あたしが大黒柱

七瀬渚

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番外編/彼と私〜KARIN〜

近くて遠かった(5)☆

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 私の頭の中から鮮やかな魚の群れが引いていったのは大体翌朝。徐々に、徐々にだった。気がつくと1匹もいなくなっていた。

 着替えの途中でハニージンジャーティーが入ったマグカップを手に取った。今朝は一段と寒いからとパジャマの上から羽織っていたロングパーカー型のルームウェア。素材はモコモコ、フードまでしっかり被ってるくせに下は脱ぎっぱなしいうアンバランスな格好で窓際に佇む。

 もうしっかりとした重力が感じられる。そう確信したときに窓がちょっぴり曇った。


 雨上がりの街の景色に見飽きた頃、まるで図ったようにピントが手前へ移り変わって自分の表情かおが鮮明になった。私はモロに顔をしかめた。撮影前なのにこれはない、そう思うなり、サッときびすを返してテーブルに出しっぱなしになってたワインの瓶やグラスを手早く片付けた。


 身支度もそんなに時間はかからなかった。オフタートルのニットに下はアンクルパンツ。アウターに選んだのはキャメルのチェスターコート。足元はプレーンなパンプスでいく予定。シンプルすぎ? 大丈夫でしょ、顔が派手だから。

 洗面台の鏡へ身を乗り出して最終チェック。短い前髪を整えながら、次はもっと思い切った髪色にしてみたい……なんて思った。



 何故あの魚たちは今年になって現れたんだろう。

 グレーの冬空のもとを歩みながらふと思った。だって去年はこんなこと無かった。蓮と再会した年だっていうのに、別れてから1年目だなんて思い出しもしなかったわ。

 でも実は今に始まったことじゃないかも知れないわ。昔からだったかも知れない。

 私の“現実”と“実感”にはいつも結構なタイムラグがあるの。また不意打ちで何かの感情が蘇るかも……って思うとちょっと怖い。誰かに弱音を吐くとかそういうキャラに合わないことをするときっとまた痛い目を見る。

 結局私は自分1人で受け止めるしかないっていうのにさ。



 今日の撮影は昼休みを挟んで続いた。終わったのは15時頃。ここからが暇なのよね。今夜の合コンは当初17時からの予定だったのが18時スタートへ変更になったし。

 だからと言って3時間ものあいだ誰かと一緒に過ごすのは……そうね、いつもなら乗り切れたかも知れないけど今は正直しんどいかな。そう思って足早に事務所を出た私は、あえて少し歩いたところにあるカフェに行くことにした。


 意外と言われるけど割と読書好きな私のお気に入りの場所。ビルの2階にある隠れ家的な雰囲気のこの店には日本の小説から洋書、伝記や雑誌に至るまでいろいろと置いてあるの。店内を程よく照らすアンティーク調の間接照明が心地良い。

 注文を済ませた後、2冊の本を持って窓際の席へ向かった。高めの椅子の背にコートをかけて腰を下ろして間もなくのことだった。


――――!


 思わず目を見張った。窓の外、行き交う人々の中に見覚えのある後ろ姿があった。


 茅ヶ崎ちがさき葉月はづき……だっけ? ああ、それは旧姓か。そう呼んでる人がいたから覚えてたけど、今は結婚して葉山になってるのよね。


 名乗り合った訳でもない、もちろん友達でもない、ただなりゆきで名を知っただけの女。

 蓮が今、一番大切に想っている人。

 数ヶ月前に夫婦喧嘩が原因で蓮が失踪する事件が起きて、おばさんから話を聞いた私も探すのに協力したんだけど、手を繋いで帰ってきた2人はなんだかとても似ていたというか、空気を共有しているような雰囲気があった。


 って、だから何って感じなんだけどね!

 大体後ろ姿だしこんな位置からじゃ正確にわかんないし別人の可能性だって十分あるだろうし私には関係ないし。


 ……ただ、無駄に想像してしまったの。想像しようと思ってした訳じゃないけれど。


――花鈴さん、この間は本当にありがとう!!――


 こんなふうに。あの女のことだから、もし偶然顔を合わせることになっても、見なかったフリなんてしないで真っ正面から向かってくるんだろうな……なんて思ったの。蓮と私の過去をどれだけ聞かされたとしてもきっとブレないんだろうな、なんて。


「お待たせ致しました。ご注文は以上でお揃いですか?」

「あっ、はい……ありがとうございます」


 あの女と似た後ろ姿はとっくに見えなくなっているのに、頬杖つきながらぼおっと同じ場所を眺めていた私。店員さんの声でやっと我に返った。

 手元の本に視線を落とす。意味もなくパラパラとめくってみる。特にジャンルも気にせず手に取ったけど、ファンタジー小説だったのか幻想的な挿絵が入っているのが見えた。ちょっとだけモヤモヤした気持ちが遠のきそうな気がして期待が高まった。


 ややミステリー風味のローファンタジー。全てがモノトーンで表現されているのに、風や音や匂いまでもが豊かに感じられた。静かな臨場感。擬音も使われてなければ大きな盛り上がりもない、なのにまるで何日間かこの世界で過ごしたように感じる後味。独特の引力があった。これは当たりだわ。

 あまり何時間も居座るのは悪いと思ってもう1件カフェをはしごしたんだけど、そこで同じ作者の小説をネットから注文したくらいよ。本棚もそろそろいっぱい。収納増やした方がいいかも……なんて考えながら。

 無気力状態って地味に神経削られるから、こうして何かに夢中になれると少し安心するわね。



「あっ、花鈴も来たわ」

「こっちこっち~!」

 17時50分頃。会場であるダイニングバーの前でこっちに手を振っているモデル仲間を見つけた。私も自然と手を振って返す。うん、気持ちは落ち着いてる。1人の時間を確保しておいて正解だったかも。

 男性メンバーはもう全員着いていて、中には握手を求めてくる人もいた。モデル仲間の1人が「気が早い!」と笑いながら彼を叱り、女性メンバーも全員揃ったところでお店に入った。


 店内は席同士を若干の壁で仕切った半個室でほんのり和風な雰囲気。透明感を大切にしているのかところどころ床が硝子ガラス張りになっている。そして通路側の壁には大きな水槽。ひらひらとした尻尾の金魚たちが泳いでいた。琉金リュウキンかしら。

 合コンは何回か付き合いで出たことがある。まぁ今回も特に本気ではないし、自分の中の定形文を言っておけばいいわよね、なんて思いながら席に着いた。


 交わされる会話が何処か遠い。水の膜に遮られているかのように。低く反響しているような不思議な感覚に飲み込まれていた。そんな中でもきっと私は何事もないように振る舞ったんだろう。

 どれくらいか経った頃、モデル仲間が揃って席を立った。お手洗いかしらね、と横目で伺ったけど、さほど興味もない私は構わずジントニックを飲み続けていた。そんなとき。


「なぁ、女性陣が揃っていなくなるとちょっと緊張するよなぁ」

「そうそう、今頃俺たちのこと話してるのかな~ってドキドキする! 二宮さんはそういう話には混ざらないの?」


「えっ?」


 こっちに話を振られると思ってなかった私はちょっと反応が遅れてしまった。2人の男の興味深そうな視線がこちらに集中している。

「いや、そういうのは考えたことないので」

 キッパリ言い切ると何故か2人の視線が柔らかくなった。うんうん、と謎の頷きを繰り返しながら話し出す。


「ほら、やっぱり二宮さんって案外“天然”なところがあるんだよ! “計算高さ”が無いっていうか、実は“純粋”な気がする」

「いや、それとはまた違うんじゃない? 周りに流されないし“自分をしっかり持ってるタイプ”なんだと思うなぁ。“クール”だよね」


 あぁ……

 ため息を寸前のところで飲み込んだ。


 別に気に障った訳じゃないわ。ただ、人ってこう何かにつけて“名称”をつけたがるのね、って思っただけで。

 合コンなんだもの。一般的には興味を持ってもらえてることをありがたく思うところなんだろうけど、君はこれ? それともこれ? ってな具合に次々と用意されるわくに私は内心窮屈さを感じていた。


 席を立っていたメンバーが帰ってくるとまた元の賑わいが戻った。その途中で今度は着信に気付いた男性メンバーが1人、席を離れていった。


「みんな、本当にごめん!」

 電話から戻ってきたその人は私たちの前で申し訳なさそうに手を合わせた。なんでも病院から急な連絡があったそうで、その人でないと出せない指示があるらしい。もしかするとそういうことも起こり得るかも知れないと考えてアルコールも飲まなかったんだとか。

 ともかく電話での対応に時間がかかりそうだし、病院に戻らなくちゃいけない可能性もあるから自分はこれで帰らせてもらうとその人は言った。

「お医者さんたいへーん!」

「また連絡してね~!」

 ちょっぴり酔いが回った女性メンバーの声が飛び交う中で、私も一応会釈はしておいた。



「え? これから? 悪い、俺いま合コン中でさ……あっ、仕事帰りってことはお前も近くにいるんじゃない? ちょっと待って。うん、いいからいいから」

 しばらくした頃に右斜め向かいの男性メンバーが電話で話し始めた。今度は何かしら。

 口調からしてプライベートの連絡なんだろうけど。そんなふうにぼんやり眺めていたところ、彼は自分の友達を呼んでもいいかと私たちに訊いた。モデル仲間たちはすっかりテンションが上がってて、いいねいいねー、来ちゃいなよー! なんて言ってる。

 なんか結構強引に誘ってるように聞こえたんだけどね。急な人数合わせに付き合わされて迷惑じゃないのかしらって、まだ姿も見ていない相手に少し同情したわ。



 5杯目のジントニック。その頃に男性メンバーの友達がやってきた。


 私はしばらく呆気にとられていた。鮮明な記憶ではないけど、確かに覚えがある。

 その男の視線がスローモーションのように動き、私のもとでぴたりと止まった。


「……あれ? 二宮花鈴さん?」


 はっきりと私の名を呼んだ。


「ひどーい! お兄さん、私たちには反応してくれないの?」

「やっぱり花鈴は別格なのねぇ」


 モデル仲間たちは口々に言ってるけど、多分そういうことじゃないと私にはわかっていた。これはリアルに知っている人間に対する呼びかけだ。


「お前、二宮さんのファンだったのか! 来て良かったなぁ、坂口!」





 ああ、そう。坂口。思い出したわ。

 葉山葉月あのオンナが職場の同期だって言ってた。蓮が失踪したときこの人も一緒に探してくれたのよね。

 2度目だからなのか以前会ったとき程テンションは高くない……気がする。この微妙な違いはきっと私にしかわからない。

 それにしてもこの男、何故か「会ったことがある」とは言わないのよね。ちょっとだけそんな疑問を感じていたときだった。


「でもさ、悔しいけど花鈴が目立つのわかる気がする」


 モデル仲間の一言を皮切りにみんなが同意を示した。


「大人の存在感があるよね。自立しててさ」

「特別派手にしてなくてもオーラがある!」


「正直、本人に会ったらますます高嶺の花って感じがしたよ」

「俺も多分、話すの一番緊張した」


 女性メンバー、男性メンバー共にだ。感じたことはそれぞれなんだろうけど、やってることは同じ。

 みんなして私の間に壁を隔ててる。


「もちろん結婚しても素敵なんだろうけどぉ、花鈴だったら1人でも立派に生きていけそう!」


 無邪気なモデル仲間の一言で、私の中から軋むようなヒビが入るような、そんな音がした。



「そうかしら……」


 そう呟きながらも内心では肯定していた。何故かこんなときに、ママの後ろ姿が脳裏に浮かんだ。





 そうよ。

 私は1人で生きていけるの。だってそういうふうに育てられたんだもの。

 そんな私が本気で愛情なんて求めたらボロボロに傷付いて終わるの。もう同じ間違いは繰り返さない。もう誰にも期待しないし欲しがらない。


 もう二度と。



「ごめんなさい。私、先に失礼するわ。少し体調が良くないみたいなの」

 コートを脇に抱えて席を立った。正直自分でも驚いていた。

 途中で帰るなんて今まで一度もしたことがなかったから。しかも嘘までついて。


 だけど何とか誤魔化せたみたい。心配する声はあったけど、特に誰も不審には思ってないように見えた。


「待って、二宮さん!!」


 でもただ1人だけ、違っていた。


 冬の夜空のもと、コートを着るのさえ忘れて歩いていた私を彼は引き止めた。触れようとはせず声だけで。


「体調悪いんでしょ? なんか歩き方フラフラしてるし、そのまま1人で帰るのは危ないよ」

「ありがとう、坂口さん。でも大丈夫。1人で、帰れるわ」

「駄目だよ。待ってて、俺がタクシー呼んで来るから!」


 私を安心させようとでもしているのか、ニッと笑った彼がきびすを返した。私の腕が咄嗟にそちらへ伸びた。


「……二宮さん?」

「嘘よ」


「何が?」


「……体調、悪くない。ねぇ、そこまで言うなら付き合ってほしい場所があるの」


 何故そこへ行きたくなったんだろう。だけどこの機会を逃したら、この先もずっと行けないかも知れないと思ったの。

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