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第2章/記憶を辿って(Tomari Katsuragi)
30.お互いが居場所であるために(☆)
しおりを挟むインターホンのチャイムが鳴ったのは大体一時間後だった。室内を満たす日の光は赤みを帯び始めていた。
モニター越しに彼の姿を確認してからドアへ向かう。歩きながら何度も手櫛で髪を整えた。
ドアを開けると両手に大きな袋を一つずつ下げた彼が立っていた。ガサ、と重量感のある音が鳴ると同時にこちらへ柔らかく微笑む。
急いで来てくれたのだろう。頬は紅潮し、息も少し上がっているようだ。
「すぐに来れなくてごめん。まさかトマリが熱出した日と出張の日が被るなんて」
「気にしないでくれ。私ならもう案外大丈夫だから」
「本当に?」
「ああ、背筋もちゃんと伸びているだろう」
「背筋……ねぇ。とりあえず上がるよ。役に立ちそうなものいろいろ買ってきたから」
「何から何まで本当にすまない。肇くんだって忙しいというのに……」
いいんだよ、俺は。そんな消え入りそうに小さな返事し、肇くんは後ろ手でドアを閉めた。
陰った空間に二人きりになったその瞬間、少しだけ気まずい沈黙があった気がした。
「部屋が散らかっていてすまない。肇くん、何処か空いている場所に座っててくれ。今飲み物を用意する」
「いや、トマリ……」
「麦茶しかないのだがそれで良いだろうか」
「待ってよトマリ。お見舞いに来たのはこっちなんだよ。飲み物の用意くらい俺にやらせてよ」
彼の語気が強くなったように感じて振り返った。
座ることも出来ず困った様子で佇んでいる肇くんを見たとき、変に身体が硬直し、なんとも居心地の悪い気分になった。
「そう、か。ではお願いする」
「うん、そうして」
「私は問題なく動けるから何か手伝うことがあったら言っ……」
「問題ない訳ないでしょ」
普段は優しい肇くんの目が氷のように冷たくなった。
いつの間にか体温計を手にしている。私の胸の奥がドクリと嫌な音を立てた。
「37.8℃」
「…………っ!」
「って、出てるけど。これ何? こんな熱でつらくないはずがないよね」
「それは……」
ドク、ドク、ドク、と痛いほどの鼓動が続く。
何故そこに熱が表示されているんだ。測ったのは一時間以上前だったはず。
何も言い返せずにいるうちに、肇くんの目つきがくしゃっと一瞬で変化した。
悲しみと怒りの中間のような顔。
「前回の体温を記憶しておけるタイプでしょ、コレ。ちょっといじったらすぐに出たよ。知らなかった? バレないと思ってた?」
「隠していた訳じゃないんだ」
「でも俺が気付かなければ言わないつもりだった。元気になったフリで押し通すつもりだった。そうでしょ。それは屁理屈だって自分でもわかってるよね」
「…………」
「トマリさ、嘘が下手なんだから。やめなよそういうの」
「す……すまない」
目の前の彼から苛立ちはしっかり伝わるのに、早口の淡々とした声ばかりがひたすら続いているのが怖かった。
私は思わずうつむく。
彼はまだ容赦などしてくれない。
「なんで普段着なの。俺を出迎える為? それならパジャマの上に何か羽織れば充分だったんじゃない? 何時に着くか伝えてあったんだし」
「うん……」
「すぐに楽な格好に着替えて。その素材は熱がこもりそうだ。汗かいたら着替えるとかちゃんとしてる? してないよね。ベッドの周りに保冷剤の一つも見当たらない。タオルすらない。これで平気だなんてよく言えたもんだね」
私はぎゅっと唇を噛み締めた。
実際は、着替えくらいしてる。保冷剤は今たまたま冷やしてただけ。タオルは昨日使ってしまってまだ洗濯機も回せてないから。私なりに気を付けたつもりなんだ。
でも肇くんは一度こうなるとなかなか止まらないともうわかっていた。
じわりと再び目頭が熱を持つ。そんな自分がたまらなく惨めに思えてつい彼に背を向けてしまった。
「トマリ、何処行くの」
「寝る」
「だから先に着替えてからって……」
「そんな気力はない。つらくないはずがないって、さっき肇くんが言った!」
「責任転嫁するなよ」
「してない!」
「してるだろ。拗ねてどうすんだよ。君も子どもじゃないんだからさ」
「わかっている! 私だって……私だって! 好きで子どもじみている訳ではない!」
ベッドに乗っかるなり素早く布団を頭から被った。
蒸した暗闇の中、自分がどんな状態でそこにいるのか把握すらしていなかった。起き上がっているのか寝転がっているのか、どんな感情なのかさえ、何も。ただ見られたくなかったとしか言いようがない。
――トマリ。
やがて。
背中にあたる部分をそっと撫でられた気がした。いつもより遠い感触ゆえに確信を持つまで時間を要したけれど。
「ごめんね。病人相手に言い過ぎた。そこは俺が悪かった」
しおらしい声だ。手つきも気配も優しくて、意地を張ってる自分が馬鹿みたいに思えてくる。
微笑んでいるのだろうか。今その顔を寄せているだろう。見なくたって伝わってしまう。
布団の端を握り締める私の手、ちょうどその部分へ彼の大きな手が重なった。
はらり、と暗闇はあっけなく解かれて、夕焼けの熱っぽい色に染まった天井と彼の切なげな表情が私の視界を占める。
直視できなくて顔を横に向けた。だけどその視線の先には彼が持ってきてくれた二つの大きな袋があって、2リットルサイズのペットボトルが透けて見えたとき、凄まじい罪悪感が込み上げ涙がボロボロと零れた。
善意で駆けつけてくれた人に対して私は……
私は、なんと脆弱で我儘で愚かなのだろう。
「泣かないで。そんな顔してほしくて来た訳じゃないんだから」
「肇くん、私は……私は……っ」
「いいよ、トマリの気持ちならわかってるから。ほら、腕どけて。ちゃんと顔を見せて」
「いや……っ」
咄嗟に抵抗したつもりだったけど、実際はせいぜい蚊の鳴くような声しか出てなかったのだろう。
顔の横までどかされた両腕を枕に押し付けられてすぐ、彼の顔がこちらへ迫りコツンと額が触れ合った。
彼の息の速さがわかる。ごくり、と喉を鳴らす音さえも。
「熱い」
苦しそうな呟きも。
「熱いじゃないか、やっぱり。独りで心細かっただろ。もっと早くこうしてあげたかった」
力強く抱きすくめられたら鼓動さえもわかってしまう。流れ込んでくる彼の感情に溺れてしまいそうだ。
「肇くん、風邪がうつってしまうよ」
「大丈夫、これ以上は何もしないよ。病人に無理はさせられない」
「肇くんの心配をしているのだよ」
「わかってる。ただ少しだけ、もう少しだけこうしていたいんだ」
ぼんやりと窓の方を眺めた。
空が茜色から藍色に移り変わっていくみたいに、私たちの立場もゆっくり変化していくのを感じた。互いに無言のまま。
受け止められていたはずの私はいつの間にか彼を受け止めていて。
そっと広い背中を撫でる。シャツの上からでもわかる汗ばんだその感触を健気で愛おしく思った。
――ねぇ、トマリ。
パジャマに着替え終わったばかりの私を彼が今度は後ろから包み込む。耳元で囁く。
「トマリが頑張ってるのは知ってるよ。俺はちゃんとわかってるよ。だけど世の中に期待し過ぎないで。君が傷付くばかりだから」
「ん……」
「どうせみんな君の表面しか見てないんだから、悔しいけど」
「そうかも知れないな」
返事を返してみると我ながら情けなくなるほどの見事な鼻声。涙腺が壊れたみたいに涙が垂れ流しなことも彼はとっくに気付いていたんだろう。
一体どう感知したのか、新たに頬を伝ったばかりの一雫を彼の指がそっと掬い取った。
「でも俺ならわかる。これから先も。君が涙を流す瞬間だって見逃さない覚悟で一緒にいるんだ。今は仕事が忙しくて説得力に欠けるかも知れない。だけどトマリが無理して自分をすり減らさなくても生きていけるように、俺は頑張るから、支えてみせるから」
「肇くん……」
「どんな君でも愛するから……ね」
熱い吐息が頬をかすめる。
たまらなく心配だ、彼のことが。あまりにも私中心の人生になっていることが。私自身に支配欲などないだろうに、自ら沼に足を踏み入れ逃げようともしない彼が。
そして何より“駄目な私”をどうしようもなく愛してしまっている彼が。
それなのにこの腕を振り解くことが出来ないのは他でもない私の弱さだ。
お互いの欠けている部分に自分の居場所を求める。欠けたままでいて、追い出さないでと願うような。
世間の皆が愛と呼ぶのも、こんなものなのだろうか。
しばらくの間、眠った。
感覚が鈍っているこの状態では夜の匂いさえ感じ取れない。ただ時計を見て把握するだけだ。
それでも人の気配くらいはわかる。彼がまだそこにいることも。
うっすら目を開けた私に身体を寄せ、そっと手を取ったことも。額に触れたことも。
「肇くん、時間は……大丈夫なのか」
「明日は有給とってあるから」
「でも出張先から戻ったばかりで疲れているんじゃ……」
「さっきも思ったけど、この色綺麗だね」
私の声が聞こえなかったのか、それともはぐらかしたかったのか、彼は私の手を見つめて言った。普段ならあまり気に留めることもないネイルの話をしているらしい。
「ああ、熱が出る前に新しく塗っていたものだ。私も気に入っている」
「似合ってるよ。でもトマリにしては珍しい色なんじゃない?」
「そうだろうか」
空いているもう片方の手を改めて見つめた。
クールな印象を与えると言われるメタリックネイルだが、青みがかったこの色は角度によってうっすらとピンクがちらつくことがある。
どうもスムーズに回らない思考の中でも、そういえばと思い出せることがあったようだ。私は無意識に口にしていた。
「千秋さんが教えてくれた」
会話が再び動き出すまでに少し間があったと思う。
「チアキさん?」
「このネイルは発色が良いと言っていた。それで私も探してみたのだ」
「えっと……トマリの職場の人?」
あっ、と。ここでようやく我に返ったのだ。
うっかりしていた。職場の人の名前を勝手に出すなんて今までしたことないのに。人名も社内情報の一部と考えるほど私は慎重派だったからだ。
それにうちの会社の人と面識のない肇くんだってリアクションに困るだろう。
「仲いいんだ。ネイルを教えてくれるほど」
「ああ、上司ではあるのだが、とても気さくで話しやすい人だから」
しかし相手が肇くんでまだ良かった。知られて困ることもおそらくない。とりあえず当たり障りのなさそうな部分だけ伝えておこうと思った。
「へぇ……」
肇くんは軽く相槌を打った程度。それほど興味のある話じゃなかったのだろうと一度は思ったのだが。
コチ、コチ、コチと、秒針の音がしばらく続く中、私が微睡みに身を沈めようとしていたときだ。
「待ってどんな人?」
肇くんが大きくこちらへ身を乗り出して訊く。何故か私の手をぎゅっと握り直した。
正直、私はまだ少し寝ぼけたままだった。
「どんな人って……」
「さっき言ってた上司」
「……千秋さんのことか?」
「そう」
やけに食いついてくるなと不思議に思った。
でもそうだな、ここはやはり当たり障りなく。
「お洒落な人だ。あの人は特にオーラがあり、センスも良い。ネイルだけでなくメイクやヘアアレンジにも詳しい。一緒にいて勉強になる」
「そう、なんだ」
「いつも良い香りがする。そのうえ親切だから憧れているスタッフも多いだろう」
「そっ……か! 尊敬できる人が近くにいるのは良いことだね」
「そうだろう。私も一緒に仕事できてありがたく思っている」
肇くんは長いため息をつき、キラキラした目で天井を仰いだ。久しぶりに見たあどけない表情。
「俺もいるんだよなぁ、尊敬してる先輩。早くあの人くらいのレベルになりたいよ」
「わかる。今はまだ遠くても、いつかはと思わずにはいられない」
「だよなぁ。本当に同じ人間かよと思うくらい要領のいい人っているけどさぁ」
ベッドの 縁に頬杖をついて、彼は三日月型に目を細める。優しい手つきで私の髪を撫でた。
「トマリは偉いよ。向上心もちゃんとある。もっとトマリの頑張りが認められればいいのに」
「私は未熟者だよ。この歳になってもまだ。体調の管理だって苦手なのだ」
「悩むのはトマリがそれだけ真剣だからでしょ」
悩むと言っても何通りかがあると思うのだよ、肇くん。私のは、ひたすら同じ場所をぐるぐる回っているだけのもの。
そんなふうに自嘲する考えは浮かんだものの、彼を困らせたくないからやはりここは黙っておく。
「俺はわかってるよ。わかってはいるんだ」
祈りのように顔を伏せ、彼は細く呟いていた。
なんだろう、葛藤……のようなものが伝わってくる。肇くんも仕事で沢山の苦労をしているのだろうな。
再び微睡みに誘われる最中、あの人の方にも思いを馳せる。
千秋カケルさん。
優雅に見えるあなたも苦い経験を何度となく繰り返してきたのですか。
例えあなたのようにはなれなくても、せめてあなたの思いやりに応えられればいいのに。
本当はあなたのように歳を重ねたかった。周囲から信頼されるくらいの実力を持っていたい。
今からでも間に合いますか。
私は大人になれますか。
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