嘘の世界で君だけが

七瀬渚

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第2章/君を探す為に

16.気付いても良かったんだ

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 ポチャン、ポチャンと、何かが滴る音がする。

 音の間隔は次第に狭くなりやがては聞こえなくなった。

 真っ暗だった視界が徐々にひらけて明るくなっていく。折り重なるようにしていくつも広がる波紋。浅い池のような、海のような。純度の高いの水面の奥では半透明の魚たちが泳いでいる。

 波紋が鎮まる頃、水中にかすかな揺らぎを見た。

 魚たちの動きは次第に鈍くなり、そのうちの一匹が底に沈んで微動だにしなくなった。

 思わず掬い取ろうと水の中に手を入れた。
 すると俺の両手がだんだん紫色に染まっていくのだ。

 恐ろしさの中で強い悲しみを覚えた。
 息絶えた魚をそっと引き寄せ頬を添える。涙が目尻へ伝っていった。

 さっきまでの滴りの音、そして波紋の意味を知る。
 いつか何処かで聞いた言葉が蘇る。


『最近のストレスって目に見えないから』


 もしかして……

 もしかして、君も。


 “無色透明の毒”に蝕まれていたのかい。




 …………ピッ


 ……ピピッ、ピピッ


 ピピピピピピピピ

 カチッ


 目覚まし時計に手を乗っけたまま微睡みそうになっていた俺は、頬をパチン! と叩いて強制的に自分を呼び戻した。

「なんか変な夢見たような……」

 見たこともない魚が泳いでて、俺はそれを捕まえようとしたんだっけ? いや、やっぱはっきりとは思い出せない。

 だけどふと目を擦ったときにその手が濡れていたものだから、このまま忘れた方がいいような内容だったのかも知れないと思った。

 ともかく、どんな夢を見たとしても現実は今も動いている。

 ベッドの上の布団を二つ折りにし、ズレたシーツを整える。エアコンがあるとは言え、これもそろそろ暑くなってきたな。夏用に取り替えないと。

 衣替えもしないと。いや、先月末には終わらせてる人が多そうだ。俺がサボり過ぎたんだな。
 内心でそんな反省をしながらカーテンを勢いよく開けた。

「まぶしっ!」

 寝起きの目に容赦なく突き刺さる太陽の光。
 朝でこれかよ。日中はどうなるんだ。南の海沿い育ちとは思えないくらい暑さに弱いから心配だ。


「気合い入れてかないと」

 自分に言い聞かせながら豆腐とワカメの味噌汁を作る。主食に梅干し入りおにぎりを二つ。これで腹持ちの良い朝食になるだろう。


 大学はもうすぐ夏休みに入る。
 そしてありがたいことにバイトも決まった。初めての面接なのに一発で通過って、なかなか本番に強いんじゃない? とか思ってしまう俺は単純なんだろうか。

 あのとき芹澤さんが紹介してくれた『おおくら商店』で働き始めてから今日で一週間目。
 今日は学校が休みでシフトも午後からだからまだ時間はあるんだけど、しっかり栄養をとっておく時間くらいは確保したい。これからどんどん暑くなるんだし。

 聞いていた通り結構な力仕事だったからな。今もまだ少し筋肉痛だ。
 業務用の重量はやはりハンパじゃなかった。持ち方が悪いと若い人でも腰を痛めることがあるからってことで、商品の重量、形状ごとにしっかり指導してくれた。

 もしお客様に話しかけられたら接客担当に引き継いでくれれば大丈夫と言ってくれた。後は最低限の電話応対が出来れば尚良しとのこと。そこは助かった。電話ならなんとかなるんだ、俺は。


 食事を終えた後は兵藤くんとトークで少しやり取りをした。
 夏休みどうするの? って聞かれたから、多分バイト三昧になるよって答えた。兵藤くんの方はと言うと夏休み中もサークル活動があるそうだ。ってことは朝比奈さんと岸さんもか。みんなも大変そうだな。

 兵藤くんは今月の誕生日で二十歳(ハタチ)になるから、いつか俺とお酒が飲める機会を楽しみにしているらしい。
 今更だけど、そういえば年下なんだよな、彼は。年上として節度のある飲み方を教えてあげないと……って、俺もそんなに飲む方じゃなかった。どうしよう。

 そうしている間に時刻は正午へ近付いていく。洗濯完了の知らせる音がした。


 晴天の空に洗濯物を託し、身だしなみを今一度チェック。荷物を持ったら覚悟を決めて玄関のドアを開いた。
 今朝以上に遠慮のない熱気が俺を迎えた。帰りたいと思うにはまだ早いぞ。



 おおくら商店はCafe SERIZAWAと同じ通りにある。簡単に言うと俺の住んでるマンションがこの二つの中間あたりに建っている。朝比奈さんちも中間だけどもう少しカフェ寄りだ。


「夜野さん、今日も受注の確認してもらってもいいかな? 昨日教えたやり方で」

「はい!」

 店舗の奥の事務室で俺はパソコンの画面を見つめる。だんだんわかってきたけど、作業と一言に言ってもやることは結構細かく存在しているのだ。

 あっ、芹澤さんとこだ。店名を見て気が付いた。
 そうだよな、いくら近いったって台車で全部運んでるとは思えないし。そう納得しながら商品を一つ一つチェックしていく。


「で、粉砂糖200gが10……」


 ……10?

 10袋ってこと?


 違和感を覚えた俺はしばし考え込んだ。

 一般的に粉砂糖って言ったらトッピング的なやつだよね。パンケーキとかにかかってるような。カフェでそんなに使うか? 見ているだけでも血糖値が上がりそうな量だぞ。グラニュー糖なら用途が広いからまだわかるんだけど……。

 いや、でも客数とかどれくらいの期間で使うかにもよるし、案外これくらいすぐ消費できるものなのかな。
 だけど……こう言っちゃなんだけど、芹澤さんとこは知る人ぞ知るこぢんまりとした隠れ家的なカフェで席数もそんなに多くなくて、そう考えるとフードメニューの注文が沢山入るとも思えないんだよなぁ。

 どうしよう。凄い気になる、けど。ただの気にし過ぎだったら……


「夜野さん? どうかしたの?」

「あっ……」

 ひたすら10の文字と睨めっこしていた俺に声をかけてくれたのはオーナーの大倉さんだ。

 芹澤さんと同年代らしいんだけど、こちらはふっくらとした優しそうな雰囲気のおじさん。忙しい立場のはずなのに話し方も何処かおっとりしている。
 そんな彼を前にして俺も少し安心したのかも知れない。

「あの、余計な心配だったらすみません。この注文なんですが……」

「ん、どれどれ」

「Cafe SERIZAWAさんっていつもこんなに粉砂糖注文するんですか? あの、ちょっと……多いような」

「ほぉ~、なるほどね」

 オーナーも画面を見つめて考え込む。肩が触れるくらい近付いたことで俺の中に緊張が生まれた。聞こえるかも知れないと。

――う~ん、どうだったかなぁ。多いようにも見えるし、これくらい頼むのもあり得る気もするし。何に使うのか僕にはよくわからないからなぁ――

 オーナーはあまりしっくりきてないのか。
 なんか自信がなくなってきたな。単に俺がスイーツ好きだから気になっただけなのでは?

 でもしばらくするとオーナーは微笑みながら俺の方を向いて言った。

「よし、一応確認してみようか。もしかしたら間違いなのかも知れない。芹澤さんとこに電話してもらっていいかい?」

「あっ、はい! わかりました!」

 新たな仕事を頼まれたのに少し肩の力が抜けた気がした。


 Cafe SERIZAWAの電話番号を教えてもらった。早速かけてみる。

 電話に出たのは渋みのある男性の声。芹澤さんだとすぐわかった。向こうも俺の声だとわかったようだ。共に小さな笑い声が零れた。

「電話で話すの初めてだけど案外わかるものだね。それでどうしたんだい?」

「発注数が多過ぎるように思えたものがありまして……200gの粉砂糖なんですけど」

「えっ! ちょっと待って、俺もいま確認する! 朝比奈さーん、ごめん! ちょっと裏行ってくるわ。すぐ戻るから」


「…………」


 …………


 …………ん?


 今、なんか……聞こえたような。


 いや、はい。はっきり聞こえました。


 兵藤くんからもらったDMを何度も見たから覚えてる。絵の展示の期間は六月末まで。今は七月。
 それでも彼女があの場所にいて、お店番までしている。それも“奏ちゃん”ではなく“朝比奈さん”呼び。理由はおそらく俺がこの職場で“夜野さん”って呼ばれてるのと同じ。

 脳内に蘇る芹澤さんの言葉。


『うちも一人雇おうと思ってたんだけど……』


 ……そういうことかぁ。

 ふしゅ~という気の抜けたため息が漏れると共に、メイド服姿で微笑む朝比奈さんが浮かんできてしまって俺の顔は熱くなった。
 なんでメイド服で想像するんだよ! そういうテイストのカフェじゃないだろ!


 はぁ……

 逢いたいなぁ。


 いや、今は仕事中だ。ふやけている場合ではない。

 なんとか自分を立て直しかけていた頃に、ちょうど芹澤さんが戻ってきた。

「申し訳ありません! “1”です! 粉砂糖1袋の間違いです」

 あ、やっぱり。芹澤さんでもこんな間違いするんだな。
 いや、それかもしかすると……
 ちら、と一つの可能性が頭をよぎったけど、それは向こうのお店の事情だからと一抹の名残惜しさを感じつつそっと会話を終えた。


「そっか、やっぱり間違いだったんだね」

 オーナーが豪快に笑っている。とりあえず解決して良かった。

「修正しておきますね」

「うん、お願いするよ。夜野さんは細かいところに気が付く人なんだね」


「あ、はい……すみません」


 俺はこのときの自分の感情がよくわからなかった。それくらい無意識に出た言葉だったから。


「何故謝るんだい?」

「え……っ」

 オーナーにそう訊かれるまで気付きもしなかった。


「細かいところに気が付くのは夜野さんの長所だよ。実際今回はそれが役に立った。何も謝ることはない。僕は君に感謝を述べているんだよ。気付いてくれてありがとう」


 そうだ。
 そうだった。

 いつから俺は後ろめたさを感じていたんだろう。

 気付いてしまうのがいけないことだって、いつから思っていたんだろう。


 今、やっと少しだけ、何かの呪縛から解放されたような気がして喉の奥がかすかに震えた。

「ありがとうございます」

 慣れないながらも精一杯の笑顔で応えた。


 この日から俺は“忘れ去られた自分”に少しずつ気付いていくことになったんだ。
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