嘘の世界で君だけが

七瀬渚

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第1章/変わり始めた世界

10.我儘だとしても(☆)

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 翌朝、かすかな雨音で俺は目を覚ました。

 湿気は家のにおいを濃くするような気がする。俺を包み込むそれは今、何処かよその家のもののように感じられた。

 二年、別の場所に暮らしてるだけでもこうなるものなのかとぼんやり思った。

 時刻は午前7時過ぎ。
 そろそろだなと思った俺は布団を畳み、服を着替え、自分の荷物とパジャマを持って一階へ降りた。


「パジャマありがとう。洗濯機回しとこうか?」

 台所の方へ声をかけると、あら、という短い声の後に母さんがやってきた。
 そして俺の姿を見てモロに寂しそうな顔をする。

「もう帰る支度しちゃって……もう少しゆっくりしていってもいいのに。朝ごはんは食べていくんでしょう?」

「うん、そうする。ありがとう」

「もうすぐ用意できるわよ。洗濯はお母さんがやるから大丈夫。たまに帰ってきたときくらいくつろぎなさい」

――またしばらく一人。寂しくなるわね。まぁ遊びに帰ってきた訳じゃないのはわかってるんだけど、それにしたってあっさりしてるというか……子どもって実家を出るとこんなものなのかしら――

 ちょっぴりいじけたような心の声が遠のいていく。
 だけど今年の母さんは素直な方だ。

 電話では心の声を聞き取ることはできない。でも俺が予想していた気持ちと大体同じだったんだとわかった。
 例えそれが不満とか不機嫌という形であっても、表にあらわれている方が俺は少しだけ安心する。

 去年の母さんはなんだか空元気という感じだったし、それに反して心の中は俺に対する罪悪感や後悔の念ばかりだった。立ち直ってないのは明らかだった。あれよりかはよほどいい。


 顔を洗って歯を磨き、ダイニングに向かうとすでにテーブルに食事が並んでいた。

 ご飯と豆腐の味噌汁、鮭の塩焼きと厚焼き玉子、それと昨夜も食べたポテトサラダ。
 なんだか懐かしい。定番のメニューに残り物が一品。うちは昔からこんな感じだったなと思い出した。

「響、ごま塩かけすぎよ。そのくらいにしときなさい」

「あー、うん」

「もう、昔から塩辛いものが好きなんだから。普段の食事は大丈夫? 塩分の多いものばかり食べてちゃ駄目よ。市販のフライドポテトに塩かけたりしてないでしょうね」

――美月はちゃんとしてそうだけど響はなんだか心配ねぇ――

 フライドポテトに塩か。それやって怒られたの中学んときだっけ。

 そう思い出したとき、俺の鼻から意図せず小さな息が吹き出した。
 母さんは一瞬目を丸くした後、徐々に表情を綻ばせていった。

――響が……笑った?――

 驚きつつも嬉しさの感じられる心の声。
 相手は自分を映す鏡、だったか。本当なんだなと感じる。

「大学はどう?」

「ん、大丈夫だよ。単位も落としてないし」

「勉強のことはそんなに心配してないわ。響は意外とちゃんとやる子だもの」

「意外とってなんだよ」

 昔からよく言われてた腑に落ちない言葉だ。もう慣れてるけどなんて思いながら味噌汁を口に流し込んだとき。

「そうねぇ、友達とか……あと好きな子とか!」

「ごふっ!!」

 やばい、変なところに入った。
 俺は咳き込みながら胸元を拳でトントンと叩いた。

 しかもよりによってこんなタイミングで。これじゃどう見たって……

「え、まさか本当に?」

――友達だったらこんなに動揺しないわよね――

 ああ……やっぱり勘ぐられてる。
 咳はおさまってきたけどどういう訳か顔の中央にわっと熱が集まってくる。心より身体の方がよっぽど素直なことだけはわかった。

――あらあら、顔真っ赤にしちゃって――

 わかってる。だからそんなに目を輝かせて見るな。


 質問攻めというほどではないけれど、母さんはランランとした表情をしながらいくつか俺に訊いてきた。どんな子だとか、付き合ってるのかとか。

「なんだ~、響の片想いなのね」

「いや、俺もよくわかんないし。そもそも女子と話すことってあんまなかったから」

「でもきっといい子なんだろうなって思う」

「……なんで?」

 年下の子。付き合ってない。それくらいしか伝えてないのに。

 不思議に思っていたとき、母さんがじんわりと目を細めて言った。


「人って守りたい存在ができると、なんだかこう、まぁるい雰囲気になるものなのよ」


「まぁるい……ねぇ」

「今年の響はそんな感じ。一緒にいて安心するなって今まで以上に思えたもの。それに好きな相手には似ていくものよ。ん~、似るというより正確には自分の長所を引き出してくれるって感じなのかしらね。なんとなくだけどおっとりしてるんじゃない? その子」

 母親の勘は鋭いと言ったってよくそこまで見抜いたなと内心びっくりしていた。というか、自分がそこまで影響を受けていたことにも。

「うん、まぁ……その、おっとりはしてるかな。ちょっとドジだけどいい子だとは思うよ」

 ずっと沈黙しているのもおかしいかと思って一応返事はしておいた。

 異変に気付いたのは再び前へ視線を戻したときだ。

「母さん?」

「やだ、ごめんね。大丈夫よ。ただ……その子に感謝しなきゃって」

 鼻をすする音が声に混じる。

「だって響が笑ってくれたから。やっと……」

 空気を振動させるほどの熱い想いが真っ直ぐ俺の胸へ届いた。


 10時頃。帰りの新幹線の中。

 心の声って、なんなんだろう。

 俺の頭の中にそんな疑問が浮かんだ。
 疑問の塊のような現象だけど、今までにはなかった視点で考えようとしている。

 泣いている母さんに、俺は結局何も言ってやれなかった。何か気付いてしまったような気がして狼狽えたのかも知れない。

 俺に詫びるような悔やむような声が今年は聞こえなかった。
 母さんもきっと割り切ったんだ。申し訳なさそうにしてたって今更意味はないと気付いたんだ。勝手にそんなふうに思っていた。

 だけど……


『だって響が笑ってくれたから』


 あのときの母さんの心には俺に対するいろんな思いが溢れてた。
 きっと喜びとか安堵とか不安とか、聞こえなくても確かに存在したのだ。

 もしかすると聞こえすぎることで却って見えなくなっていたものがあるのではないか。

 そんな可能性に辿り着いた。

 だとしたらこの能力の意味は一体……


 到着が近いことを知らせるアナウンスが流れて俺はゆっくり意識を現実に戻していった。

 何人かが出口に向かって並び始めている。
 俺もリュックを背負ってそれに続いた。


 自宅マンションに着くのはちょうど12時くらいになりそうだ。

 なんだかんだと長い道のりだった。

 腹が減ってきてる。母さんがいろいろとお土産を持たせてくれたけど海苔とか切り干し大根とかカステラとかだ。
 何処かで飯を食っていくか。でも早く静かな場所で落ち着きたいからやっぱコンビニで買って帰った方がいいか。
 乗り換え後の電車の中、ドアの近くでぼんやり外を見ながら考えてた。

 生ぬるい気温のせいだろうか。耳元の音楽は水中で聴いているかのように遠く、立っていても眠くなりそうだ。

 そして何処かフワフワした感覚のまま慣れた駅まで帰ってきた。

 行き交う人々を見て思う。

 みんなみんな、俺のことを知らない。つい最近まではそれが心地良かったこと。

 だけど今は、この街のいろんなところに陽だまりのようなものを感じて。
 その正体ならわかっているはずなのに知るのがちょっと怖くて。

 その名を口にするのがまだちょっと……

「あっ……」

 怖い、はずなのに。


 大通りに沿った歩道で俺は足を止めた。
 向かい側の歩道にいる二人組に見入った。

 ちょうどカフェのような店から出てきたところ。
 朝比奈さんと岸さん。多分そうだ。

 ドク、という高鳴りと共にあの言葉が蘇る。


『逢いたい』


 昨日、空に向かって呟いていたあの言葉。誰に向けたものなのかあのときはわからなかった。

 でも今、はっきりとわかってしまった。

「…………っ」

 声はかけられない。でも目頭が熱く涙が溢れそうになる。嗚咽すら漏れてしまいそうだった。

 この街に君がいる。今やわかりきっているそれだけのことで心が激しく震える。

 俺の信じていたものが壊れ、家庭が崩れ、親友を失って、それからずっとずっと今まで長い悪夢の中にいた気分だった。

 そんな中へ優しく降り注いだ光、陽だまり。

 それはやっぱり君なんだ。


 すれ違った人が何度か俺を見てから去っていった。きっと俺はもう泣いていたんだろう。

 小さくなっていく背中。ふわりふわりと揺れる髪。そこへ手を伸ばしたい。
 でも駄目だ。岸さんのせいじゃなくて俺にも踏み切れない理由があるんだ。

 もしいつか朝比奈さんの心から何かネガティブな言葉が聞こえたら。

 俺は勝手に傷付くのかも知れない。彼女は悪くないのに勝手に裏切られた気持ちになってしまうのかも知れない。

 人間誰しも嘘くらいつく。それは時に仕方のないことだ。
 だけど出逢ったあの日、君がありのままでいてくれたから俺の世界は変わり始めた。

 そしていつしか君が唯一無二の特別な存在になった。

 こうやって今、期待しすぎていることが自分でも怖いんだ。
 君だけはどうか変わらずにいてと身勝手に純粋さを求めて彼女に依存してしまう、そんな恐ろしい未来が見えるようで。

 もしかしたら俺のような人間が一番彼女を傷付けるんじゃないか。
 そんな気さえしてしまう。


『朝比奈さん』『彼女』『君』と、一人の人間に対してこんなにも行ったり来たり。どの距離感が適切なのかさえわからなくて胸が苦しい。


 でも想像が止まらないんだ。
 心の声にもあらわれない思いがあるならば、彼女の無意識の領域には一体どんな世界が広がっているんだろうと。

 見てみたい。触れてみたい。
 許されるのなら。

 そう思ってしまうのは俺の我儘なんだろうか。



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