衆は空いてる鍋や桶で雨水を溜めるんだ。男衆は手分けして生きてる井戸を探そう」

 原因はわからないが、雨が降っているのは幸いだろうと鼓舞して、不安を抱えたまま集まった人垣に声を掛けた。


◇◆◇


「えっ、湯浴みしちゃ駄目なんですか? 何で?」

 王城の一室で、困惑するリリアは侍女に頭を下げられていた。

「申し訳ございません、リリア様。王宮内の井戸がどれも使えなくなっておりまして、無駄な水の使用を控えるよう通達が出ております」

「無駄って……」

 王宮で暮らすようになってから半年あまり、毎日暖かい湯で身を清めるのが当たり前になっていたリリアは顔を曇らせた。


「本日は大きなご予定もございませんし。今ある貯め置きの水は、お食事や飲用水に優先されますので……」

 粛々と頭を下げる侍女がちらりとリリアの顔色を伺えば、釈然としないような不服な表情が見て取れた。

 アダム・ウィルハート伯爵の言っていた祈りの儀式の予定は、少なくとも今日では無いのだし、要人に面会する予定も無ければ、着飾るような特別な用も無い。

 神の愛子たる少女に仕えるようになって半年経つ侍女は、これまでリリアが快適に過ごせるように尽力し、献身的に仕える自身を誇らしく思っていた。

 だが、水の枯渇という緊急時に、不満を隠そうともしない少女に、ほんの僅かに疑問の種が胸中に生まれた。

 この国で毎日贅沢に湯浴みが出来る者など、本来は限られる。王族でも冬場の水が枯渇しやすい乾季には控える事も少なくない。

 そういった事情を知らないのだから仕方が無い。本心が表情に出るのも、淑女教育を受け始めて日が浅いのだから仕方無い。そう頭で擁護してみても、どこか納得しきれない小さな反発が胸に沸く。

 悟られぬよう押し殺して再び頭を下げれば、返ってきた反応は、相変わらず不服そうに口先を尖らせたままのため息だった。


◇◆◇


 各地の被害報告をまとめている文官達は、疲れた顔をして上司である行政官に途中経過を報告していた。

「聖堂の倒壊が、確認できただけで38件、それに井戸の枯渇か……城の井戸も今朝から全て水が出ないと聞いている」

 行政官は眉間に皺を寄せて報告書の束をめくる。

「確か、東のディルズ川に農業用の取水口があったよな?」

 急ぎで対応が必要な水の件をと声を上げれば、ちょうどその時遅れて入ってきた文官が困ったように首を横に振った。

「ディルズ川は駄目です。先程報告がありました。川は土砂と倒木に埋めつくされているそうです」

 ディルズ川は王都の東側の牧草地帯を流れる、この国で最も大きな川だ。

「氾濫か、土砂崩れでも起きたのか……? その様子だと橋は……」
「山岳地帯に抜ける橋は全て土砂に流されて、跡形も無いそうです……」

 力なく告げられた報告を聞いて、行政官の男は顔を顰め長く息を吐いた。

「ということは、山側の領から水を運ばせる事も当面は不可能か。……いや、それどころか、ディルズ川がその状況なら、あちらはもっと大きな被害が出ているかもしれないな」
「早馬が渡れませんから、確認出来ないですしね……」

 室内に重苦しい空気が立ち込める中で、遅れて来た文官はどこか申し訳無さそうな顔をして、更に報告を続けた。

「……それと、南部湿地帯の池が、水が抜けて、干上がっている、と……」

 昏い空気に追い討ちを掛ける言葉に、室内には沈黙が降りた。


 だが、若い文官が思い出したように顔を上げる。

「あ、でも!王都教会の方が、近々リリア様が祈りを捧げてくださると民衆に説いてました!」
「本当か……!」
「そうか、ならきっとだな」

 室内には、にわかに明るい声が上がる。

 安堵したように柔らかくなる空気の片隅で、行政官の男は、ぎこちない苦笑いを浮かべた。


 文官の多くは下級貴族や平民の出で、王宮の夜会に出席出来る者は殆ど居ない。
 一方で行政官の男は伯爵位を賜っており、この場で唯一、昨晩の夜会に出席していた。

 ユージーン・クロヌス司教の発言内容については箝口令が敷かれている。

 行政官の男は、あれが何かの間違いであってくれる事を願った。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

お姉さまとの真実の愛をどうぞ満喫してください

カミツドリ
ファンタジー
「私は真実の愛に目覚めたのだ! お前の姉、イリヤと結婚するぞ!」 真実の愛を押し通し、子爵令嬢エルミナとの婚約を破棄した侯爵令息のオデッセイ。 エルミナはその理不尽さを父と母に報告したが、彼らは姉やオデッセイの味方をするばかりだった。 家族からも見放されたエルミナの味方は、幼馴染のローレック・ハミルトン公爵令息だけであった。 彼女は家族愛とはこういうものだということを実感する。 オデッセイと姉のイリヤとの婚約はその後、上手くいかなくなり、エルミナには再びオデッセイの元へと戻るようにという連絡が入ることになるが……。

婚約破棄?とっくにしてますけど笑

蘧饗礪
ファンタジー
ウクリナ王国の公爵令嬢アリア・ラミーリアの婚約者は、見た目完璧、中身最悪の第2王子エディヤ・ウクリナである。彼の10人目の愛人は最近男爵になったマリハス家の令嬢ディアナだ。  さて、そろそろ婚約破棄をしましょうか。

主人公の恋敵として夫に処刑される王妃として転生した私は夫になる男との結婚を阻止します

白雪の雫
ファンタジー
突然ですが質問です。 あなたは【真実の愛】を信じますか? そう聞かれたら私は『いいえ!』『No!』と答える。 だって・・・そうでしょ? ジュリアーノ王太子の(名目上の)父親である若かりし頃の陛下曰く「私と彼女は真実の愛で結ばれている」という何が何だか訳の分からない理屈で、婚約者だった大臣の姫ではなく平民の女を妃にしたのよ!? それだけではない。 何と平民から王妃になった女は庭師と不倫して不義の子を儲け、その不義の子ことジュリアーノは陛下が側室にも成れない身分の低い女が産んだ息子のユーリアを後宮に入れて妃のように扱っているのよーーーっ!!! 私とジュリアーノの結婚は王太子の後見になって欲しいと陛下から土下座をされてまで請われたもの。 それなのに・・・ジュリアーノは私を後宮の片隅に追いやりユーリアと毎晩「アッー!」をしている。 しかも! ジュリアーノはユーリアと「アッー!」をするにしてもベルフィーネという存在が邪魔という理由だけで、正式な王太子妃である私を車裂きの刑にしやがるのよ!!! マジかーーーっ!!! 前世は腐女子であるが会社では働く女性向けの商品開発に携わっていた私は【夢色の恋人達】というBLゲームの、悪役と位置づけられている王太子妃のベルフィーネに転生していたのよーーーっ!!! 思い付きで書いたので、ガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義。 世界観、建築物や衣装等は古代ギリシャ・ローマ神話、古代バビロニアをベースにしたファンタジー、ベルフィーネの一人称は『私』と書いて『わたくし』です。

私をこき使って「役立たず!」と理不尽に国を追放した王子に馬鹿にした《聖女》の力で復讐したいと思います。

水垣するめ
ファンタジー
アメリア・ガーデンは《聖女》としての激務をこなす日々を過ごしていた。 ある日突然国王が倒れ、クロード・ベルト皇太子が権力を握る事になる。 翌日王宮へ行くと皇太子からいきなり「お前はクビだ!」と宣告された。 アメリアは聖女の必要性を必死に訴えるが、皇太子は聞く耳を持たずに解雇して国から追放する。 追放されるアメリアを馬鹿にして笑う皇太子。 しかし皇太子は知らなかった。 聖女がどれほどこの国に貢献していたのか。どれだけの人を癒やしていたのか。どれほど魔物の力を弱体化させていたのかを……。 散々こき使っておいて「役立たず」として解雇されたアメリアは、聖女の力を使い国に対して復讐しようと決意する。

婚約破棄令嬢は、前線に立つ

あきづきみなと
ファンタジー
「婚約を破棄する!」 おきまりの宣言、おきまりの断罪。 小説家に○ろうにも掲載しています。

傍観している方が面白いのになぁ。

志位斗 茂家波
ファンタジー
「エデワール・ミッシャ令嬢!貴方にはさまざな罪があり、この場での婚約破棄と国外追放を言い渡す!」 とある夜会の中で引き起こされた婚約破棄。 その彼らの様子はまるで…… 「茶番というか、喜劇ですね兄さま」 「うん、周囲が皆呆れたような目で見ているからな」  思わず漏らしたその感想は、周囲も一致しているようであった。 これは、そんな馬鹿馬鹿しい婚約破棄現場での、傍観者的な立場で見ていた者たちの語りである。 「帰らずの森のある騒動記」という連載作品に乗っている兄妹でもあります。

家族と婚約者に冷遇された令嬢は……でした

桜月雪兎
ファンタジー
アバント伯爵家の次女エリアンティーヌは伯爵の亡き第一夫人マリリンの一人娘。 彼女は第二夫人や義姉から嫌われており、父親からも疎まれており、実母についていた侍女や従者に義弟のフォルクス以外には冷たくされ、冷遇されている。 そんな中で婚約者である第一王子のバラモースに婚約破棄をされ、後釜に義姉が入ることになり、冤罪をかけられそうになる。 そこでエリアンティーヌの素性や両国の盟約の事が表に出たがエリアンティーヌは自身を蔑ろにしてきたフォルクス以外のアバント伯爵家に何の感情もなく、実母の実家に向かうことを決意する。 すると、予想外な事態に発展していった。 *作者都合のご都合主義な所がありますが、暖かく見ていただければと思います。

婚約破棄は誰が為の

瀬織董李
ファンタジー
学園の卒業パーティーで起こった婚約破棄。 宣言した王太子は気付いていなかった。 この婚約破棄を誰よりも望んでいたのが、目の前の令嬢であることを…… 10話程度の予定。1話約千文字です 10/9日HOTランキング5位 10/10HOTランキング1位になりました! ありがとうございます!!

処理中です...