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第2章/記憶を辿って(Tomari Katsuragi)
23.再会を上回る緊張感
しおりを挟む今でもよく覚えている。
あの人がエリアマネージャーとして再び私の前に現れたのは、休憩室で出会った日からわずか二日後。開店前の朝礼のときだった。
華やかな仕事と呼ばれるアパレル業界に入れば、個人差はあれどほとんどの者が垢抜けていく。周りのスタッフだって、そしておそらく私だって例外ではない。
そうやってかつては非日常であった華やかさもいつしか日常の一部となっていく。どんなに美しい物も、お洒落な人たちも、ずっとそこにいれば当たり前になるのだ。
皆だってすでに慣れているはずだろう。そうだろう?
と、何故か声に出す気のない問いかけを胸の内で呟きながら首を最小限に動かして辺りを見渡した。
ところがどうだろうか。
慣れているはずの皆は、店長の隣でにこやかに挨拶をする彼をいつもと違う色の目で見ている。
ある者は何か言いたげに半開きの唇を震わせて、またある者は時折隣のスタッフとチラチラと視線で会話をしている。落ち着きなく手をこすり合わせている者。新人の子は耐えきれずに紅潮した顔を伏せていた。
まさかとは思ったが皆もこうなるのか。ひと足先に出会っていた私は納得へと至ると同時に、動揺していたのが自分だけではなかったことにこっそり安堵していた。
改めてじっと彼を見つめた。
不思議な人だ。確かに目を引く容姿をしているが、それ以上にオーラで人を圧倒しているように見える。
しかし私はいくらか慣れたようだな。目が合っても微笑まれても脈の速さは至って平常。二度目で適応できるとは我ながらやるじゃないか。
こんなふうに密かに自分を褒めてやっていた。
「さて、自己紹介も終わったところでもう一つ大事な連絡があるわ。みんなしっかり聞いてちょうだい」
相原店長が手をポンと軽く叩いて仕切り直しの合図をする。
色めき立っていた一同がシャン、と姿勢を正した。
そう、この日私に衝撃を与えたのはむしろここから先の話なのだ。
「うちの店舗のリニューアルが決まりました。改装工事は来月から三週間ほどかかる予定。ゴールデンウィークに入る少し前に開店になります。言うまでもないけれど繁忙期と重なるわ。各自、体調管理はしっかりしておいてね」
数秒の間はそこかしこから驚きの声が上がっていたけれど、店長が念を押すように「宜しくね」と言うと、皆が声を揃えて『はい!!』と気合いのこもった返事をした。
「は、はい!」
一足遅れたのは私だけだ。
魅力的なエリアマネージャーにリニューアルオープンの話。皆の興奮のおかげで悪目立ちせずに済んだが、私は動揺を隠しきれてなかったと思う。
じわり、とまず先に苦い感情から蘇った。情景は後からついてくる。
誰もが忙しなく動き回る中で一人動けなくなった当時の私。辺りが薄暗くなっていくようだった。
迷惑そうに眉をひそめた先輩スタッフたちの冷たい顔は、やがて蛇腹(じゃばら)折りの紙を広げたみたいにずらりと私を取り囲む。
――こんなときにつらいアピールとかやめてよね――
――状況を考えてよ。みんなそれどころじゃないの――
――大変なのはみんな同じ。みんな我慢してる――
――あなただけ特別って訳にいかないでしょ、わかる?――
まるで今起こっているかのように、リアルに聞こえてくる声もまた冷たく……
……さん。
「桂木さん、大丈夫?」
相原店長の呼びかけで薄暗い記憶がふっと消えた。
我に返った私は何か言おうとしたものの、喉が震えるばかりでここでも出遅れていた。
そうしている間に相原店長が心配そうな顔をしてこちらを覗き込む。
「どうしたの。なんだか顔が青白いけれど」
「あっ……その、申し訳ございません。大丈夫です」
「本当に? 体調が悪いなら正直に言って。無理をしては駄目よ」
「いえ、本当に大丈夫です」
相原店長の目を見てはいるけれど、皆の視線がこちらに集まっているのがわかって怖い。
リニューアルの前からすでに体調管理がなっていないなどと思われてしまったらそれこそいたたまれないからだ。
「……そう、わかったわ」
しばらく私の元で留まっていた相原店長の視線がすっと離れた。
ため息をつくタイミングもないまま、開店十五分前を知らせる音楽が館内に流れる。
「詳細が決まったらまたミーティングのときに知らせるわ。それじゃあ今日も一日宜しくお願いします」
『宜しくお願いします!!』
朝礼はいつの間にか終了して、皆がそれぞれ開店の準備に戻っていく。
いくらか平静を取り戻す頃にはもう私の仕事はない。レジ開けも店頭のネット外しも、すでに他のスタッフが終わらせた。
やることなんて見つけようと思えばいくらでもある。そうわかってはいるのだけど、考えるのに時間がかかってしまう私は、どうも皆の邪魔になっているような気がして焦ってしまう。
「桂木さん、手が空いてるなら商品出しして! そこに荷物届いてるでしょ」
「あっ、はい」
「もう、ちゃんと周りを見てよね。新人じゃないんだから」
「失礼致しました」
鋭い目で私を一瞥して去っていったのは先輩の山崎さん。キビキビした人だから、私の鈍臭さにイラついてることが多いように見える。
和希はそんな彼女の棘のある言い方が気に入らなくて、あの休憩室で怒ってしまったようだが、私は言い返せるだけの勇気も説得力も持ち合わせていない。なるべく機嫌を損ねないよう気を付けるのが精一杯だ。
慌ただしくもなんとか迎えた開店時間。
売り場担当のスタッフたちが店頭に横並びになって、目の前を通るお客様一人一人に「いらっしゃいませ」という歓迎の言葉と共に一礼する。
平日朝九時からの来店者は決して多いとは言えない。特にショッピングモールの場合、家事や育児の合間にやってきたのであろう主婦っぽいお客様がちらほらと見られるのがこの時間帯。
しかしこれがセール期間や大型連休、年始の初売りとなるとまた状況が違ってくる。客数だけでなく客層もグッと幅広くなる。
例えリニューアルの件がなくたって、一年を通して変動の激しい仕事なのだ。
それからしばらくは店頭で接客や商品整理をしていた私だったが、追加の荷物が届いたことで商品をストックルームにしまう作業に回ることとなった。
黙々と商品を棚につめていくこの作業は苦手なスタッフもいるけれど、私は案外嫌いじゃない。
しかしこのときは予想外の話を受けたばかりだった為、手を動かしながらも脳内はシンキングタイムへと突入していた。
リニューアルオープンの日までに大量の商品の入荷があるだろう。うちの店舗限定の商品やノベルティの用意をしている可能性もある。この商品とこの商品を合わせて買うと何%OFFなどというセット販売も企画されているかも。
……ということはだ。
私はストックルームの棚いっぱいに詰まっている商品たちをぐるりと眺める。
確信を持って一人頷いた。
やはり今ここにある商品を一点でも多く販売していかねば新しい商品も入るまい。改装前の閉店セールは間違いなくあるだろうな。
そうなると必須となるのが値段の付け替え、売り場のレイアウト変更など。もうそろそろ指示が出そうだな。
いや待て、今月末に棚卸しもあるじゃないか!
危ない、忘れるところだった。あれは大変だ。店内の在庫全てを一つ一つカウントしていく気の遠くなるような作業。うちのスタッフは現在、店長を含めて十人。もし千秋さんが手伝ってくれたとしても十一人か。ここには短時間で働いているアルバイトの大学生やパートの主婦もいるのだぞ。彼女たちに無理はさせられない。面積の大きめな店舗だというのに一体どうするつもりなのか……!?
トントン、と扉をノックする音がして私は顔を上げた。
少し待っても入ってくる気配がないから「はい」と返事をしてみる。
ワンテンポ遅れてドアが開いた。現れたのは千秋さんだ。
「失礼します。あっ、トマリさんがストックやってたんだ」
「はい」
「どうしたの? そんな険しい顔して」
「いえ、大丈夫です」
「やっぱり体調が悪いんじゃ……」
「いえ、至って健康です」
「そう……ならいいんだけど」
遠慮がちな動きでドアを閉めた千秋さんは、あの印象的なタレ目を細めながら私に言う。
「さっき相原店長が休憩に出たんだけど、トマリさんはその次に出てもらっていい? あと三十分後くらい」
「はい、大丈夫ですが」
「ありがとう。いつもの休憩より早いと思うんだけどごめんね」
大丈夫ですが……
わざわざドアを閉めて言うことだろうか。
少しばかり疑問に思っていたとき、千秋さんが更に続けて言った。
「僕も数十分ほど時間ずらして休憩室行くから、そのときでもいいかな? この間の返事」
「えっと……」
「この間の……」
「はい……」
「あっ、ごめん! もう覚えてないかな。それならそれでいいんだ。気にしないで」
勝手に顔を赤くしているけれど、そうじゃない。覚えていない訳じゃないのだ。私から頼んだのだから。
ドアを閉めた理由もわかった。正式にエリアマネージャーとして配属になる前に、実はスタッフと顔を合わせていたなどと知られては困るからだろう。
ただ、その憂いを帯びた表情で言われると何故か複雑な気分になってくる。思うように言葉が出てこなくなるのだ。
私は先にかぶりを振った。しっかりと彼を見上げながら。
どれくらいか経った頃に、ぎこちない言葉を返すことができた。
「覚えています。千秋さん、覚えていて下さってありがとうございます」
「…………っ」
「千秋さん?」
「あ……ううん、じゃあ後でね」
相談の返事を受け取る気があることをはっきり示したはずなのに彼の顔から赤みが引かないままだったから、私は何か変なことを言っただろうかと、彼が立ち去った後もしばらく考えていた。
だけどボーッとしている場合でもない。言われた通り三十分後に休憩に出られるよう、ペースを上げて商品を片付けた。
「では、休憩頂きます」
バッグを持って私は売り場のスタッフたちを声をかける。「行ってらっしゃい」と何人かが返してくれた。
「あっ、ごめんトマリさん! ちょっとお願いしていい?」
千秋さんの声に呼び止められて私は振り返った。
彼は書類を数枚手に持ってこちらへ歩み寄ってくる。
「これ、売り場のレイアウトに関する書類なんだけどさっき相原店長に渡し忘れちゃって。まだ休憩室にいると思うから代わりに渡しておいてもらっても……いいかな?」
「かしこまりました」
「助かるよ。ありがとう、トマリさん」
「いえ、千秋さん」
書類を受け取って踵を返してすぐのことだった。
私たち二人に思いがけない疑問を投げかけられたのは。
「もしかして千秋マネージャーと桂木さんって知り合いですか?」
再び振り返ったときには、目を丸くしてあちらとこちらを交互に見ている一人のスタッフの姿があった。
他の皆の視線もサッと集まってくる。それから口々に声が聞こえた。
「そういえば千秋マネージャー、さっきから桂木さんのことトマリさんって呼んでる! 私たちまだ苗字しか名乗ってないのに」
「桂木さんも千秋マネージャーじゃなくて千秋さんって呼んでるよね」
どうなんですかと言わんばかりに皆から見つめられると、私も何故か千秋さんの方を見上げてしまった。
そしてその彼はというと。
「あ~~~~……え~~~~っと~~~~」
頭を抱えそうになった。何故それで間が持つと思ったのか。
大丈夫だ。いや、大丈夫かはわかないけど今何か言い訳を考える。
決心すると同時に私は皆の前に立った。様々な色をした視線が正面から突き刺さる。
なんとも奇妙だ。不測の事態にめっぽう弱いはずの私が何故かこのときは冷静でいられたのだから。
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