嘘の世界で君だけが

七瀬渚

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第2章/君を探す為に

11.初夏の嵐と優しい光(☆)

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 あれは俺が中学一年生とき。夏休みが明けてすぐの頃だった。

 俺のクラスに阿部あべくんという男子の転入生がやってきた。
 とても色白で背丈は平均的だけど制服がぶかぶかだったのが印象に残ってる。そして彼には表情がなかった。

 黒板の前、阿部くんはずっとうつむいたままで結局自分で自分の名前を言うこともできなかった。担任の先生が代わりに喋っていたんだ。

 幸い俺のいたクラスはいい奴ばかりだったから、阿部くんがクラスに馴染みやすいようにと気を遣って話しかける生徒が何人かいた。
 特に高島は持ち前のコミュニケーション能力を生かして強引すぎない程良い距離感で接しているように見えた。そこまで行動力のなかった俺はただ高島の隣に並んで相槌を打ってる程度だったけど。

 でも阿部くんは誰ともまともに口をきけないまま、転入してわずか一週間ほどで学校へ来なくなってしまった。

 噂は遅れてクラスに広まった。どうやら小学生のときに酷いいじめに遭い、そのせいで心の病気にかかったのだと。
 この学校に来たのも前の同級生たちから逃げる為だったに違いない、など。そこからはもうみんなの想像だった。

 それから約一年後。二年生になった俺は一番仲の良かった高島と別のクラスになったけど、まあそれなりに上手くやってはいた。

 そしてある日の帰り、下駄箱に手をかけた俺の近くを一人の男子が通りすぎていった。ちらっと見えた顔に見覚えがある気がした。

 そしてだんだん思い出していった。白い肌も細い身体もあのときの印象のまま。だけど身長はもう俺を追い越していた。

 声をかけてみようかと迷っていたとき、今度は高島がやってきたもんだから心底驚いた。振り向いた阿部くんも自然と笑みを浮かべたから尚更だった。
 すでに高島のことを凄い奴だと思っていた俺は、高島が阿部くんの心を開き、ついに学校へ連れ出したのかと思ったんだ。

 だけどそういう訳ではないとすぐにわかることとなった。

 たまたま俺が居合わせたことで、俺たちは途中まで三人で帰ることになった。
 一年前何があったのかとか、特に俺たちから訊いた訳じゃない。だけど阿部くんが自分から話してくれたんだ。

「僕、ちょっと精神的に問題があって……病院には通ってたんだけど、一年前からカウンセリングも受けてたんだ。それからだいぶ話せるようになってきたんだよ」

 阿部くんは続けて教えてくれた。
 話すのが苦手で診察の時間内で自分の症状を十分に伝えられなかったこと。薬を飲んでも何度も症状をぶり返していること。
 それらを踏まえた上で定期的なカウンセリングを受けるのが良いかも知れないと医師が提案してくれたそうだ。

 ……と、こんな内容だったことは一応覚えてるんだけど、実際のところ俺はひたすら見入っていた。

 あの阿部くんに表情がある。自分の声でこんなに話せるようになったんだ。

「お医者さんにも感謝してるけど、カウンセラーさんの力もなければ僕はまだ学校に来れなかったと思う。それから……」

 歩調を緩め、照れたような顔をした阿部くんが俺たちにこう言った。

「高島くんと水島くんにもありがとうって思ってる。学校に行ってみようかなって考え始めたとき、一番最初に思い出したのは二人のことだったんだ」

 まさか自分まで感謝されるとは思わなかった。高島ならまだしも……って。

 ずっと心の何処かで人と自分とを比べていたような気がする。その上で平均に近ければまあいいだろうと思ってた。
 そんな俺が、俺でも、もしかしたら誰かの役に立てるときが来るのかも知れない。そんな方法を見つけられたら。

 じんわり沈んでいくオレンジ色の夕日が、このときの俺には始まりの朝日に見えた。





 しばらく窓際に佇んでいた。
 突然こんなことを思い出したのは、今朝の空の色があの日の色に似ているせいだろうか。

 ともかく早起きをしすぎた俺は、どうせなら今のうちに洗濯機を回してしまおうと思った。ちょうど溜まってた頃だ。

 その流れで顔も洗ってタオルで拭いて鏡を見たとき、俺は思わず長いため息を漏らした。
 自分とは思いたくないくらい情けない顔の男がそこに映っていたからだ。げんなりする。

「泣くことたぁねぇだろ……」

 そして今更に恥ずかしくなった。もうすぐ二十一になるって男が、公衆の面前で。

 何故抑えれなかったんだろう。あれはなんだったんだろう。もう昨日の感覚が遠のいているからそう思ってしまう。

 去年地元に帰った後はこんなことなかったから、やっぱり引き金になったのは朝比奈さんなんだろう。いや、彼女へ対する俺の気持ちが。

 洗濯機を回している間に、卵かけご飯と昨日コンビニで買ったカップの味噌汁で朝飯をとった。

 ゴウンゴウンという低い音を遠くに感じながら、何やらかつての自分も霞んで消えていきそうな不思議な感覚に陥る。代わりに何か別の生き物が中でうごめいているような。

 誰とも深く関わらず、深追いはせず、波風立てずに、目立たずに。
 それが高三のときから三年かけて築き上げてきた『夜野響』という人間だった。

 それがわずか一ヶ月のうちに恋をして、こんなに脆く揺れやすくなって。
 正直、自分自身の変化に頭がついていけない。

 聞き慣れたメロディが流れた。洗濯が終わった合図だ。
 俺はぬるくなった味噌汁を大して味わいもせず流し込み手早くテーブルの上を片付けた。


 決めていることがある。
 もしまた兵藤くんに声をかけられてもボランティアサークルには行かない。答えを求められるようならそれとなく断ろう。

 俺は今のところ教育関係の仕事に就きたいという訳ではないし、そもそもあのサークルは人が足りている。

 朝比奈さんに会うこともきっと少なくなる。

 もう、多分、いろいろ思い出したり苦しくなったりしなくて済む。
 だいたいこうやって全部彼女のせいにしてしまいたくなることが嫌なんだ。こんなのが恋だというなら俺は一生縁のないままでいい。

 周りにとっても自分にとってもきっとその方がいいんだ。

 いつになく冷たい風が吹き付ける中、ひたすら自分に言い聞かせながら学校へ向かった。


 でも実際は授業が始まる10分前になっても兵藤くんは来なかった。今まで特に意識していた相手じゃないからいつも何時に来てたかなんてわからないけど。

 兵藤くんがいつも話しているメンバーの姿なら見える。チラチラそちらを伺ってたせいだろうか、一人がこっちを向いて俺は慌てて目を逸らした。嫌な汗が滲む。
 何か用? とか言われないように念の為すぐにヘッドホンをつけた。


 しばらくして少し緊張がほぐれた。
 兵藤くん、体調不良とかじゃなければいいけれど……そんな考えが頭に浮かんですぐ俺はかぶりを振った。

 気にしてどうする。もう関わらないようにしようと思っていた相手じゃないか。元々休みの予定で組んでたのかも知れない。きっとそうだ。

 そうしている間に教授がやってきた。俺もヘッドホンを外してペンを持った。


 結局この日、俺は学校の誰とも話すことなく授業を終えた。ホッとするような、ちょっと拍子抜けするような微妙な気分だ。

 15時になるちょっと前くらいに学校を出た。この時間帯にしては景色全体が暗いような気はしていた。

 帰りの電車に乗ったとき、傘を持っている人が多いことにやっと気付いた。たぶん学校のみんなもそうだったろうに俺はどれだけうわの空だったんだろう。

 せっかく早起きしたのに天気予報は全然見てなかったことを今更ながらに思い出した。
 ちょっと急ぎ足で帰るか。このときはそれくらいの軽い考えだった。


 駅に着いた頃にはいよいよ雲行きが怪しくなっていた。
 でもマンションまではだいたい徒歩20分。いざとなったら走れば10分くらいでいけるだろう。傘を買うほどじゃない。あれは貧乏学生にとって何気に痛い出費だ。
 駅前のコンビニを無視して俺は歩き出した。


 だけどしばらく行ったところで。

「おわっ!?」

 ぽつり、ぽつり、だったのは最初の数分だけ。

 雨足はどんどん強くなった。辺りは夜のように暗くなり、重く垂れ込めた暗雲の奥が不気味な唸り声を上げている。

 服はあっという間にずぶ濡れになった。これはもうしょうがないとしても横殴りの雨のせいで目を開けてられないのはたまったもんじゃない。
 俺は咄嗟に近くの屋根の下に避難した。

「はぁ……しくった」

 気合いになんて任せるんじゃなかった。どっちにしろ傘は役に立ちそうになかったけど、もっと手前でどっかの店に入るとかしてればなぁ。

 ゴウゴウと吹き荒れる雨風。
 そんな中で一際優しい灯りを感じた。

 俺は振り返った。耳障りな音が止んで一瞬時が止まったように思えた。

「ここは……」

 まだ記憶に新しい。暗闇に灯った蝋燭の火のようにひっそりと、だけど何か神秘的で不思議な引力がある。煌びやかとはまた違う存在感。

 アンティーク調の置き物が窓際に飾られている。ガラスを流れる水滴と相まって一層おもむきのある雰囲気を醸し出している。木でできた扉はなんだかレトロで温かだ。

 カランカラン、と軽やかにベルの音が鳴り響いた。

「お兄さん、大丈夫かい? そんなところにいないで入っていきなよ」

 店員さんと思われる男性がドアを開け、俺に笑いかけていた。

 渋みを感じさせるオールバックのグレイヘア。でも顔立ちは割と若い感じもする。四十代……くらいだろうか? 切れ長な目が特徴的だ。
 真っ白なシャツに黒いベストがよく似合ってる。上品で年齢不詳。この店の雰囲気にぴったりだと思った。

「あっ……すみません、勝手に」

「いいんだよ。酷い雨だねぇ。ほら、風邪ひいちゃうから」

「でも俺」

「いいからいいから。今ちょうど素敵な作品を飾らせてもらってるんだよ。せっかくだし温まりながら見ていって」

「え……あっ、作品?」

 手を掴まれたらそこからは引力に導かれ、コーヒーの香りが漂う異空間へと飲み込まれていった。
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