嘘の世界で君だけが

七瀬渚

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第2章/君を探す為に

17.小悪魔的な天使(☆)

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 あれは確か小学校低学年の頃。
 夜中にトイレに行きたくなってしまった俺は、暗闇にちょっと怖がりながらも美月を起こさないように気を付けて、ゆっくりゆっくり一階に降りた。

 不気味な軋みの音を立てる廊下を歩いていくと、リビングの電気がまだついていることに気付いた。何か話し声が聞こえたと思うんだ。だけど内容までは思い出せない。

 だけどそっと部屋を覗き込んだとき……


――おかあさん?


 何かが違うと肌で感じた。


 リビングには母さんと父さんがいた。二人とも俺を見るなり笑顔になった。でも違和感はまだ続いていた。


『おかあさん、どうしたの?』

『え、どうしたのって……』


『泣いてるの?』

『な、何言ってるの、響。お母さんなら大丈夫よ』


 今思うと確かに変なことを言ったと思う。母さんの目からは涙など流れていなかったから。
 でも俺はきっとわかってしまったんだ。何か表面には見えないものを。

『トイレに行きたいのか。父さんがついてってやろうか』

『い、いいよ。平気』

『よしよし、偉いぞ。響はお兄ちゃんだもんな』

 何かを誤魔化すように話しかけてきた父さんを振り切ったとき、自分が少しホッとしているのがわかった。


 それから月日が流れるうちに、俺の心に後悔が生まれた。


『泣いてるの?』


 あの言葉を言わなければ良かったと思うようになった。

 あの日から母さんは俺に弱さを見せることが出来なくなり、父さんは家に居づらくなった。

 あの二人の溝が深くなったのは、きっと……





 八月の暑さはエグい。

 覚悟はしていたけどやはり子どもの頃の夏とは別物だと実感する。温暖化のせいか、あるいはアスファルトばかりで水場がほとんどない地域だからなのか。せめて目に映るものだけでも涼しげなら体感温度もだいぶ変わってきそうだけどな。

 バイトにも多少は慣れてきた頃。今日の仕事を終えて帰路を辿ろうとしていた俺は、家にあまり食材のストックがなかったことを思い出した。
 夏だからまだ明るいけど、時間帯はもう夕方だ。

 これからスーパーまで行くのはちょっとなぁ……。とりあえず今日の夕飯と明日の朝食だけ用意できればいいか。
 そんな判断で今、自宅マンションを通り過ぎて一番近いコンビニへ向かっている。

 向かい側の歩道へ渡ろうと横断歩道で信号待ちをする。
 いつの間にか斜め後ろを振り返っていた。そう、何かと意識してしまうあの場所『Cafe SERIZAWA』だ。

 ちょっとくらい、顔を出してもいいんだろうか。
(おそらく)朝比奈さんがここで働いてると知ってから全く行っていない。あまり避けてるのもそれはそれで不自然っていうか……一応、表向きは“友達”なんだし。


『夜野さんの隣にいます! もし気分が悪くなったら今度は私が夜野さんを助けます!』


 いつか彼女が言ってくれた。あの優しさに少しは甘えたりなんかしても、いいんだろうか。


「お兄さん、信号変わってますよ」

「えっ! あっ、すみません」

 隣の方から女性の声がして俺はやっと我に返った。
 信号は確かに青になっている。やばい、後ろがつっかえてたかな。

 そうして俺は歩き出したんだけど、奇妙なことに隣の気配がずっとそのままついてきてる。

「コンビニ行くんですか?」

 しかも声までかけてくる。
 なんだ、これ。なんかの勧誘か? 返事しない方がいいよな。無視無視。

 いや、待て。
 この声……


「…………っ!」

「えへへ~。お久しぶりです」


「あ……朝比奈さんっ!」


 身長差のせいで視界に入ってなかった彼女がちょっと見下ろすとすぐ傍に。髪を一つに結んでるのがなんだか新鮮でドキッとしてしまう。
 悪戯いたずらな笑顔で見上げてくる姿は小悪魔的なはずなのに、どういう訳か俺からすると五度見くらいしても紛れもない天使だ。これだから恋は怖い。

「夜野さん、全然気付かないんですもん。私の声忘れちゃったんですか?」

「いや、そういう訳では……」

「私もコンビニ行きたかったんです。一緒に行ってもいいですか?」

「う、うん」

 本当は忘れかけてたかも知れない。前に「好き」とか口走っちゃってから勝手に気まずくなってカフェにも顔を出さずにいたから。

 でも“お兄さん”って呼んだあたり、君も少しは俺に意地悪したよね? そんな唇を“3”みたいにして拗ねる仕草したってバレバレだよ。

 こういうのってどう考えてもあざとさの表れだと思うんだけどな。相変わらずそのたぐいの声は聞こえてこない。一体どうなってるんだろう? 本当に不思議な子だ。

 正確に言うと全く聞こえてこない訳でもないんだ、彼女の心。それは大体ちょっとした独り言だったり、今日の場合は……


――♪♪♪ ――


 なんかこう……鼻歌みたいな感じなんだよな。曲名はわからないけど、何処かで聴いたような懐かしいメロディに感じられる。


 横断歩道を渡りきってそのまま二人でコンビニまで行った。
 自分が汗くさくないか気になってしまう。せっかくならバイト帰りじゃなくて休みの日に会いたかったな。


「夜野さん、結構いっぱい買いますね~!」

「明日の分もあるから。朝比奈さんはそんだけで足りるの?」

「いえ、これからデザートを選ぼうかと!!」

「そっか、行っておいで」

 全く、目をキラキラさせちゃって。
 デザートコーナーに向かおうと身体を翻した彼女。その後ろ姿を改めて見ると、腰下までのロングTシャツに足首までのパンツスタイルというシンプルな格好だと気付く。やっぱりバイトだからかな。


 それにしてもやけに時間かかってるな。
 とっくにお会計を終えた俺が長身を生かして店内を見渡すと彼女はまだデザートを見ていた。
 そっと近付いてみる。

「う~ん、スフレチーズケーキとレアチーズケーキ、どうしよう~」

 そういうことか。さてはなかなか決められないタイプだな。どれどれ。

「迷ってるの?」

「あっ、はい。すみません! どっちも美味しそうだったので」

「まぁわかるよ。そのスフレは大きさの割にそんな重くないから食後にもピッタリだと思う。レアチーズもレモンの香りが効いててなかなかいいけどね」

「そう、なんですか?」

「そうそう。あとね、チーズ系が好きなんだったらそっちのバスクチーズケーキも結構気に入るんじゃないかと思うよ。結構食べ応えはあるかも知れないけど値段の割にクオリティが高いしサイズ的にもちょうどいい」

「夜野さん、もしかしてスイーツ詳しいんですか?」

 目をまんまるにして興味深そうに見つめられると俺は今更ちょっと恥ずかしくなった。別に隠すようなことでもないんだけど喋りすぎたなって。

「いや、詳しいってほどじゃないよ。ただの甘党かな」

「えーっ! 意外! ブラックコーヒーとか飲んでそうなのに」

「カプチーノ派だよ」

 彼女は何故か嬉しそうに笑う。
 そして小さな声で「よし」と呟くと、三種類のチーズケーキを全てカゴの中に入れた。

 情報を与えることで選びやすくしたつもりだったんだけど、むしろ選択肢を増やしてしまったようだ。それにしても随分と豪快な決断だな。俺もつい笑ってしまった。



「夜野さんの話聞いてたら全部美味しそうに思えてきちゃって……ふふ、こんなに食べれるかなぁ」

「消費期限が大丈夫ならいくつかは明日の楽しみにとっといてもいいんじゃない?」

「それもそうですね! 今夜はどれにしようかなぁ」

 少し寄るくらいのつもりが思いの他長居してしまったらしい。コンビニを出た俺たちの頭上はもう茜色に染まってる。

 結局こうして並んで歩いてる。でも久しぶりなんだよな、彼女とこういう時間を過ごすのは。

「私、芹澤さんのお店でバイト始めたんです」

「そうなんだ。いつから働いてるの?」

「えーっと、先月の半ばくらいですね」

 とっくに知っていたことだったけど、なんもかんも見透かされてるのはさすがに嫌かなと思って今聞いたかのような返事をした。

「夜野さんは今日何か用事でも……?」

「ああ、俺もバイトだよ」

「えっ、バイトしてたんですか!」

「同じく先月から。この通りを真っ直ぐ行ったところにある『おおくら商店』ってとこ」

「えぇぇ! 凄い、私も知ってますよ!」

 だろうね。内心ちょっぴり楽しんではいた。だってこれは能力抜きで気付いたことだ。後ろめたさはあまりないし。

 それにしてもやっぱり芹澤さん、フレンドリーではあるけど常識のある社会人だから、自分の店や他店の従業員の情報は言わないでおいたんだろうな。電話中に朝比奈さんの名前呼んじゃったところは隠しきれない天然って感じがするけど。

「でも私、おおくら商店さんには前に迷惑かけちゃったことがあって……発注ミスなんですけど」

 粉砂糖10袋でしょ。やっぱりあれは君だったか。

「う、うん……そうか」

「あっ、夜野さん笑ってるでしょ! ひどーい! 私あのときかなり焦ったんですから……って、あっ、でも夜野さんもおおくら商店の人ですもんね。うう、ご迷惑おかけしてごめんなさい……」

「いやいや、俺の方こそごめん。馬鹿にしてる訳じゃないんだ。ただ俺も慣れるまでの間にちょいちょいミスすることあったから親近感湧いちゃって」

「夜野さんもミスすることあるんですか?」

「あるよ! 初めてのバイトだもん」

 見つめ合ったらなんだかお互い腑に落ちた感じがしたんだろう。頭に浮かんだ言葉はきっと“お互い様”。この瞬間、同じようなことを思ったんだろうなって、何も聞こえてこないのにわかる。

 心の声を気にしているとただただ緊張して愛想を振り撒くどころではなくなってしまう。不快にさせないようにしなければ。そればかりを考えて。
 彼女じゃなかったら俺はきっと、自然と笑うようなことも出来なかっただろう。

 表面しか見えないことにこんなにも救われるなんて。


 星がちらつき始めた頃、彼女のマンションの前に着いた。歩調は自然と緩くなっていく。

「あ~、楽しかった! なんだか名残惜しいですね」

 実にストレートなことを言ってくれる。きっと君以上に俺の方が名残惜しいよ、なんて、謎の対抗心が小さく燃え上がる。

「夜野さんは明日バイトですか?」

「いや、明日は休みだけど」

「私も明日は休みなんです」

 しかしなんだろう、この話の流れ。
 もしかして何処か出かけませんか? とかそういう話……
 いやいや、ないな。余計な期待はするもんじゃない。そう納得しかけていた矢先だ。


「もっとお話ししたいので一緒にご飯食べていきません?」

「えっ、でもご飯ならさっきコンビニで……」

「うち昨日模様替えしたんです。なので片付いてますよ」


「…………」


 一体何を言われているのか。
 理解できたのはだいぶ時間が経った頃。



 


「えっ……」







 空の色が深みを増して、俺たち二人を閉じ込めようとしているのがわかった。
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