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5.遠い季節
しおりを挟む水面を見上げると波紋が幾つも生まれていました。雨が降っているんだとカナタにもわかりました。
空は人魚にとって不思議なものです。あんなに晴れていたのにあっという間に天候が変わります。昔、陸の世界がもう少し平和であった頃、知識の豊富な母親から聞きました。もくもくと白い雲が膨らんでいるときは嵐に注意しなさいと。なんとなく美味しそうなのに。可愛らしいのに。あれが強い雨を降らせるなんて信じられませんでした。
白い空、カナタはもう一つ知っています。その季節はまだ遠い。
浅い海中にぷかりと漂ったまま、天をあおいだまま、首から下げたネックレスをぎゅっと握ります。逢いたくてももう逢えない。だけどこうして側に在る。冷たい感触なのに身体の芯が熱を持つのです。この感情はなんなのか。答えは未だ見つからないまま。
人魚は本来人懐っこい。カナタはその気質が顕著にあらわれていました。本当は、出来るなら、砂浜を歩く人々から陸の話を沢山聞いてみたいのです。仲良くなってみたいのです。
しかし先日、岩の上で空を見上げていたカナタは人間から何か小型の機械を向けられました。強く光ったのを覚えています。ずっと前にも他の人魚が同じような状況に直面した後、手配書というものを作られ懸賞金がかけられたと聞いています。自分もきっと狙われた。人魚の中でも並外れた能力を持っていることを知られたのかも知れない。カナタは身体の芯がひやりとする感覚を覚えました。
王族ではないけど貴族の生まれで、かつては“姫”と呼ばれていたくらい。カナタは少しあどけないけど美麗の容姿です。褒め言葉である場合もあればからかいである場合もあって、幼い頃のカナタはどちらにしても嫌だとしかめっ面をきめていました。
だけどただ一人だけ、そう呼ばれても嫌ではない相手がいました。褒め言葉、からかい、そのどちらでもない“勘違い”。本当のことを伝えられないまま、その相手とは離れ離れになってしまいました。
人間たちによって作れられた自分の手配書は何処まで拡散されたんだろう。彼も見てしまっただろうか。幻滅……されただろうか。
カナタにとっては追われていることよりもそちらの方が怖くて。痛みを伴うもので。温かな初夏の海にも関わらず、細い肩を抱いて震えてしまいます。
忘れなくてはと何度も自分に言い聞かせてきた。どうやっても想いが報われることは無いのだからと。それでも恋しくて、恋しくて……年頃ゆえに縁談の話を何度も持ちかけられたけど、首を縦に振る気にはなれませんでした。
「もう一度、君と見たい。今度はあんな状況ではなく平和な世で」
気が付くとカナタは、波打つ水面に向かって手を伸ばしていました。整った美麗の顔が、迷子の子どもみたいにくしゃりと歪みます。
「……でも、駄目だよね。だって……」
海中に降りしきるプランクトンの死骸では、足りない。奥深くまで染み付いている感触、ゆえに忘れられない。もっと冷たく、もっと激しく、生きていると実感できるほど私の身体に降り注いでと願う。
――スノウ。
遠い遠い日の幻想を思い出すうちに、目の奥から溢れた何か熱いものが海中に溶けました。
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