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崩れゆくもの

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 王都の商業地区の片隅で安宿と飯屋を営む男は、軒先に出て昏い空を見上げると顔を曇らせた。

「今日は随分と冷えるな。雨とはいえ、こうも冷えちゃ、麦や野菜に響くんじゃねぇか……」

 初夏の頃とは思えない程底冷えする。杞憂だとは思いながらも、不作で高騰でもすれば商いにおいても死活問題だ。
 昨晩の地震から、不安を煽る話題が続くのもあって、悪い予感ばかりが頭を過ぎる。

「ちょっとアンタ!大変だよ、来ておくれよ!」

 妻の金切り声に呼ばれて慌てて向かえば、裏の路地にある共用の井戸の周りに人集りが出来ていた。

「水が枯れちまってるんだよ!」

 近隣の商い仲間と金を出し合って付けた手押しのポンプ式の井戸は、初めに泥水が出たかと思えばそれきり水が出なくなったという。

 試しに石ころを投げ入れてみたが、水音がしない。

 井戸を囲む住人達は困惑と不安に顔を歪めた。

「ああ、ここもだめか……」

 やがて空の水樽を抱えた男衆がやって来て、その光景に肩を落とす。
 大通りの向こうに店を構える商工達だ。

「あっちの井戸も全滅でね、分けてもらおうと思ったんだが……こりゃ一体どうしたってんだ……」

 いくつか近隣の井戸を回ったがどこも水が無いのだという。

「地震の後に水が濁るって話は聞いた事があるがね、こいつは……」

 安宿の亭主は険しい顔をして額を手で覆った。

「ひとまず、女衆は空いてる鍋や桶で雨水を溜めるんだ。男衆は手分けして生きてる井戸を探そう」

 原因はわからないが、雨が降っているのは幸いだろうと鼓舞して、不安を抱えたまま集まった人垣に声を掛けた。


◇◆◇


「えっ、湯浴みしちゃ駄目なんですか? 何で?」

 王城の一室で、困惑するリリアは侍女に頭を下げられていた。

「申し訳ございません、リリア様。王宮内の井戸がどれも使えなくなっておりまして、無駄な水の使用を控えるよう通達が出ております」

「無駄って……」

 王宮で暮らすようになってから半年あまり、毎日暖かい湯で身を清めるのが当たり前になっていたリリアは顔を曇らせた。


「本日は大きなご予定もございませんし。今ある貯め置きの水は、お食事や飲用水に優先されますので……」

 粛々と頭を下げる侍女がちらりとリリアの顔色を伺えば、釈然としないような不服な表情が見て取れた。

 アダム・ウィルハート伯爵の言っていた祈りの儀式の予定は、少なくとも今日では無いのだし、要人に面会する予定も無ければ、着飾るような特別な用も無い。

 神の愛子たる少女に仕えるようになって半年経つ侍女は、これまでリリアが快適に過ごせるように尽力し、献身的に仕える自身を誇らしく思っていた。

 だが、水の枯渇という緊急時に、不満を隠そうともしない少女に、ほんの僅かに疑問の種が胸中に生まれた。

 この国で毎日贅沢に湯浴みが出来る者など、本来は限られる。王族でも冬場の水が枯渇しやすい乾季には控える事も少なくない。

 そういった事情を知らないのだから仕方が無い。本心が表情に出るのも、淑女教育を受け始めて日が浅いのだから仕方無い。そう頭で擁護してみても、どこか納得しきれない小さな反発が胸に沸く。

 悟られぬよう押し殺して再び頭を下げれば、返ってきた反応は、相変わらず不服そうに口先を尖らせたままのため息だった。


◇◆◇


 各地の被害報告をまとめている文官達は、疲れた顔をして上司である行政官に途中経過を報告していた。

「聖堂の倒壊が、確認できただけで38件、それに井戸の枯渇か……城の井戸も今朝から全て水が出ないと聞いている」

 行政官は眉間に皺を寄せて報告書の束をめくる。

「確か、東のディルズ川に農業用の取水口があったよな?」

 急ぎで対応が必要な水の件をと声を上げれば、ちょうどその時遅れて入ってきた文官が困ったように首を横に振った。

「ディルズ川は駄目です。先程報告がありました。川は土砂と倒木に埋めつくされているそうです」

 ディルズ川は王都の東側の牧草地帯を流れる、この国で最も大きな川だ。

「氾濫か、土砂崩れでも起きたのか……? その様子だと橋は……」
「山岳地帯に抜ける橋は全て土砂に流されて、跡形も無いそうです……」

 力なく告げられた報告を聞いて、行政官の男は顔を顰め長く息を吐いた。

「ということは、山側の領から水を運ばせる事も当面は不可能か。……いや、それどころか、ディルズ川がその状況なら、あちらはもっと大きな被害が出ているかもしれないな」
「早馬が渡れませんから、確認出来ないですしね……」

 室内に重苦しい空気が立ち込める中で、遅れて来た文官はどこか申し訳無さそうな顔をして、更に報告を続けた。

「……それと、南部湿地帯の池が、水が抜けて、干上がっている、と……」

 昏い空気に追い討ちを掛ける言葉に、室内には沈黙が降りた。


 だが、若い文官が思い出したように顔を上げる。

「あ、でも!王都教会の方が、近々リリア様が祈りを捧げてくださると民衆に説いてました!」
「本当か……!」
「そうか、ならきっとだな」

 室内には、にわかに明るい声が上がる。

 安堵したように柔らかくなる空気の片隅で、行政官の男は、ぎこちない苦笑いを浮かべた。


 文官の多くは下級貴族や平民の出で、王宮の夜会に出席出来る者は殆ど居ない。
 一方で行政官の男は伯爵位を賜っており、この場で唯一、昨晩の夜会に出席していた。

 ユージーン・クロヌス司教の発言内容については箝口令が敷かれている。

 行政官の男は、あれが何かの間違いであってくれる事を願った。
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