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第1章/変わり始めた世界
6.心の中は君ばかり
しおりを挟む「あっ、いや……今のは……」
とりあえず何か言おうとしたのはどれくらい経った頃か。
だけどどうやっても続きが出てこないし、みっともなく声が上ずってますますいたたまれない気持ちになった。
俺は再び顔を伏せてしまった。とてもまともに顔を見れる状況じゃない。
まるで愛の告白のような、そんなことを口走った。それだけはわかる。
そうなのか? そんな目で彼女を見ていたのか、俺は。いやまさか。単なる言葉のあやというやつだろう。朝比奈さんは無防備だから多少動揺することはあったけど。だけど。
「わかりました!」
「え?」
歯切れの良い声が返ってきて俺はやっと顔を上げた。
朝比奈さんは力のこもったキラキラした目で真っ直ぐ俺を見ていた。引くどころかむしろ嬉しそう、なんだが。俺がそう思いたいだけか?
「夜野さんの隣にいます! もし気分が悪くなったら今度は私が夜野さんを助けます!」
「朝比奈さん……」
「私も沢山お世話になりましたからそれくらいはさせて下さい!」
……そっか。
そっか。朝比奈さんだもんな。
長い付き合いという訳でもない、むしろ始まったばかりの仲だというのに何故かすんなり納得できてしまって身体の力が緩んだのを感じた。
不思議だった。安心しているはずなのにちょっと寂しいようなその感覚が。
そして遅れて込み上げてきたなんとも言えないくすぐったさに俺はやがて堪えきれなくなった。
「え、夜野さん? どうしたんですか?」
「いや、ごめん。大丈夫だから」
「夜野さん笑ってます!? えーっ! 笑ってるの初めて見ました! えっ、なんか私面白かったですか?」
「うん、ちょっと」
「何処がですかー!?」
気になってしょうがないといったふうに彼女は俺の肩を揺すってくる。でも悪い気はしてないみたいで一緒になって笑っていた。
駅方面から歩いてくる人が増えてきた。
何人かにチラチラ見られてるのは気付いてたんだけど、思い出した、これが“ツボに入る”っていうやつだ。久しぶりすぎて忘れてたけど、こんなにコントロールの難しいものだったんだな。
彼女も可笑しいし、俺も可笑しい。それが何故こんなに嬉しいんだろう。
しばらく経った頃、俺たちは顔を見合わせ少し落ち着いた。息が整ってくるのがわかった。
「そろそろ行こうか」
俺が切り出すと朝比奈さんは「はい」と言って頷いた。
まだ足がつらいだろう。手を差し伸べると嬉しそうな顔をして握り返してくれた。とてもあったかい手だ。
「っていうか夜野さん、もしかして電車の中でヘッドホン外してたから体調悪くなったんですか?」
「そうかも知れない」
「やっぱり! ごめんなさい! 私ニブいから全然気付かなくて」
「ううん、言わなきゃわかんないことだから」
キャンパス内に入るとなんだか名残惜しい気持ちにさえなった。あんな無防備に笑ったのなんてすごく久しぶりだったもんな。
それにしてもまた人の視線を感じる。
女子と歩くというのはそんなに目立つものなのか? 友達同士って場合も多いし、日常的に見かける光景だと思うんだが。
「じゃあここで。夜野さん、今度また何かあったら遠慮なく言って下さいね」
「朝比奈さんこそ気を付けて」
この子は俺の心配ばかりする。
岸さんの言葉が脳内に蘇ってきて胸の奥がきつく締まる感覚がした。
『この間まで私と同じバイトしてたんですけど、奏だけが店長からセクハラに遭ってて……』
『今回、階段から落ちたときもめまいがしたって言ってたから、もしかしたら貧血だったんじゃないかと……!』
自分だって大変な目に遭ったというのに。
やれやれと思っていたとき、手のひらが急に涼しくなって驚いた。何かがふっと欠けたような。
彼女が手を振りながら去っていった後、俺は呆然と空っぽになった自分の手を見つめて立ち尽くした。多分、何分も。
その夜、俺は風呂に入りながら何度も自分に言い聞かせた。
みんなが見ていたのは朝比奈さんが怪我をしていたからだ。だから目立っていたんだ、そうに違いない。
怪我人の手を握っていたら? それはもちろん介助だろう。誰だってそう思うだろう。それ以上の仲になど見えるはずがない。
だけど目の前にある自分の手には、一人ぼっちになった手には、そこはかとなく哀愁さえ感じられて、俺はたまらず湯の中に顔を伏せた。苦しくなるまで。
「ああ……もう」
手を繋いだままだって、なんで気付かなかったんだろう。うっかりどころの話じゃない。そんなことってあるのか。
なんだったんだろう、あの一つに溶け込んだような感覚は。まるで彼女の手が自分の一部であったかのような違和感のなさ。一体……あれは……
ぽちゃんと雫が滴ると共に波紋が広がった。繰り返し、繰り返し、目の前で、そして俺の中でも。
ってか暑い。のぼせたかも知れない。
だけど芯に宿った熱っぽさは夜が更けて気温が下がった後も続いた。
一方で遠い記憶が痛みを伴って俺に迫った。
凄く根本的なことを突きつけてくる。忘れるなとばかりに。
『響、美月、落ち着いて聞いてくれ。父さんたちな……』
『ははっ、なんで響が心配そうな顔してんだよ』
「そう……だよな」
誰かに期待するなど許されない。あのときから、俺はそういう体質になってしまったのだ。
それからだいたい一週間ほどの時が流れ、五月ももうすぐ終わろうとしていた。
俺は相変わらず同じ時間帯に学校へ向かっている。毎日あの道を通る。
だけどあれから登校中に朝比奈さんと会うことはなかった。
空がどんより曇っていた日、俺はふと自分のしていることに虚しさを感じた。
なんのことはない、ただこれまでと同じ日々を繰り返しているだけのはずなのに、胸の奥にある厄介なぬくもりのせいでそう思えないのだ。
俺の登校時間に彼女が合わせなくちゃいけない決まりはないし、偶然なんてそんなに何度も起こらない。それなりに人の多い地域だ。近くを歩いていてもわからないことだってあるだろう。そもそも連絡先だって交換していないんだ。
彼女の心の声が聞こえないからなんだ。息を吐くように社交辞令を口にする人間だっているかも知れないだろう。
電車に乗った後、俺はいつもと違う音楽をかけてみた。アップテンポな曲調が辺りに溢れた心の声を掻き消していく。
頭の中がぐちゃぐちゃだから、いっときだけでもいい、吹き飛ばしてくれるような勢いと刺激が欲しかった。
やっぱり駄目なんだ、俺は。変に優しさに触れたりなんかすると……
俺の中の雑念もやがては意識の向こう側へ紛れていった。
授業が終わって周りの生徒たちがザワザワと帰り始めた頃、俺はぼおっと手元のノートを見つめた。
一応大事なところは書いてある。一応頭には入ってるってことなんだろうけど、ここまでどうやって過ごしていたか正直曖昧だ。
ノートを閉じてもたもたと荷物をまとめていたとき、横から誰かが近付いてくる気配がした。
顔を上げてみると、知ってる……ことは知ってるけど、見覚えがある、くらいの男子がいた。
明るい髪色にほんのり日焼けした肌。夏を先取りしたような爽やかなスカイブルーのシャツ。眩しい白のパンツ。そして満面の笑顔。
うるさいってほどではないけど、いつもみんなとワイワイやってる印象が強いタイプだ。明るくて、愛想が良くて、俺とは対極にいる感じの。
「夜野くん、今大丈夫?」
「あ、はい」
そんな彼が一体何故。というかよく俺の名前覚えてたな。
「夜野くんさ、サークルとか入ってる?」
「いえ、何も」
「そっか。急な話なんだけどもし良かったらうちのサークルどうかなって。二年生からでも大歓迎! 人数少ないから増やしていきたいなってみんなで話してたところでさ」
「あ、すみません。俺……」
手のひらを彼の方へかざすところまで動いたのに、そこでふと思考が停止した。
それからまたゆるく動き出した。どういう心境の変化だったのか自分でもよくわからない。
「なんのサークルですか?」
「ボランティアサークルだよ。教育系の」
「そうですか……」
「どうかな?」
――夜野くんとっつきにくそうだけど実は結構優しいところあるから向いてると思うんだよなぁ~!――
相手の期待の表情と心の声がどんどん迫ってくる。
「見学だけでもしてみない?」
「は、はい……じゃあ少し」
ポジティブな心の声を聞いたのが久しぶりだったからかも知れない。そんな単純なことで俺の心は少し動かされてしまった。
「いや~! 良かった~! 夜野くんが少しでも興味を持ってくれて。あっ、俺の名前わかる?」
「いや……ごめんなさい。顔はわかるんですけど」
「あはは! やっぱりね! 俺、兵藤智治。この機会に是非覚えてね」
「宜しくお願いします」
廊下を歩きながらいくつか会話を交わした。ほとんど兵藤くんが喋っていたけど。
でもちょっと疑問があった。
兵藤くんは俺の一体どこを見て優しいなんて思ったんだろう。存在感を消すくらいの勢いで地味な人間を徹底していたつもりなのに。
しかし疑問が晴れる瞬間は刻一刻と迫っていた。
「そうそう、夜野くん最近よく一年生の女子と一緒にいるよね? 朝比奈さんだっけ」
「えっ」
「やっぱり付き合ってるの?」
「いや、そういう訳じゃないんですけど……」
――え~、ホントかなぁ~!――
兵藤くんはニヤニヤしながら怪しんでる。
いや、それよりなんで朝比奈さんの名前を知ってるんだ? 平静を装ったつもりだけど俺の頭は混乱していた。
よく一緒にいるってほど会ってないけど、なんか噂になったか? だとしたら何処まで広がってるんだ? 想像するのが怖い。
でも、会えない間も彼女がずっと俺の心の中にいたのは事実だった。
「彼女も同じサークルだよ。良かったね」
教室のドアが開く。
窓を背にして立っている女子が二人。朝比奈さんと岸さんだとわかった。他にも沢山生徒はいただろうに、そのときの俺にはそこしか見えなかった。
視界は徐々に狭くなり、柔らかな逆光となった彼女だけに絞られる。
ぱあっと花弁が舞うような、甘い香りが弾けるような。そんな笑顔が咲く瞬間を見た。
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