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第2章/記憶を辿って(Tomari Katsuragi)
34.本当はあなたを呼んでいた(☆)
しおりを挟むあれから何週間かが過ぎ、私の心身は次第に緊張から解放されていった。元より安定しているとは言えないメンタルでも、よりマシな方向へ傾いたのではないだろうか。
実際に千秋さんと帰路を共にすることは何度かあった。
繁華街は季節のイベントにも敏感だ。駅前の七夕飾りや浴衣の人々、そんな色とりどりの光景に目を奪われる瞬間が増えた。
明らかに祭りの後だというのに寂しさは感じなかった。「綺麗だね~」「お祭りいいね~」などと、千秋さんがゆるい調子で話しかけてくるからだ。何故か面白く感じて笑ってしまうことさえあった。
そういえばもうしばらくあの男の姿を見てない。最初はあえて辺りを見回さないようにしていただけだが、最近は本当にいないようなのだ。
やはり警察が動いてくれたのか。それとも男性と一緒にいる効果か。あるいは両方か。
いずれにしても平穏へ向かっていくならそれでいいと思った。そして優しすぎる千秋さんを早く解放してあげたいとも思っていた。気が付けばもう七月半ば。こんなに長いこと、こっちの都合に合わせているのもやはり大変なんじゃないかと思って。
わずかに名残惜しいだなんて認める訳にはいかなかったんだ。
しかし強烈な不安は思わぬタイミングでぶり返す。
千秋さんが他の店舗の催事で忙しく、あまりこちらへ来られない日が続いた。それでもしばらくは問題なかった。
遅番になってもそれほど抵抗は感じず、帰ったらどんな絵を描こうかなんて考える余裕させ持ち始めていた。
再び、あの男の姿を見るまでは。
大丈夫。まだ大丈夫。
その日、私は何度も自分に言い聞かせていた。
実際まだ気付かれていない。ほら、今は他の女性に声をかけようとしているみたいだ。迷惑行為に変わりはないけど、私への興味などとっくになくなったということ。もしかしたら覚えてすらいないんじゃないか。
気にするだけ馬鹿を見る。まず私が何も覚えていないかのように通り過ぎれば良い。
一歩を踏み出した。それからまた一歩。
思いのほか足取りは軽く、嫌な動悸も伴わない。
ホッとした。少し強くなれたような気さえしたのだ。だけどそれは無情にもほんの束の間のことだった。
雑踏の中、男の細身な身体がぐるりとこちらを向いた。佇んだままゆっくり首を傾げ、口角を吊り上げる。その顔は確かにこちらを向いていて。
――――っ!
動悸が始まった。それは次第に加速し、心臓が壊れるのではと思うくらいに激しくなる。寒気に伴い汗も出る。
男はまだこちらに歩いてはこない。そう、いつだってこの人はただ面白がっているだけ。その事実がありありと伝わってくることが却って怖かった。
私は思わず駅の方面へ向かって駆け出していた。
ホームへと続くエスカレーター。その少し手前の壁にもたれて私は息を整えた。怪訝な表情で 一瞥していった人もいたけれど、平静を装う余裕などない。震えが止まらないし、苦しくて苦しくてたまらない。
大丈夫。大丈夫。
私はまたそれを自分の脳に刷り込むのだ。それで状況がマシになった経験など記憶にないのに。
それでもいくらか頭は冷えていく。呼吸もだいぶ落ち着いた。
とにかく明日はなんとしてても迂回ルートで帰ろう。キッチリ時間通りに閉店作業を済ませ、速攻で店を出れば間に合うはず。
商品整理や掃除を早めに始めるとか、レジ周りを出来るだけ片付けておくとか。そうだ、靴も楽なものに履き替えられるように準備しておこう。早歩きくらいは出来るように。
そうやって計画を立てることでなんとか自分を保っていた。ザワザワと押し寄せる不安を強引に 堰き止めて。
そして次の日。
出勤するなり大量の納品があって私は白目を剥きそうになった。
そうだ、最近レイアウトの変更指示書が届いてた。間もなくして新作が入荷するなんてのはうちの店ではよくあるパターン。すっかり忘れていた。
それぞれ役割分担して店内に新商品を展開していく。私は商品出しとストック整理がメインとなった。
新作は全体的に渋みのある秋色。半袖のカットソーやタンクトップなどのインナー類にもマスタード、ロイヤルブルー、バーガンディーなどの色が使われている。いきなりニットなどの厚手素材は着れなくても色から季節感を取り入れるコーディネートは毎年よくある。
こうして商品を眺めていると疲れていても何だか楽しくなってきてしまうのがアパレル販売員の性なのかも知れないな。
しかし問題は今日の帰りの時間。
逃れられない現実に意識が戻った私は憂鬱な気分になってきた。
この仕事量じゃ閉店作業にだってきっと時間がかかる。大学生とかだとすでに夏休みの人もいるんだろう。最近は館内の客数も多いし……ありがたいことではあるのだが。
ストックルームで一人、はぁ、と小さく息を零す。
自分の心配ばかりしている自分が嫌だ。目の前のことに集中したい。少しばかり苛立ったまま、トルソーに着せる商品を持ってストックルームを出ようとした。
トン、と何かにぶつかる。「わっ」と二人分、驚きの声が重なった。
「トマリさん、おはよう。久しぶりだね」
「千秋さん……」
私の顔がぶつかったのはちょうど彼の胸の部分だったようだ。痛かったのだろうか、軽く手でさすっている。私は慌てて詫びた。
気にしないでと言って千秋さんは笑う。この表情にも随分見慣れた。
今日はこの人がいる。一緒にいてくれる。
安堵のあまり表情が緩みそうになったけれど、皆に変に思われてはいけないと、顔を数回素早く振ってから仕事に戻った。
だけどこの日は思いがけないことが起こった。
千秋さんが担当している別の店舗の催事で万引きが発生したらしい。それも常習犯による犯行と見られるとのことで、うちのブランドだけではなく他店も被害に遭っているという大規模なものだった。
私たちスタッフに軽く事情を説明した後、千秋さんは館内の休憩室へ向かいそのまま戻ってこなかった。忙しく対応に追われているのだろうと想像がつく。
「あっちの店舗、災難だね。常習犯はいろんな店舗に出るかも知れないから、うちんとこもしばらくは気をつけなきゃ」
「そうですね、るみさん」
「……トマリン、帰ろう? 千秋マネージャーは多分まだ時間かかるよ。心配なのはわかるけど、るみたちに出来ることはもうないんだし」
「……はい。承知しました」
だから自分の心配ばかりするんじゃない。馬鹿。
お店が大変なときに。千秋さんが大変なときに。心細くなっている場合じゃないだろう。甘ったれるんじゃない。心底呆れる。
自分を罵倒するような言葉が頭の中で鳴り止まなくて、私はなんだかたまらず泣きたくなった。
るみさんとの帰り道は全てが別方向だ。一人で帰路を辿る私の足取りは重かった。
迂回ルートの電車はとっくに行ってしまった。ということは、またあの男に遭遇してしまうかも知れない訳だが、なんだろう……この感覚は。恐怖心とはまた違った類の心細さがあるような気がする。
不安定な感情が一層の隙を作ってしまったのだろうか。
乗り換え地点の繁華街。あの男は今度はすぐに私の姿を捉え、チラチラと辺りを気にしながらこちらへ歩み寄ってきた。
「おねーさんっ。久しぶり」
「…………」
「最近お巡りさんが厳しくてさぁ。なかなかお話できなかったけど、今日はタイミングが合って嬉しいなぁ」
「…………」
振り切る気力もない。私は歩くこともままならなくなって、やがてその場に立ち尽くした。
ぺたんこのスニーカーが視界に虚しく映る。
「ねぇ、最近ずっと男と一緒だよね。職場の人でしょ。同業者の雰囲気出てるもん。でも付き合ってる訳じゃない。違う? 俺そういうのわかっちゃうんだよねぇ」
男はまだ私に話しかけているらしい。
「イケメンっていうか美人顔だよね、あの人。ああいう中性的な人が好みなの? でもわかるわ~、おねーさん優しい人にすぐ惹かれちゃいそうだもん」
「…………」
「どうしたの~、元気ないじゃん。あの人来ないんでしょ。だったらちょっとくらい俺と喋ってもさぁ……」
男の尖った靴が一歩、こちらへ近付いた。無気力な私は後ずさりも出来ないまま。
――ごめん、待たせたね。
なのに、その柔らかな声色は確かにこの耳に届いたのだ。
振り向くとすぐに慣れた香りが鼻腔へと抜ける。その中でわずかに感じた人間らしい匂い。
小さな雫がぽつ、とこちらへ落ちた。
汗ばんだ彼の顔を捉えたその瞬間、大きな手で肩を力強く引き寄せられた。
私の身体を脇腹あたりに密着させた千秋さんは、自称スカウトマンの男の方を向いて言う。
「彼女に何か」
「あ……あ~、マジでそういう感じ?」
「正当な要件が無いならお引き取り下さい」
「はいはい、わかりましたよっと」
苦笑いした男がひらりと雑踏の中へ戻っていく。蝙蝠の羽ばたきみたいな動きだった。
そして一度だけ、こちらを振り向いて言い残した。
「そんなに大切ならさ、覚悟決めて守んなよ。もう独りで泣かせちゃ駄目だよ、美人なおにーさん」
言われてやっと気が付いた。自分が泣いていることに。
でもそれ以上に私は腹立たしい気持ちだった。何を偉そうに。泣かせたのはそっちだろう、千秋さんのせいな訳がないだろうって。
それなのに千秋さんはどういう訳か、寂しそうな声で「そうだね」なんて呟いたんだ。
私は思わず彼を突き放してしまった。
「ごめん! 手を離すの忘れてた! 本当にごめんね、僕こうするくらいしか思いつかなくて……」
「千秋さんって……」
「え?」
「千秋さんって、なんなんですか!!」
私は。
私は、酷いことを言った。
酷い態度をとった。恩人に対して。
涙がとめどなく溢れて、溢れて、前もろくに見えやしない。
「千秋さんは変ですよ! 自分から都合のいい人になろうとして! 恩返しも出来ない人間を汗だくで追いかけてくるとか! 人は皆、何かしらの見返りを必要とするものでしょう!? なのに千秋さんはいつもいつも与えっぱなし。私、今夜は連絡してませんよね!? メッセージも電話も!」
何もしてないはずです、絶対に。そんなことを呟きながら私はポケットに入れていたスマホを取り出した。
スリープ画面を解除してすぐ出たのは、メッセージアプリのトーク画面。ほら、やっぱり連絡なんてした覚えはない。
覚えはないのに、トークの名前はしっかり『千秋さん』になっていた。
嘘だろう。私はいつこの画面を開いたのだ。
無意識に助けを求めようとしていたというのか、この人に。
「トマリさ……」
「もう……嫌だぁ……ッ!!」
「ごめ……」
「すぐ謝らないで下さい! 怖かった! もう……やだ、やだぁ……!」
私はおおむねこんなことを言っていた。
見苦しいわ聞き苦しいわ、可愛げがないったらありゃしない、と自分でも思う。
醜態を晒してすぐに目の前の相手の顔など見れない。でもそのままという訳にいかなくなった。
濡れた頬を滑る温かな感触。すらりと繊細なのに意外とゴツゴツしているあの指だとわかる頃、彼の淡く優しい瞳もすぐ間近にあった。
胸が締め付けられるくらい儚げな微笑みがあった。
“トマリ”
声はなく、唇だけそう動いたように見えた。
周囲の音も消えていくようだった。
しばらくして、彼の声だけが戻ってくる。
「見返りなら求めてたよ。君に笑ってほしかった」
「私に……」
「あの日、休憩室の片隅で縮こまって座っていた君を見たときから僕の我儘は始まってた。頑なに心を閉ざしているのは一目でわかったはずなのに、僕は手を差し伸べてしまった。君の心を開こうとした。人の何かを変えようとするのってこの上なく我儘なことなんだよ」
――トマリ。もう大丈夫だよ――
――僕が遠くに連れて行ってあげる――
そして何故かこのタイミングで、遠い昔に聞いた言葉が脳内に流れた。
しかしこれを言ったのは目の前の彼ではないはずなんだ。
現実味が湧かない宙ぶらりんの時間は、一体どれくらい続いたんだろう。
ぐぅ、と唐突に鳴ったお腹が、やりすぎなくらいの現実味を示してくれたが。
千秋さんがうつむいて肩を震わせた。
恥ずかしい……けど、不自然にスルーされるよりマシだったのかも知れない。
「何かおごるよ」
「それは申し訳ないです」
「僕も安心したらお腹すいちゃったから。トマリさんは今何が食べたい?」
「……ミルフィーユ」
「あ~! いいね! 何処に置いてるかなぁ。ちょっと調べるね」
当たり前みたいに並んで歩いて、いつの間にかタメ語で話していた。
この人とは、上司と部下で良かったんだろうか。別の形で出会っていたら今頃どうしていたんだろうか。
結局は、なんとも形容し難い今のような関係になっていたんだろうか。
考えるのは途中でやめた。凄く久しぶりに“いい加減な自分”を許してやったように思う。
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