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第1章/居場所を探して(Tomari Katsuragi)
10.ついにこの日が来てしまった(☆)
しおりを挟む肇くんとの待ち合わせ時間は夕方の十八時、場所は昨日電話した際に肇くんが教えてくれた駅の改札前だ。
そこは私たち二人が通っていた専門学校に近く、今までのデートでも何度か利用している場所だから、特に迷うこともなくスムーズに辿り着けた。
プライベートの約束なら十分前に到着、と決めている私の習慣など肇くんはとっくにお見通しのようだ。彼も大体、それくらいに着いていることが多かった。
だけど今日は……
「ごめん、トマリ! 待たせちゃったよね」
「……と言ってもまだ約束の五分前だ。問題ない。気にしないでくれ、肇くん」
帰宅ラッシュの人混みの中から現れた彼は少し息を切らしていた。
説明されなくとも想像はつく。退勤後に一度帰宅し、急いで着替えてここへ向かってくれたのだろう。普段はもっと退勤の時間が遅い彼だから、今日は結構無理をして時間を作ってくれたのではないか。
「肇くん、大丈夫? 少し休んでからでも私は構わないのだが」
そんな無理をせずとも、なんなら君の部屋に遊びに行くとかでも私は良かったのに。
小柄な私は、その見上げるほどに高い肩に触れるのも容易ではない。
代わりにそっと手を繋いだ。汗ばんでる。そう思ったとき、彼が緩やかに腰を屈めてやっと微笑んだ。
その瞳が星屑を散りばめたみたいに煌めいていく。
「トマリ、その服……似合ってる」
「そ、そうか! 本当に?」
「うん、大人っぽくてとても綺麗。気付いたとき、その……正直しばらく見惚れてて、声かけるまでに数秒経っちゃったと思う。ごめん」
「大丈夫だ。気にしないでくれ」
なぁに、私からしてみればそんな名誉な数秒はない。ふん、とつい鼻息が漏れてしまう。
まるで付き合って間もない頃のように初々しく頬を染めている彼。交際六年目の相手のこんな顔を見られるとはな。
私は心に決めた。これは和希に一層の感謝をしなければなるまい。近いうちになんらかお礼が出来るよう考えておこう。
「予約したレストランはここから五分くらいの場所だよ。俺はとても雰囲気が良いと思うんだけど、トマリにも気に入ってもらえるといいな」
「ありがとう。この街も少しずつ変わっていっているな。新しいお店が増えている」
「そうだね。俺たちにとって懐かしい光景もこれからどんどん減っていくのかも知れないな。ああ、でもトマリは新しいもの好きだからそんなに寂しくもないのかな」
「いや、その気持ちは私もわかるよ」
止まる気配のない人の流れ、次第に深みを増していく空の下でむしろ一層の輝きを纏う夜行性の街。
手を繋いで歩く道のりはまるで六年の歳月を辿るような、そこはかとない切なさがある。
隣を見上げるとそこには、社会に馴染んだ大人の男性の横顔。耳にピアスホールがあるけれど、もう随分縮んでいて明らかに使われていないのがわかる。髪の色は元々明るいものの、見るからに指通りの良さそうなサラサラとした質感が実に爽やかだ。
ネイビーの春物ジャッケットに淡いブルーのシャツ、チャコールグレーのスラックス。今の自分に似合うものを選んでいるし、実際かっこいい。
ああ、私はやはりこの人が好きなんだ。そう思う一方で、彼のかつての面影にばかり焦がれている。そんな矛盾したことは口にできまい。
「着いた。ここだよ」
「あっ、うん」
彼の視線を追って見上げると、まだ新しそうなビルの二階の窓に控えめな明かりか灯っていた。
階段を登って店内に入ると店員さんに案内されて席へ向かった。私は歩きながら辺りを見渡した。
お洒落だけどなんだか心地良い空間だ。明かりのほとんどが間接照明である為かところどころ薄暗いのだが、それは決して陰鬱なものではなくむしろ優しさが感じられる。
かすかに流れるゆったりとした音楽と相まって光と闇がワルツを踊っているかのような調和が印象に残った。
窓側の席に座った後は、まず二人でメニューを覗き込む。
「ここは洋食全般を幅広く揃えているお店だから割となんでもあると思うよ。イチオシはこの右上の地中海料理なんだけど」
「では私はそれを注文しようと思う」
メニュー表の上で肇くんが指差してくれた辺りから好みの料理を探していく。
私が食の細い方なので、今までコースで頼んだことはほとんどない。今回も自由に適量を選んでいくスタイルとなった。
料理を待っている間、最近のお互いのことをいろいろ話した。私はどうも口数が少なく、肇くんの質問に答えるだけになってしまうことも多かったが。
仕事の話は特に出てこなかった。興味のあるもの、お気に入りのドラマなどの内容がほとんどだ。肇くんは健康の為にと早朝にランニングを取り入れたらしい。毎日あんなに忙しいのに凄いなと感心してしまう。
やがて料理が届いて、店員さんの手でそれぞれのグラスに飲み物が注がれた。
私もこういうときくらいワインが飲みたいものなのだが、アルコール度数3%の缶チューハイでさえクラクラになってしまうのだから当然無理な話だった。しかしこの店にはノンアルコールワインがあった為、なんとか形だけはそれっぽく見える。ありがたい。雰囲気は大事だ。
「それじゃあ改めて。お誕生日おめでとう、トマリ」
「ありがとう、肇くん」
こうして乾杯の音を小さく響かせた私たちは、束の間見つめ合って同じくらいのタイミングで笑った。お互いまだ少し照れくさいようだ。
パエリアとアクアパッツァはなかなかボリュームがあったので、二人でお皿に分けて食べるのにちょうど良かった。
食欲をそそる味だ。欲求の乏しい私でもそれはわかる。誰かと一緒に食事をしているという安心感はやはり大きな影響をもたらすのだろう。
「俺は白ワインのグラスをもう一杯頼もうかな。トマリは何飲む? 好きなの選んでいいんだよ」
「ありがとう。それではノンアルコールワインをグラスでもう一杯」
飲み物の注文を入れた後、肇くんは私の方を見て「いつもより顔色が良く見える」と言って嬉しそうに微笑む。
そこからしばらくの間があったように思えたが、私はまだその意味を1ミリも察してはいなかった。
――あのさ、トマリ。
白ワインを一口飲んだ肇くんは、改まった口調で切り出すとそっとグラスをテーブルに置いた。
なんとなく、私も同じように姿勢を正す。
「今からする話は、単に長く付き合ってきたからって訳じゃないんだけどさ……覚えてる? 俺、結構昔から家庭を持つことに憧れがあるって話したの」
「ああ……覚えている。付き合い始めて間もない頃にそういう話をしていた」
「あの頃はさ、俺まだ二十歳だったから、気が早いって友達から笑われてたし、そういう話彼女にするなよ、重い男だと思われるからって心配までされた。でも俺はむしろ早めに正直な気持ちを伝えておきたかったんだ。本当は結構怖かった。勇気が必要だった。だけどトマリは笑わずに聞いてくれたよね」
「うん。肇くんにとって大事な話だと思ったから」
「俺、嬉しかったよ」
伏せた彼の瞼がわずかに震えたように見えた。
身体中に力がこもっているのが伝わって、私まで呼吸を忘れそうになる。
「口でならなんとでも言えるだろうから、行動で示せる男になりたかった。特にトマリは年上だから、俺なおさらしっかりしなきゃ信用してもらえないよなぁと思って、それでこの六年間、俺なりに頑張ったつもりで……つまり、その……」
この言葉と語り口調に、なんの予感も感じないほど私も鈍感ではない。鈍感だけど。六年付き合ってきた彼の言いたいことくらいはわかる。
ごく、と喉が鳴る。
自分が今どういう気持ちでその瞬間を待っているのか。どう受け止めるつもりなのか。
自分自身で本当にわかっているのかどうかも自信がない。怖いのか、それとも……
「けっ……!!」
「…………!!」
「あっ、ごめん」
彼はまるで自分自身の声に驚いたかのように口を押さえた。素早くと辺りの様子を伺った後、血色の良くなった顔で私に言う。
今度は少し、声をひそめて。
「そろそろ一緒になりたいなって、思ってて」
「肇くん……」
「俺は本気だから、トマリも俺との結婚、考えてくれないかな」
一度、ゆっくりと息を吐く。吸ったときよりも、長く、長く。
そう、いつかはこんな日が来るかも知れないと予想はしていたから、私も多少は落ち着いていられるのだろう。
だけど困ったことに、何度そのシーンをシミュレーションしても、今の今まではっきりとした答えは用意できなかった。
私だって本気で付き合ってきたつもりだ。
一緒にいて嬉しいことも、愛しい気持ちも本当。
この時間が永遠に続けばと思う瞬間が何度もあった。
だけど歳を重ねるほどに覚悟どころか迷いが大きくなっていって……
――肇くん。
私はついに口を開く。
どんなに不器用だって、やはり誠意には誠意で応えるべきだと思うからだ。
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