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第1章/居場所を探して(Tomari Katsuragi)
17.危険なストールと淡い夢(☆)
しおりを挟む同日、自宅アパートに着いたのは十七時過ぎ。
千秋さんにメッセージアプリの連絡先を再度追加する方法を教えてもらった後、特にそれ以上の寄り道はせずに帰ったから思ったほど遅くもならなかった。
だけど何故だろう、とても疲れた。
昼頃から夕方までの外出、そんなに長時間ではないように思うのだが……と考えていた途中で昼食をとっていないことを思い出した。本当にすぐ忘れてしまうな、私は。
本来ならお腹が空いていてもおかしくないのだろうが何か食べようという気にもならない。眠いからだろうか。
手洗いとうがいはなんとか済ませたものの、気力が湧かないままフラフラとリビングに戻った。
少しだけ。そんな思いでクッションを枕にして横たわる。
着替えも食事もお風呂も、一気に終わらせてしまえば後が楽なのに、わかっているのに、今はどうしても動けない。私は以前からこんなことが何度もあった。
次第に微睡み、現実感は薄れていく。
肌寒く感じて、近くにある柔らかな何かを引き寄せた。
例によって私は、夢の中でそれが夢であることをなんとなく感じ取っていた。
特にこのときの夢は淡くぼやけていて、まるで透明水彩で描いた絵画の中にいるようだった。
私の頭上に広がるのは、トンネルのような形をした薄紫と薄ピンクの花。
ぼんやり見つめているうちに解像度が上がり、それが藤の花と桜の花であることを確信した。
この二つは一般的に同じ時期には咲かないだろう。私はそう記憶していたものだから、やはり夢なのだろうなと思えたし、その場にいながら何処か客観的な目線を保っていられたのだ。
だけどやがて、景色以上にリアルな気配を隣に感じた。
私は知っている。この香り、この匂い。
見なくてもわかる。その人がどんな顔で私を見つめているか。
かなりの身長差があるはずなのに、指と指がコツンとぶつかるなんて不思議な現象がこの世界では起こる。
ためらいながらも繋いだ手は温かく、私の内側から熱いものが込み上げる。
もう帰らなくては。
でも振り払いたくない。
だから覚めて。誰か、強制的にでも私を起こして。
――――っ。
ピクッ、と強く身体が震えたのがわかった。それと同時に目を覚ました。
幻想世界と入れ替わるように視界に広がったのは見慣れた天井。
どれくらい眠っていたのだろう。重く感じる頭を押さえながら半身を起こすと、私の肩からはらりと何かが膝まで落ちる。
帰りに羽織ってきたあの人のストールだとわかると、胸の奥が疼いてなんだかいたたまれない気持ちになった。
駄目だ、これは近くにあってはいけない。
私はストールをハンガーにかけるとひとまずそれを寝室に隔離した。クローゼットの中ではない。あまり使っていない小型のハンガーラックが窓際にあるからそこに吊るしておいた。
ひと仕事を終えたときのように、ふう、と一度大きく息を吐く。
よし、これで少しは落ち着ける。とりあえずコーヒーを淹れよう。
電気ケトルに水を注ぎ、台にセットして沸かしている間に入浴剤を探しにいく。
洗面台の下の引き出しの何処かにあったはずだと、ごちゃごちゃに混ざり合っているストック分の歯ブラシやヘアキャップ、洗濯ネットなどを漁っていく。毎度思うがもうちょっと分類しておけば探しやすいのに。
やがて奥から出てきた入浴剤セットの箱。中身を開けてみて首を傾げた。
カモミール……あと一個あったと思ったんだけどな。もうラベンダーしかない。でもせっかくだしこれを使おう。
タイミングの良いことに浴槽は今朝洗っておいた。すぐにお湯を溜められる。
給湯器の湯張りのスイッチを押すとお湯が浴槽に流れ込んでくる。その音を聞きながら手元の入浴剤に視線を落とした。
紫……
綺麗な色だったなぁ。
「…………っ!」
私はすぐさま首をブンブンと素早く横に振った。それはそれ、これはこれだと自分に言い聞かせる。
さっきから気が散って仕方がない。早く気分を切り替えたいところだ。
そうだ、そろそろ電気ケトルのお湯も沸く頃だろうと思い出した。
マグカップにドリップコーヒーをスタンバイする。
スマホを手に取った。
和希にも今日あったことを報告しなければな。彼女には大変お世話になったのだから。そう思って出来るだけ簡潔に、でも感謝の思いを込めてメッセージを送信した。
淹れたてのコーヒーの香りを深く吸い込む。ゆっくり零れた息は熱い。やはりこの飲み物にはアロマのような効果を感じる。
仮眠の後のほんの数分間でやけに忙しなく動いていたような気がする。だけどまぁいい。この後はゆっくり過ごすだけだ。
さすがに夕食は何か食べておいた方が良さそうだ。しかし今から料理をするのは正直おっくう。カップ麺でも私は構わないのだが、それではいつまで経っても家事が上達しない。やれ、どうしたものか……
そんなことを考えているうちにスマホの着信に気付いた。
「もしもし」
『おお、トマリ! 内定決まったんだってな! やったじゃねぇか!』
「ありがとう。和希が面接の練習に協力してくれたおかげだ。感謝している」
『いいってことよ! 私はただ話を聞いただけだぜ。あんたの実力で勝ち取ったんだからもっと自信持てよな!』
「うん」
『うん……?』
「…………」
このタイミングでしばしの沈黙が居座ったのは何故だろうか。
ただ和希が何かに気付いた気配は私にも伝わってきた。
『なんだよ、内定決まったってのに随分テンション低いじゃねぇか。っていうかなんで今日はメッセージで報告してきたんだ? いつも大事な話があるときは電話したいって言うだろ、あんた』
うっ、と言葉に詰まった。やはり和希は勘が鋭い。もしくは私がわかりやすいのか。
『また本題を隠し持ってんのか?』
「いや、和希には本当に感謝しているのだ! 私にとっての本題は本当にこっちなのだ!」
『はは、わかってるよ。別に嫌味で言ってる訳じゃねぇから。ただあんたはすぐ一人で抱え込んじまうだろ? 気になることがあるならややこしいことになる前に話しとけって言ってんの』
和希の言い方はぶっきらぼうだけど何故かあまり圧を感じない。善意の表れはこうやって伝わるのだろうかと今までだって何度も思わされてきた。
「和希、いつもありがとう。大したことではないのだが……」
『おお、只事じゃないことがあったんだな』
確かに相談は解決の第一歩。
私はぐっと喉に力を込める。
「千秋さんのストールがここにあるのだが」
『なんて?』
「千秋さんの、ストールが、ここにあるのだが」
シンプルに今の状況を伝えたつもりだった。
しかし再びの沈黙。それもさっきよりずっと長い。
『えっと、そのストールってのは……』
「先程うっかり一緒に寝てしまって、危険だと思ったから今は別室に隔離している」
『は!?』
「だけど正直、今でも落ち着かない。私はこの後どう過ごせば良いのだろうか」
『待て待て待て、どういう状況だよ!?』
余裕のある普段の口調とはうってかわって、早口の上ずった声。和希が何か動揺していることは私もわかった。
しかしそこまで深刻な状況だろうかと戸惑う。困っていたのは事実だが。
『確かに私、あんたと千秋さんはお似合いだと思ったし実際にそう言ったけど、それはあんたが年齢的にも結婚とか真剣に考え始めるタイミングだと思ったからもっと視野を広げた方がいいんじゃないかって意味で、なんというか……アレだ、さすがにもうちょっと段階踏もうぜ!? 急展開過ぎるだろ! 北島とのことはどうするんだよ!?』
「あの、和希……」
『いや、でも私の言い方が悪かったのか!? 私にも責任あるよなコレ! っていうか待て千秋さんって危険な奴なの!? あんたは大丈夫なのかよ!?』
「す、すまない、和希。あまり理解できていないことを許してほしい。それはストールを返せば済むことだと思っていたのだがそうじゃないのだろうか? 肇くんとのこととは? 家事の練習なら特に大きな問題もなく続けているが」
『え、千秋さんそこにいるんじゃねぇの?』
「いる訳がないじゃないか」
『じゃあなんだよ!』
今、おそらく私たちは共に息が上がっている。喧嘩という訳でもないのにそれくらいのエネルギーを使った気分だ。
『よし、わかった。一旦落ち着こう。そんで何がどうして現在に至るのかゆっくり聞かせてもらおうじゃないか』
「了解した」
そうして私はことの経緯を説明することになった。
お互い、先程までのやりとりが勘違いであり、えらく遠回りであったことに気付くのは、私の体内時計の感覚からして大体三十分後くらいのことだった。珍しくお腹が空いてきた。
『は~……つまりあんたの新しい職場のビルに千秋さんが担当する店舗も入るってことか』
「エリアマネージャーだからそんなにしょっちゅう来ることはないと思うのだが、正直こんなに早く再会することになるとは予想できなかった」
『なんとまぁ運命的だこと』
運命だなんて、和希らしくもない言葉を使うじゃないかと内心ささやかな毒を吐いていた。話を聞いてくれていることに感謝はしているが、そのような解釈をすんなり受け入れていい訳がないと思う自分もいる。
そういえばまだ着替えも済んでいない、オフショルダーから覗く剥き出しの肩を気が付くと自分でさすっていた。
「千秋さんとは距離を置こうとしていたのに何故こうなってしまうのだろう」
『なぁ、前から思ってたんだけどなんで距離置く必要があったんだ?』
「それは……私もよくわからないのだが、もしかしたら千秋さんのことが心配で、ついお節介をしてしまいたくなるからかも知れない」
『心配? 何が』
「実は……」
意を決して記憶を手繰り寄せる。遠い場所に置いてきたつもりでいたそれは、思いのほか容易に私の手の中におさまった。
前の職場であるpupaを退職した翌日だった。あの人からメッセージが届いたのは。
何件かに区切って綴られていた言葉。その最初の方は元上司として私の今までの働きに感謝し、労うようなものだった。もうトークは消えているから全文を正確に覚えている訳ではないけれど。
誠実で優しいあの人の思いは私の凍っていた心を溶かしていくようだった。良い上司の元で働けたのだと心から感謝した。
しかし、本当はそれ以上に私の心に刻み込まれた言葉がある。メッセージの最後の方だった。
――ここから先は元上司ではなく、千秋カケルという一人の人間の言葉として受け取ってほしいです――
――トマリ。出来るならもう一度、君の声が聞きたい――
簡潔な文字の並びなのに、何故か悲しく響いてきたことまではっきりと覚えてる。今思うとこれを忘れようとするなんてそもそも無理があったのだ。
「……と、こんなことを言われたのだが、なんとも奇妙な言葉だろう。何故“声”なのだろうか。あんなに余裕のある人が一体どうしたというのだろうか。だけど心配したところで私に出来ることなどないだろう。私は無力な人間だから。それで……」
『はぁぁぁ!? あんたそういう大事なことは早く言えよ!!』
和希の大声が耳元でこだまする。私は思わずスマホを遠ざけた。
それから間もなくして待機命令が出た。今からそっちに行って徹底的に分析してわかるように解説してやるとのことだ。
ちらりと時計を見る。理解は追いついていないが、とりあえずまだお風呂に入る時間はありそうだ。
今はもう存在しない、でも確かに存在していたあのメッセージに思いを馳せる。
ついに解き明かされるときが来るのか、本当に。
湧いてきた緊張感に抗うよう一度強く頷き、私は着替えを取りに行った。
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