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第1章/変わり始めた世界
4.雪崩のように
しおりを挟むあの後、朝比奈さんにはタクシーで自宅マンションまで帰ってもらった。
俺も帰りの方向は同じだ。でもさすがに出会ったその日に送るというのはどうなのかと思った。
少し迷ったけれど彼女の住むマンションにエレベーターがあるなら大丈夫だろうと結論付け、俺は彼女にタクシー代だけ渡して自分はいつも通り電車に乗った。
でも自分の部屋に帰った後もずっとあれで良かったのかと気になっていた。
何せ人と関わること自体が久しぶり過ぎた。距離感がよくわからない。何処まで手を貸して良いのかも。
もしタイミング悪く工事とかでエレベーターが止まっていたら、彼女は相当困ったんじゃないだろうか。そんな想像までしてしまう。だけど今更俺にできることなんてない。
冷凍チャーハンを皿に盛り、レンジで温めている間に豆腐とネギを切る。
今日のように自炊が面倒なときもあるが、味噌汁だけはなるべく手作りするようにしている。中華スープじゃないのは単に好みの問題。和食好きなせいか個人的に味噌だと満足感が違うのだ。
そうして用意した夕飯を食べてる最中も今日一日の出来事が頭の中をぐるぐる廻っていた。とりあえずテレビをつけるのは癖だったけど、もはや内容さえよく覚えてない。
初めてだったんじゃないだろうかとさえ思えた。あんなにも『心と言葉に嘘がない人』に出会ったのは。
美化しすぎだろうか。彼女のこと。
そもそも俺は何年も人と距離を置いてきたから、実際にはもっとそういう人間がいるのかも知れないし、彼女のだってたまたまかも知れない。
きっと一度も嘘をついたことがない人間なんていないから。
だけど、それでも稀だと思う。彼女には人が鎧として身にまとう『警戒心』とか『緊張感』といったものがほぼ感じられなかった。
言葉では十分に言い表せないけど何か気になるんだ。彼女の中に何か未知なるものが存在しているような。
どういう育ち方をしたらああなるのだろう。それとも生まれ持った特性なのか?
考え事が疑問形になったと同時に自分の中の変化を実感した。
やはり俺は今、他人に興味を持っている……?
いや、そんな馬鹿な。俺は……『夜野響』はそんな人間じゃない。
俺はリモコンを手に取りテレビの音量を上げた。残りのチャーハンを一気にかき込んだ。
翌朝、昨日と同じ時間に起きた俺は着々と朝のルーティンをこなし自宅マンションを出た。
ヘッドホンをつけて昨日と同じ音楽を聴いた。
だけど景色は今までとはまるで違うものに感じられた。
あの道に差し掛かった。ちら、と横目で見上げた歩道沿いのマンション。
あまり長く見ているとそれこそ不審者みたいだから本当にちらっとだったけど、洗濯物は干してないなとわかった。
朝、偶然出逢った人が実は同じ学校の生徒だったとか、まるで昔ながらのラブコメみたいな展開だったな。
でも俺じゃラブコメになんてなりようがない。そうやって正気に戻るのも早かった。
足早にその道を通り過ぎながら思った。
彼女の住むこのマンションだって今まではただの風景だったんだ。またそのうち元に戻る。
興味を持ってどうする。要らぬ期待が生まれてしまうだけだ。
しかしそれから数日後のこと。
授業を終えて荷物をまとめていたときだ。
「えっと、夜野くん? 君を呼んでる人がいるんだけど。そこのドアを出てすぐのところで待ってるって」
――うわ~、こいつ話しかけづらいんだよな――
同級生の男子の表の声と心の声が同時にやってきた。まあ……俺も話しかけられないようにしているから別にいいんだけど。
「あ、うん……ごめん、どんな人?」
「女子だったよ。なんか派手な感じの」
「? そっか、わかった」
「おう、じゃあな」
「ありがとう」
同級生とのぎこちない会話が終わった。ホッと一息。
それより俺を呼んでる派手な女子って誰。まずそこに違和感しか感じないんだが。
荷物を持って廊下に出ると、見知らぬ女子が腕組みをし、壁を背にして立っていた。
片側に結ったポニーテール、肩だけが開いたトップスにミニスカート。つけまつげをしてるんだろうか、やたら大きなツリ目がギャルっぽい。
俺に気付くとぱっと姿勢を正したものの、なんだか不機嫌そうな雰囲気はそのままだ。
え、まさか本当にこの子? 確かに全力で派手だけど、何も接点ないぞ。
「あなたが夜野さんですか?」
「そうだけど」
――ふ~ん、もっと気さくな人かと思ったら全然違うじゃん。何考えてるかわかんないタイプ? やりづらいわ~――
第一印象はあまりよろしくないようだ。
「それで君は?」
俺が尋ねると彼女はツンとした表情を保ったまま名乗った。
「一年の岸愛梨です。この間、奏が夜野さんという人に助けてもらったと聞いて」
「奏……」
「朝比奈奏です」
ああ、やっぱりあの子のことか。記憶の奥に沈めていたゆるキャラ的な笑顔が脳内で蘇った。
「単刀直入に訊きます。奏とはどういう関係ですか?」
「へっ?」
突然の問いかけに俺はつい間抜けな声を出してしまった。この子は一体何を勘違いしているんだ?
――奏に近付く男なんてどうせ下心があるに決まってる。どうせコイツもそうなんでしょ!――
最初から感じていた不機嫌っぽさは気のせいじゃない。どうやらこの子は俺を警戒しているようだ。それか男嫌いなのかな。
「どういう関係と言われても……」
「あの子、捻挫する前からあなたを知ってるような口ぶりでした」
「いや、ただ洗濯物拾っただけなんだけど」
「洗濯物!? まさか下……」
「寝巻きです」
俺がやや被せるようにして答えると岸さんは少しの間ぽかんとしていた。
――寝巻きってあのフリフリなやつ? やだ、あれ外に干してんの奏ってば。女の一人暮らしって一発でバレちゃうじゃない!――
見たことあるってことはきっと家を行き来するような親しい間柄なのだろうと察するのは容易だった。
「あのさ、ああいうのは外に干さない方がいいって注意しといたから」
「えっ」
「だから次からは気を付けると思うよ、朝比奈さんも」
岸さんは大きく目を見開いていた。まあ、ほぼ心の声に返事しちゃったようなものだから無理もないかも知れないけど。
――なによこの男、下心で親切にしたとかじゃなくて案外いい奴?――
そうですね。少なくとも下心はないです。
ひと呼吸置いた俺も疑問に思っていたことを口にした。
「岸さんは朝比奈さんの友達? だったら俺じゃなくて本人に訊けばいいじゃない」
「えっと、それは……」
――だってあの子、本当にいい人とそうでない人の区別がつかないんだもん! もうあの子が傷付くのを見るのは嫌なのよ!――
ああ、そういうこと。たった一日しか接してなくてもすんなり納得できてしまった。
「奏って普段は言わなくてもいいことまで馬鹿正直に喋っちゃうような子なんですけど、ときどき本心を隠してるみたいなんです。だから……」
隠してる? そんな感じには思えなかったけど……。
喉元まで出かかった疑問を飲み込んで、違う形で問いかけてみる。
「例えば?」
ああいうタイプの子と関わったことがなかったから単純に聞いてみたかったんだ。
「そうですね、高校んときあの子イジメの標的にされたことがあって、それなのに「いじめられてる実感がなかった」って笑いながら言ったんですよ」
「……うん」
「あとこの間まで私と同じバイトしてたんですけど、奏だけが店長からセクハラに遭ってて、なのに私が気付くまで何も相談してこなかったから……」
「…………」
「でもきっと本当は傷付いてると思うんです! 実際、一緒にバイト辞めた後から食欲がなくなっちゃって、お昼ご飯もちょっとしか食べないし。今回、階段から落ちたときもめまいがしたって言ってたから、もしかしたら貧血だったんじゃないかと……!」
そこまで言った岸さんが小さく息を飲むようにして口を噤んだ。一瞬にして空気が張り詰める。表情が強張っていた。
「すみません。喋り過ぎました。何もないならもう大丈夫です」
「いえ」
「……奏を助けてくれてありがとうございました」
岸さんは小さく頭を下げると踵を返し、足早に人混みの中へ紛れていった。
俺はしばらくその場に立ち止まっていた。
さっきの岸さんの言葉が何処まで本当だったかはわからない。でも可能性はあると思った。
誤魔化しでもなんでもなく、朝比奈さんが本当に実感してなかったという可能性だ。
悪意を向けられれば人は多かれ少なかれ傷付くものだ。すぐに気付いた場合でももちろんいい気分しないだろう。
ではすぐにわからなかった場合はどうなんだろう。善意とさえ思っていたものが実は悪意だと知った場合は。
心が崩れる音はきっと大きいのだろう。誰も滑ったことのない雪原が少しの刺激で脆く雪崩れるように。
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