嘘の世界で君だけが

七瀬渚

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第1章/変わり始めた世界

3.ドライになれない(☆)

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 一階に降りた俺は、たまたま通りかかった男性の教授に声かけた。事情を説明したらすぐに担架を持ってきてくれた。

 流れで俺も手伝うことになり、教授と一緒に担架を持って彼女を一階まで運んだ。辺りにはいつの間にか人だかりができていた。


「ありがとうございます! 助かりました。あとは大丈夫です!」

 なんだって? 彼女の言葉に俺は唖然とした。

 笑顔を浮かべているし心の声も聞こえないから、階段以外なら自力でいけると本当に思っているようだ。
 あのマンションに帰るってことは電車にも乗るんだぞ? 正気か。

「だけど君、痛みがあるんだろう? ほら見てごらん。靴下の上からでも腫れているとわかる。もしかすると骨にヒビが入っているかも知れないよ」

 教授の言葉に俺も同感だと思った。

 しかしこの状況、どうしたものか。
 救急車を呼ぶほどのことなのか迷うところだがいずれにしても自力では動けない。骨折なのか捻挫なのかもわからない。いつまでもこうしている訳にもいかない。

 彼女は何か喋る訳ではないけれどやはり痛みはあるらしく、笑顔を保とうとするその顔からも時折余裕が消える。

 さっきまで人が多かったけれど昼時だったから大多数は帰宅したか学食の方へ流れていってしまっただろう。

「教授、この近くに総合病院がありましたよね?」

「ああ! あの病院なら整形外科があるな」

「タクシーで連れて行きましょう。俺がついていきます」

「えっ、大丈夫なのかい?」

「特に用事もないので」

 長らく人との関わりを避けていた割に随分すんなりと決断できたものだと自分でも思う。状況が状況だからというのもあるけれど、何故かこの女子には壁を感じないという不思議な感覚があった。


 電話でタクシーを呼んだ後、彼女は思い出したように俺の方を向いた。

「ごめんなさい! 私、今日は確かお昼代くらいしか持ってきてないのでタクシー代とか病院代足りないかも知れないです!」

「そういうのは後でいいから。とりあえずじっとしてて」

 すみませんと言ってうなだれる彼女。心の中で数字を呟いているのが聞こえる。財布の中の金額を思い出しているんだろう。
 大丈夫だからと繰り返す度に俺はなんだかソワソワと落ち着かない気持ちになった。



 やがてタクシーが到着した。教授と一緒に後部座席へ彼女を乗せた後、俺だけ彼女の隣の座席に座った。

「彼女怪我してるのであまり揺れないようにお願いします」

 俺は運転手にそう頼んだ。
 運転手が快く返事してくれた後、タクシーはゆっくりと動き出した。


「……親切にして下さってありがとうございます」

 しばらく進んだところで彼女がそう言った。
 今朝のような締まりのない表情で俺の方を見つめてくる。なんかゆるキャラみたいだ、この子。

「あの、お名前はなんていうんですか? 今度お金返したいですし」

「夜野響。文学部地理学科の二年。お金返してくれるのは助かるけど足治ってからでいいからね」

「あ、はい。わかりました。よのさん……どういう字を書くんですか?」

「『よる』に野原の『野』」

「へぇ……!」

 何が嬉しかったのか彼女はキラキラ目を輝かせた。そしてその目を三日月型に細める。

「私は一年の朝比奈あさひなかなでです。あっ、あさひなはですね、朝日の『朝』に『くら』べるに神奈川の『奈』……いや、奈良の『奈』です!」

 何故言い直した。どっちも同じ字だろう。

「あとかなでは『奏でる』っていう字、あの、音楽とかの」

「ああ、わかるよ」

 こちらに身を乗り出したせいか朝比奈さんはまた「いたっ」と小さく叫んだ。だからじっとしていればいいのに。

「なんか凄い偶然ですね」

「何が?」

「私たちの名前。朝と夜なんですね」

「あ、ああ」

 ニコッと首を傾げて微笑まれたとき、俺は思わず目を逸らしてしまった。そのまま彼女とは反対の窓の外を眺めていた。

 この子は……『あざとい』とか言われることが多いんじゃないだろうか。何か相手に期待をさせるような喋り方をする。

 悪いことではないけど愛想も良い。俺は冷めた人間だからそんな簡単に揺れないけど、こんな調子で話しかけられたら勘違いする男もいるのではないか?

 “勘違い”そう思ったのは、やはり彼女からは計算とか駆け引きといったものを思わせる声が聞こえないからだ。

 朝から今までの間で聞こえた心の声と言ったら財布の中身の金額くらい。彼女は思ったことをほとんどそのまま発言している。それはもはや本能的に出ている声と言っても良いかも知れない。

 本当にいるんだな、こんな人が。もっと早く出逢えていたら……

 そう思ったときにタクシーが停車し、その振動で俺の心臓も跳ね上がった。いつの間にかもう病院の前。急ブレーキをかけられた訳でもないのに妙に鼓動が早くなっている。
 待て、俺は今、何を思った。
 何故かそれを思い出してはいけないような気がして素早くかぶりを振った。



 約1時間後、俺は整形外科の待合室にいた。
 ついさっきようやく朝比奈さんの順番が回ってきて診察室へ向かっていったところだ。

 ふと腕時計を見た。もう午後2時を過ぎている。腹がぐうと鳴った感覚がした。

 俺は、何をしているんだ。改めて思った。

 別に俺はここまで付き添うことはなかっただろう。今日偶然会ったばかりの他人だぞ。ちょっと多めの金額を渡して自分は帰れば良かったじゃないか。あとは病院関係者がなんとかしてくれる。

 わかっている。わかってはいるんだけど、あの子やけに人懐っこくて、自分の学部のこととか入りたいサークルのこととか一人暮らしを始めて困ったこととか、そういうの勝手に話し出すし、しかも待ちくたびれたのか途中でこっくりこっくり居眠りし始めて、完全に言い出すタイミング逃したというか。

 なんか調子が狂ったっていうか……。

 自分の心に一体何が起きたのか俺はわからなくてため息をついた。
 とりあえず気分転換に自販機で飲み物を買うことにした。



 朝比奈さんが戻ってきたのはそれからまた一時間半ほど経った頃。

「あれ! 夜野さん待ってて下さったんですか?」

 右足首から足の甲にかけて包帯を巻き、両手に松葉杖をついた彼女がぽかんとした顔で俺を見ている。昼間はトートバッグとして持っていた荷物をショルダー型にして持ち替えていた。

 誰のせいだと言いたい気持ちを抑えて俺は、特に予定ないからと今日二度目の言葉を返した。大体お会計済んでないのにどうやって帰るつもりだったんだか。

「それよりその松葉杖。やっぱりヒビ入ってたの?」

「いえ、レントゲン撮ってもらったんですけどヒビは入ってなかったです。でも結構重い捻挫みたいで治るまでそれなりにかかるって……」

「そうか。家に食べ物はある? 病院の前にコンビニあるけど」

「えっと……うちんち何があったかなぁ」

「一応買っていこう。どういうのがいい?」

「えっ! そんなにお金出してもらう訳にいかないです! 待ってて下さい、確か病院内にATMがあったはずです。すぐに下ろしてきますので……」

「でもここからだと割と距離があるでしょ。だからいいよ、そういうのは落ち着いてからで」

 松葉杖なら俺も経験がある。あれは全身の筋肉を使うから後で起き上がれないくらい身体が痛くなるんだ。あまりあちこち歩かせる訳にはいかない。

 病院の入り口で彼女に待っててもらい、買い物には俺が行くことにした。


「本当にありがとうございます」

 病院を出てすぐのところでコンビニで買った弁当やパンを彼女のショルダーバッグの中に詰めてた。朝比奈さんの声にはなんだか力がなかった。申し訳ないと思ってるのか、それとも疲れたのか。
 だけどそうだな、空はもう茜色に染まりつつある。いずれにしても早く帰って休むだけの状態にしてあげたい。

「そっちのマンションにはエレベーターあるの?」

 俺が聞くと彼女はキョトンと目を丸くし、不思議そうに首を傾げた。

「ありますけど……どうしてうちがマンションだって知ってるんですか?」

「え?」

 俺も思わず聞き返してしまった。

「いや、今朝マンションから降りてきたじゃない。その……洗濯物拾ったときに」

「え! 夜野さん、あのときの人だったんですか!」

 まさか気付いていなかったとは。
 勘弁してくれ。これじゃ俺がストーカーみたいじゃないか。俺はちょっと頭が痛くなりそうだった。

「ごめんなさい、全然気付かなくて。今日二回もお世話になってたんですね」

「いや、別にいいんだけど……」

 立ち止まったまま、俺は少し考えた。

 思い出していた。診察に呼ばれるまでの間、彼女が待合室で俺に話していたことを。

「あのさ」

「はい」

「風の強い日は洗濯物干すの気を付けて。走行中の車にかかったりしたら危ないから」

「あっ……そっ、そうですよね。ごめんなさい、私全然考えたことなかったです。今度からは気を付けます」

 まずは一般的なマナーの方から話した。ちょっとしょんぼりしてしまった彼女。こんだけ抜けてると怒られること多そうだなとなんとなく察した。
 そして追い討ちをかけるようで俺も言いづらいんだけど、もう一つ大事なことを伝えておきたい。

「あと一人暮らしって言ってたよね。ああいうのは外に干さない方がいいと思う」

「ああいうの?」

「あの、ネ……寝巻き?」

「えっ、寝巻き干しちゃ駄目ですか?」

「だからその、いかにも女性ものってわかるようなヤツだよ」

 彼女はまだよくわかってないような顔をしていた。俺は少し声を潜めながら続けた。

「洗濯物で大体の家族構成はわかってしまう。上の階だからって絶対に安全とは言い切れない。本当はおかしな話だと思うよ。女性に生まれたというだけでここまで気を付けなきゃならないというのは。犯罪が起こる前提でものを考えなきゃいけないなんて世の中どうかしてると思う。でも実際悪い人間もいるのが現状だから」

「夜野さん……」

「その、変な奴に目をつけられないように気を付けてほしいんだ」

 そこまで言った後、俺は覚悟した。さすがに気持ち悪いと思われたかも知れないと。なんかお節介が滲み出てたような気が自分でもする。

 でも目の前の彼女はどんどん表情を柔らかくしていったのだ。





「ありがとうございます。優しいんですね」

 嘘は、聞こえなかった。何一つ。

 俺はやっと少しだけわかった。朝比奈さんは俺をドライでいさせてくれない。
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