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第2章/記憶を辿って(Tomari Katsuragi)
35.優しくて苦い記憶(☆)
しおりを挟むいつからだったか覚えてはいないのだがミルフィーユが好きなのだ。
丁寧に築かれた層に慎ましく挟まったカスタードクリーム、真っ赤な苺は愛らしく彩りを添える。小ぶりなのに存在感があるのも見事だ。
名前といい見た目といいなんだか芸術的センスが高く、お洒落好きの心を甘くくすぐる。
それなのに。
ひとたびナイフを入れるとボロボロと脆く崩壊する。あの呆気なさには一瞬切なくなってしまうくらい。
よほど器用じゃなきゃ綺麗になど食べられないのではないかと思いつつ口に運ぶと、やはり味は完璧だった。そんな面白いお菓子。
決戦の後の一息。そのチョイスとして悪くはなかったんだろう、あの夜も。
そこは千秋さんが以前行ったことがあるというカフェだった。遅くまで営業しているからたまに寄って帰っていたのだと。
案の定ミルフィーユを崩してしまった私に、千秋さんは「こうして横に倒してから切り分けてもマナー違反にならないらしいよ」と言いながら実践したのだが、こちらと大差がないくらいに崩れていて、私たちはお腹を抱えて笑った。
いつも食事に関心が持てない私が、明確に「これがいい」と久しぶりに思えた日でもあった。だからこのときの味を今でも恋しく思うのだろう。
千秋さんも甘いものを口にするのは久しぶりだと言った。何故か数秒ためらうようにうつむいてから、二月の誕生日のとき以来だと教えてくれた。
そこで初めて私たちが同じ月の生まれだと知った。日にちまでは訊かなかった。あまり馴れ馴れしくするのも悪いと思って。
来年この人がまだ身近にいるとは限らない。つまりお祝いの言葉をかけられるかわからないと思ったら、つうっと温かい雫が頬を伝って私は咄嗟に窓の方を向いて誤魔化した。
千秋さんは気付いてなかったと思うんだ、多分。そうであってほしいと願った。
理由ははっきりしないけど、あの涙だけは見られちゃいけない気がしたんだ。
今思うと、流れを大きく変える何かが起きてしまうような予感がしていたのかも知れないな。
……と、こんな具合に随分と長い話になってしまった。
和希も眠くなっている頃なんじゃないかと思って顔を上げると、彼女はむしろ目を大きく見開いて私を凝視している。口はぽかんと開いたまんま。なんだ。一体どうしたというのだ。
不思議に思いながらも私は解説を続ける。
「これが店舗のリニューアルオープン前後で印象に残っている出来事といったところだ。スカウトマンの件は本当に怖かったし、しばらくは夜道も不安だったけど、それは千秋さんが助けてくれたおかげで……」
待て、と短く遮られた。和希が手のひらをこちらに突き出して制止を促している。
私は戸惑いながらも頷いた。すると思いがけない問いかけが。
「ちょっと確認するけど、あんた告白されてたよな」
「告白。誰に」
「だから千秋さんから」
「え……」
「え?」
「……そ、それはいつの話だ?」
「あー、もう!!」
和希がわしゃわしゃと自身の頭を掻く様子を私は見ていることしか出来ない。
しばらくして仕切り直しとばかりにこちらへ向き直った和希が再び私に話しかける。
「スカウトマンを追っ払った後だよ。だってさ、涙を手で拭いながら“君に笑ってほしかった”ってそれはもう明らかに……」
「ああ、意外だったな。千秋さんならハンカチもティッシュも常備しているだろうにまさかの素手」
「そうだけどそこじゃねぇ~。私が言いたいのは、千秋さんのその言葉は明らかに特別な相手へ向けたものじゃねぇのってこと」
私は少しだけ考え込んだ。
しかし今回は割と確信がある。返答はすぐに出来た。
「千秋さん的にもあれは告白じゃないと思うが?」
「どうなってんのあんたら」
和希は再び呆気にとられていたが、すまない、私もどうなっているのかまだ理解できてないのだ。
「なんかあんたも千秋さんも無自覚の領域が広過ぎて、本当の気持ちがなかなか見えてこねぇな。やっぱ意思のハッキリした北島とは全く別のタイプだわ」
和希が氷の入ったグラスにペットボトルのメロンソーダを注ぐ。飲み物のストックがあって良かった。
「無自覚の領域、か。そう言葉にされるとしっくりくるものだな」
私は二つ分のメロンソーダの上にスプーンで掬ったバニラアイスを乗せていく。綺麗に丸くは出来ないから不恰好なのだが、これで即席のクリームソーダの出来上がりである。使い捨てのストローも確かあったはずとキッチンへ取りに行く。
時刻は二十二時半。背徳の味となるのは間違いない。
「そういえばさ、千秋さんが告白っぽいこと言ってるとき、あんた何か変なこと思い出してたよな。“僕が遠くに連れて行ってあげる”だっけ。あれ誰の言葉なんだ?」
言われて私も思い出した。ああ、とため息のような声が漏れる。
「あれは幼い頃に言われた言葉だよ。初恋の相手だった」
「へぇ! 何歳んときよ」
「確か小学二年生……七歳だろうな。彼に出会ったのは四月か五月だったと思うから」
「そんな昔の相手でもしっかり覚えてるもんなのか」
「顔はもう覚えていないよ。でも名前ならわかる。ダニエルだ。私より少し年上で、北欧の方から家族と一緒に旅行に来た少年だった。父親が日本人だと言っていたから多分ハーフなんだと思う」
「マジか。国際的な恋だったんだな」
「私の地元は観光地だし、実家は宿だからな」
なるほどな、と和希は納得した様子でストローを咥えた。
私も彼女に続いて、クリームソーダのパチパチとした感触を楽しむ。
「なぁ、そのダニエルって男は今どうしてんだ。両思いだったんじゃねぇの、あんたら」
和希の目はランランと輝いていて、興味の対象が初恋の話に移っているのが伺える。
そうだな、ずっと相談話だけだと和希も疲れるだろう。今度は私が付き合うことにした。
「ダニエルは家族と一緒に北欧に帰ったから、今どうしているのかわからない。確かに私たちはお互いを好きになったよ。子どもの頃なんて単純なものだ。私たちは違う国で育っていながら感性は似ていて、誕生日まで同じだった。それで運命なるものを感じてしまったのかも知れないな」
「似たもの同士……って訳か。うん……」
「ん、どうした和希」
「いや別に。それで連絡先の交換はしなかったのか。文通したりとかさ」
「今思うとそういう方法もあったんだろうけど、あのときの私はとにかく一緒にいたくて、隣にいられなきゃ意味がないと思って、だからダニエルにあんな思い切ったことをさせてしまったんだろう」
「なんだよ、思い切ったことって」
ここから先は優しくも苦い思い出だ。
手元のグラスに視線を落とした。幾つもの泡の中、糸が解けるようにして溶けていくバニラアイスを眺めながら口を開いた。
過去の扉をもう少し広く、開いた。
「大人たちの目を盗んで逃げ出したんだ、二人で。“僕が遠くに連れて行ってあげる”というのは、そのときダニエルがかけてくれた言葉だ」
もう彼の顔も覚えていないはずなのに、優しく、柔らかく、そして悲しげな表情をしていたことはなんとなく記憶している。
年上のダニエルは、子どもだけの力じゃ限界があることを本当は理解していたんだろうか。
「はぁ~……小二で駆け落ちとは恐れ入ったわ。ませた子どもだったんだな、あんたら」
「実際はそんな遠くまでは逃げられなくて、すぐに大人たちに見つかったんだがな」
「無事に連れ戻されて良かったよ。あんたらはつらかっただろうけど、なんかあったら大変だからな」
「……そうだな。大人たちには迷惑をかけてしまったと思う」
私が両親に叱られたように、きっとダニエルも責任を問われただろうと想像がつく。私の我儘のせいで。本音を言うならそちらへの罪悪感の方が強かった。
――なぁ、トマリ。
和希の呼びかけがいつになく遠慮がちに聞こえた。久しぶりに名前を呼ばれたような気もした。
不思議に思いつつ顔を上げると、彼女はこちらから視線を外したまま口を開く。
「私、地理とかあんま詳しくないんだけどさ、北欧っていうと確かスウェーデンとかノルウェーとか……」
「ああ、そうだな」
「……フィンランドとか?」
「そちらもそうだな」
「やっぱりか」
「?」
和希は北欧に興味があるのだろうか。旅行の計画でも立てているとか。
しばらくボーッとした様子の和希が心配だったけど、クリームソーダが半分ほど減った頃に相談の続きを聞こうと彼女から言ってくれた。
「忘れちゃいけねぇのが、現在の千秋さんの心境だ。一緒に働いていた頃とは明らかにあんたを見る目が変わってる。徐々に想いが強くなったんだと思ってたけど、これはもしかすると何か決定的な出来事があった可能性もあるぞ。心当たりないか?」
やけに確信を持ったような言い方だなと思ったものの、どの程度の出来事が決定的となるのか私には想像がつかない。
でもやがて思い出していく。
「正直、私自身は詳細を覚えていないのだが、千秋さんの様子がおかしかった日はあった」
「お、それはいつだよ」
薄暗くてもわかったのは、幾多もの光に照らされていたからだろう。
グレーの瞳から零れ落ちたあまりにも澄んだ雫たち。
「泣いていたんだ、千秋さんが。花火の上がっていた夜に」
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