嘘の世界で君だけが

七瀬渚

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第1章/変わり始めた世界

7.約束はできない

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 彼女は今、どういう気持ちなんだろう。今、ほんの一、二歩、こっちへ近付いた。自分の意思というよりは、まるでよろけたように。
 何故だかどうしようもなく胸の奥が震える。すると彼女の瞳は一層の輝きをまとうのだ。飼い主を見つけた子犬みたいに今にも駆け寄ってきそう。

 何かここにだけ、強い引力がある……?

 そう不思議に思うも、突如訪れた白昼夢のような感覚は、まるで俺に考えることをやめさせようとしているみたいだ。

 もうほとんど吸い寄せられていた、そんな危うい自分に気付いたのは、無数の針で容赦なく刺すような鋭い気配を感じたときだ。
 腕組みをしながら俺をじっと見ている……いや、明らかに睨んでいる岸さんに気が付いて凍りついた。

 我に返った後は早いものだった。
 酔いは少しずつ冷め視界も元通りに広がり始める。

 改めて見ると朝比奈さんの足からは包帯が消えている。そっか、捻挫は治ったんだな。それは良かった。

 そして問題はやっぱり……岸さんだよな。もはや遠慮なしとばかりに敵意剥き出し。この距離だから聞こえないけど、今頃心の中で何を言われているか……さすがに想像したくない。
 以前、朝比奈さんとは特に親密な仲ではないとアピールしてしまった手前、この状況はだいぶ気まずいな。と言っても俺だってわざとここに来た訳じゃないんだけど。


――ふふ、やっぱり夜野っちもね、クールに振る舞ってても中身は青春真っ只中なんだろうなぁ。人数少ないってことにしといて大正解! サークルは盛り上がって夜野っちたちもラブラブで一石二鳥じゃん?――

 やけに盛り上がっている心の声が隣から。
 なるほど……そういうことか。見事にしてやられたな。っていうか“夜野っち”って。

 ツッコミが追いつかない状況にどういう表情をしていいのかわからないまま俺は……

「兵藤くん」

「ん?」


「……いや、なんでもない」


 結局何も言えなかった。


 なんの悪気もなさそうなあっけらかんとした様子の兵藤くん。これはむしろ良いことをしたとさえ思っている顔だ。
 そんな彼の後ろからサークルのメンバーと思われる生徒が三人ほどやってきた。

 改めて教室の中を見渡してみる。
 人数は決して多くはないけれど少なくもない。そうだな、言われてみればって感じではあるけど、兵藤くんの心も言ってたようにこれはわざわざ俺が入らなくても回りそうだ。

 やれやれ。ため息を飲み込んだ。
 真の意図はどのタイミングで聞こえてくるかわからないから困る。



「朝比奈さんと岸さんは最近入部したばかり。で、夜野くんが見学だから三人一緒に活動内容の説明しちゃうね。部長がどうしても都合がつかなくて今日は来ないんだ」

 兵藤くんがそう言いながら俺たちを他のメンバーたちとは少し離れた位置に集めた。
 クリアファイルに挟んだマニュアルのようなものを机の上で広げ、俺たちに見せながら説明してくれる。

 内容はだいたい理解できた。
 病気や障害、不登校などの事情を抱えている上、経済的にも苦しくて塾に通えない、そういった理由で学習に遅れが出ている子どもたちの支援をするそうだ。この地域だと小学生を見ることがほとんどだが中学生とも何人か関わってきたらしい。

「ただ教えるだけじゃないんだ。同世代の子と同じような生活が出来なくて寂しかったり心細かったり、そんな気持ちを抱えている子たちだから、安心できる話し相手になって精神面でも支えていくことが重要なんだよ」

 そう話す兵藤くんは彼らしい三枚目な雰囲気を残しつつも口調は明朗、目は優しく、この活動に対する誇りと意志の強さを感じさせた。

「私、子どもたち大好きなんです」

「朝比奈さんそんな感じだよね。めっちゃわかる」

――ほんっと良い子だよなぁ~、朝比奈さん! ちょっと天然だけど素直だし。夜野っち何気に見る目あるよね――

 兵藤くんと朝比奈さんの笑い合う声が聞こえてこっそり顔を上げた。

 柔らかくて、おっとりしてて、トゲなど一切感じさせない雰囲気。小柄で中肉、なのに全体的に丸い印象。
 彼女は確かに子ども好きという感じがするし子どもたちからも好かれそうだ。あと……男子にも人気ありそう。きっとそうなんだろうな。

 だけどこのサークルにいるのは意外だったな。予想もしてなかった。

 出会ったあの日、病院で俺に話しかけてきた彼女は興味のあるサークルの話題も出していたんだ、確か。俺の聞き間違いじゃなければそのときボランティアなんて言ってなかったと思う。

――それにしてもこの岸さんって子、なんでさっきから機嫌悪いんだろ? 正直怖いんだよな~。全然ボランティアってキャラじゃないじゃん。子どもたち懐くかなぁ――

 兵藤くんは多分、本音と建前の使い分けがハッキリしてるからこうしていろいろ聞こえてくる。

 岸さんの方を見てみると、ふいと目を逸らされた。
 朝比奈さんは全く気付いていないといった様子でときおり彼女へ笑いかけていたんだけど、岸さんは心ここにあらずといった感じで表情も声色もずっとぎこちなかった。



 ひと通りの説明も受けた頃、みんな慣れた様子で教室を出たりスマホをいじったりおしゃべりしたりと、各々でくつろぎ始めた。
 俺たちも休憩してきていいと言われた。

「あの、ちょっといいですか。廊下で話したいんですが」

 名前さえ呼ばれずに。ただただ低く鋭い声が俺の背中を射抜いた。

 振り向くと冷たい目で俺を見上げている岸さん。
 ですよね。初対面のときから疑り深かった彼女だ。そんな簡単に見過ごしてくれるとは思ってなかったよ。

「ああ、今行く」

 覚悟を決めて俺は頷いた。
 とりあえず今回の件は故意じゃないと伝えて安心させるか、だけどそんなすんなりと信じてもらえるのか、心配を抱えたまま俺は彼女の後をついていった。



 でもまさかこんなことを言われるとは。


「奏に告白しましたよね?」


「えっ……」


 廊下の人気ひとけのない場所で俺は思わず狼狽えた。
 過去のいろんな場面が頭の中をぐるぐると廻る。
 でも駄目だ、どれも身に覚えがないし逆に覚えしかないような気さえしてくる。

 思えば朝比奈さんとの距離感は最初から異常なほど近かったんだ。俺だってなんでこんなことになってるんだか未だにわからない。

「朝比奈さんが……そう言ったの?」

「いや、言ってませんけど。でも嬉しそうに言ってきました」

 どっちだよ。
 二人の間でどんな会話が交わされたのかこれじゃ想像できない。

 でも岸さんはフン、と鼻でため息をついた後、実にわかりやすく説明してくれた。

「告白とは思ってないみたいですよ、あの子。夜野さんと友達になれて嬉しいって。友達だって、そうハッキリ言ってましたから」

「そ、そっか。良かった」

「良かった?」

――なんなのこの男、ハッキリしないわね!――

 俺が安心したのも束の間、何か気に障ったらしい。
 岸さんは大きなつり目を一層吊り上げ、俺の方へづかづか歩み寄る。

「でも夜野さんが言ったのは告白ですよね?」

「え、ちが」

「人と友達になるときに“隣にいてほしい”なんてわざわざ言います? こうやって同じサークルに入ってきて、やっぱり奏に気があるんじゃないですか!」

「ま、待って待って! まだ入るって決めてないし、それに……」

 凄い剣幕に圧倒されながらもまずは一呼吸置いた。口調がマシンガンなタイプはどうも苦手だ。
 だけどいつまでも言われっぱなしという訳にもいかない。

 相手が黙ってくれたのを確認してから俺は口を開いた。

「あのさ、前から気になってたんだけど、仮に俺が朝比奈さんに気があったとして、それっていけないことなの?」

「じゃあやっぱりそうなんですね」

「仮にって言ったでしょ」

 岸さんは下を向いて唇をかたく結んだ。

――やっぱり……こうなると思ってたのよ、最初から――

 うわ言のような力のない心の声が聞こえる。
 俺の中で更なる疑問が湧いてくる。ザワザワと不穏な音まで伴って。

 一体、何がこの子をそうさせるんだろう。何をそこまで思い詰めているんだろう。


「そうですね……わかりました。奏のことを好きになる可能性があるなら私もある程度話しておこうと思います」

「えっと、俺の話聞いてた?」

「私、これでも高校の頃はいじめられてたんですよ。奏もいじめられやすいタイプでしたけど、私はまた違う理由で」

 岸さんは観念したような顔をした後、勝手に話し始めた。
 多分、こうなったら気が済むまで止まらないだろうと俺も観念した。

「私、見た目こんなんじゃないですか。今は化粧とかしてますけどスッピンでもそんな変わらないっていうか、チャラそうな顔立ちなんですよね。元から」

「う、うん……そうかな? よくわかんないけど」

「当時違う学校に彼氏がいて、外で会ってるところをクラスメイトの何人かに見られたんですよ。そんときの彼氏は結構意識高い系っていうか、お洒落好きで会う度に全然違う印象の服装してたし髪色もしょっちゅう変えてたんですよね。だからクラスメイトの目には私が何股なんまたもかけてるように見えたみたいなんです。あいつならやりかねないって思われたっぽくて。そんなの私に直接訊いてくれればいいのにさ、みんな陰でコソコソと盛り上がって、いつの間にかクラス中から無視されるようになって……」

「へえ……その、大変だったね」

「しかもその噂、彼氏の耳にも入って。アイツ私のこと信じてくれなかったんですよ! 全部おめーのことだって説明してんのに聞く耳持たなくて、そのままフラれてマジ最悪。ありえなくないですか!?」

「あ、うん」

 当時の怒りが蘇ったのだろう。ヒートアップしていく岸さんの声に遠くにいた生徒も驚いたようにこっちを見ていた。

 しかし岸さんは気付いているのかいないのか不機嫌な表情のまま荒々しく前髪をかきあげる。

「……でも奏だけは違ったんですよ」

 声色は少し落ち着いた。
 不機嫌の中にほんのひとさじの哀愁が混じったような顔をして岸さんはこちらをじっと見つめる。

「奏は高二のときに転校してきた子だから、私の悪評を知らないだけかと最初は思ってました。でも噂はクラス中どころか学年中に広がっていたしあの子も耳にする機会はあったはず。それでも奏はただ目の前の私を見てくれた。あの子の視線はいつだって真っ直ぐだった。私があの噂は違うって言ったらすんなり信じてくれた」

――だからもう傷付いてほしくない。ズルい奴らに利用されるところなんて見たくない――

「大切な友達なんです。本当に奏を大切にしてくれる人と関わってほしいんです」

――奏の家庭の事情を知った男は大体引くし。みんな責任感が足りないのよ。簡単に手のひら返してさ――

「その、あの子あれでも将来のことまでしっかり考えるタイプだし、だから相手にもちゃんと考えてほしいっていうか。学生だとしても本気の付き合い以外はしてほしくないです。それだけは先に伝えておきます」

 なんだか、聞こえない方がいいようなことまで聞こえてしまった。

 この能力とはそれなりの付き合いなのに、今更ながらにそう思った。

 岸さんは前に、朝比奈さんは言わなくてもいいようなことまで正直に喋ってしまうタイプだと言っていた。それでいつも先回りしてこんな過保護みたいな状態になっているんだろう。

 だけど正直俺には、どうもそれだけではないように感じられる。
 表向きは気が強くても岸さんからは激しい動揺が伝わってくるんだ。
 それはまるで何かに怯えているかのよう。


「君の気持ちはわかった。でも絶対に傷付けないとは約束できない」

 だからこそ俺は薄っぺらい気休めなど口にしたくはなかった。

「どんなに大切な相手でもどんなに気を付けてても傷付けてしまうことはあるから。むしろ心の距離が近くなればなるほど摩擦や衝突は起きやすくなると思う。他人事ひとごとと思って割り切れないからね」

「夜野さんって正直者ですね」

「……嘘は嫌いだから」

 そう言いながらも俺はこの後、自分が嘘をつくことを予感していた。
 正直でありたい。だけどやむを得ない、必要な嘘だ。

「でも大丈夫。俺も朝比奈さんのことは友達としか思ってない。誰かと深い仲になるとかきっと俺には無理だから」

 半分くらい、本当だけど。

 そろそろ時間だよと言って俺は先に歩き出した。
 反論するような言葉はなく、ただ遅れて小さな足音がついてきた。


「あっ、二人ともお帰りなさい!」

 教室に戻るとさっそく朝比奈さんが駆け寄ってきた。

 ああ……
 熱を伴ったため息が零れそうになる。

 気のせいなんかじゃなかった。彼女の周りだけがふんわりと明るい。白くけぶって目が眩んで。
 自分を誤魔化すのにも限界がある。そう認めざるを得ない。

 友達がこんなふうに見えるはずがない。
 本当は俺だって、とっくに気付いていたんだろう。
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