あたしが大黒柱

七瀬渚

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番外編/彼と私〜KARIN〜

近くて遠かった(3)☆

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――大丈夫、もう大丈夫――


 半身浴を終えた後、どうやって今に辿り着いたのかよく覚えていない。ベッドの上、天井を見つめて微睡む私の脳内では、いつか蓮の枕元で囁いた言葉が子守唄のように続いてる。

 髪は乾いているし歯も磨けている。肌も保湿されている。吐息にはほんのりワインの香り。過去をフワフワ漂っても、いつもの習慣はしっかりこなしたみたい。

 もうここは蓮と共に過ごした場所とは違うけど、少しだけ彼の残り香があるような気がするの。私のパジャマはあの頃のまま。垢抜けないデザインな上にすっかり色褪せてる。

 信じらんない。表向きは意識高いファッションモデルが家ではこんな格好。しかも理由が……


「……気持ちわる」


 くるりと反転してうつ伏せになったとき、思わずぽつりと零れた。未練がましい自分に嫌気がさして。残り香なんてものがあるんだとしたら、もう何百回も洗濯してとっくに消えてるっつーの。

 それなのにまだなおらない、彼がそうしてくれたように自分の肩をぎゅうと抱く癖が。


――大丈夫、もう大丈夫――


 子守唄はなおも続く。それは今夜、私自身に向けられているようだった。


✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎


 いじめに遭っていた高校は中退したけれどその後に定時制高校に入学し直したという蓮。それも既に卒業して就職先も決まってなかったから、むしろ行動するなら今しかないと思った。

「試しに泊まりに来てみる?」

 そんな言葉で彼を誘った。小さく頷き、昔の頃のように身体を寄せてきた彼をそっと受け止めながら決意していた。


 “試し”なんて嘘。

 もう二度と、二度と。離すつもりはないわ。



 後日地元の駅前で待ち合わせをした。結構賭けだったのよ。「誰と会うの?」って家族に訊かれたら蓮はきっと躊躇ためらいながらも正直に言っちゃう。男女が2人きりでなんて……そう止められる可能性だってあった。

 でも私たちはもう子どもじゃない。純真な心のまま大きくなった蓮だって、きっと少しずつでも覚えていけることがある。


 初夏の昼下がりだというのに重たそうな雲が這いずるようにして私たちを追いかけていた。お互いに無言のまま手を繋いで先を急いだ。

 そうして辿り着いた私のアパート。幸い2人とも服はそこまで濡れずに済んだけど、窓を叩く雨の音は次第に強くなっていった。日が沈んだみたいに暗くなっていくと、2人きり、閉じ込められたみたいな感覚が私に妙な安心感を与えた。

 蓮が疲れてそうに見えたから私のベッドを貸した。新しく買った小説を読もうとその場を離れようとしたとき、つん、と服の裾を摘まれた。


――ここにいて。


 彼の瞳がそう言っていたから、私はそっと隣に腰を下ろした。試しに身体を横たえてみても蓮はただ嬉しそうに目を細めていた。

 だけど遠くで雷が鳴り始めたとき、何か不安に取り憑かれたように蓮はうつ伏せになった。


「花鈴ちゃ……」

「……ん」

 掠れた声が届いた。





「僕……発達障害。聴覚過敏で……せ、精神疾患も、ある」

「そう」

「い、いいの……?」


「それの何が駄目なの?」


 初耳だったけど、だからって私の中の彼が変わる訳じゃなかった。


 私の子守唄はそこから始まった。大丈夫、もう大丈夫……そう囁いているうちに蓮はうとうとと微睡んだ。

 遠くでスマホが振動している音が聞こえた。多分蓮のバッグの中から。だけど私は囁き続けた。蓮がこのまま気付かなければ、このまま眠ってくれれば、そしてこの場所に落ち着いてくれれば……今考えるとそんな祈り。


 激しさを増す雨音の中で。


「ごめんなさい……おばさん」


 電話の相手がその人かはわからないけど、私の一抹の罪悪感がそう告げた。


 こうして隠れ家と化した部屋の中で私たちは長い時間眠りについた。特に変わったことは何も起きなかった。ただお互い胎児のように丸まって額だけで繋がっていた。

 再び目覚めたとき蓮は何も言わなかったけど、彼が頭を乗せていた部分が僅かに湿っていた。いつ起きたんだろう。それとも眠りながら? 悲しかったのか、安心感からなのか、それさえわからない。

 そのとき「私の知らない彼」を感じて漠然と怖くなったのを覚えてる。



 連れ去ったからには私が一番の理解者にならなくちゃ。その使命感にも似た思いは次第に大きくなっていった。

 蓮はほんの数える程度実家に戻ったけど、段々私のアパートに居る時間が長くなってやがては帰らなくなった。必要最低限の荷物を少しずつ持ってきたり、住民票を移す為の準備だったみたい。

 何か火事場の馬鹿力のようなものを感じたわ。あの弱り切った身体でよく家族を振り切ってここまで物事を進められたものだと思う。


 だけど蓮の家族の声が全く聞こえて来なかった訳じゃない。蓮にはよく電話がかかってきてた。そしてあるとき同居人の私に代わるよう言われたの。


『花鈴ちゃん。久しぶりね。蓮から聞いていたわ……貴女だって』

 懐かしいおしとやかな声。電話の相手はおばさんだった。

 怒られたりなどしなかった。でも代わりに諭すような声でこう言われたの。


『蓮と仲良くしてくれるのはありがたいのだけど、こんなやり方ではいずれ貴女の負担になるわ』


 警鐘はこのとき確かに鳴っていた。冷たい電話口の向こうから。でも私は、勝手に決めてすみませんと言ったくらいで、その不穏な音から意識を逸らしてしまった。



 私はそこから一層の無理をしたと思う。化粧品販売の仕事に加えてガールズバーでも働き始めた。

 蓮は自分も働きたいという意志があって就活していたもののかなり苦戦していた。コンビニのバイトが決まったことがあったんだけど、接客が出来なくてすぐクビになってしまった。その次の仕事も体調崩して1ヶ月しかもたなかったのよね。あのときの蓮は酷い落ち込みようだったわ。

 だから私は2匹のグッピーを彼にプレゼントしたの。


「花鈴ちゃ……ありがとう」


 泣き腫らした瞼が弧をえがいた。それだけで私は満たされる、睡眠を削って働いた苦労も報われる、そう信じていたはずだった。


 信じていたはずだったのに……


 満たされていた心の中身が徐々に枯れ始めた。奇しくもそれは空気が乾き木の葉が潤いを失い始めた頃。

 連勤明けの休みだった。久しぶりに蓮と長い時間一緒に過ごせる日。

 朝食はそれぞれで食べて、昼食作りは蓮も少し手伝ってくれた。何も変わったことのない時間だった。


 ……ぽちゃん


 蛇口から落ちた水の音が、私の心の乾きと重なる。自分の口からだんだん優しい言葉が出なくなってきている自覚があった。


 ……ぽちゃん


 変わらない時間を繰り返す度に。何故って。

 何故、貴方は変わらないの・・・・・・・・・って。


 仕事に就けなくてもいい。病気なのも仕方がない。好きでそうなった訳じゃないんだから。

 でも心まで動かないのは何故?

 その澄んだ瞳に映ってるのは2匹のグッピー。私が頑張って働いて、貴方の為に買ったのよ。

 貴方のことばかり見ているのよ。

 応えてほしい。想いを交わし合いたい。一緒に暮らしてるってことは少しは私のこと好きなんじゃないの? 一番の目的ではなくても、私にも可能性はあるんじゃないの?

 そう思うのはおかしいの?



「……ねぇ、蓮は大人になりたいと思う?」


 迫り来る夕闇が私を後押しした。見上げる彼のあどけない顔にじわじわと不安の色が広がっていった。

 そして何を思ったのか私の服の裾にしがみ付いてきたの。迷子の仔犬みたいに。


 まだわかってないのね。


 私は唇を噛んだ。乾いて脆くなった私の心に追い討ちをかける彼、それに気付いてもいない彼が憎らしくて愛おしくて、私はその場にしゃがむと彼の顔を自分の正面へ手繰り寄せ、柔らかい部分をそっと重ね合わせた。初めて間近に感じた彼の吐息は私を素直にさせていくように思えた。

 なのに実際私の口から出たのは可愛げのない高飛車な言葉だった。貴方が望むならいいわよ、そんな感じの言い方だった。そこはやっぱり私、どんなに追い詰められてても皮肉なくらい頑固なプライドが居座り続ける。


 彼の痩せた胸に頰を当てると鼓動が速くなっていくのがわかった。私の腕に触れた手は汗ばんでいた。

 それは彼の戸惑い。本能に身を任せるか、恐れをなして遠ざかるか、その中間にいる彼を私は逃さなかった。





「こっちよ、蓮」


 “一緒に暮らそう”

 きっと大体の人ならそれだけでわかる。相当大胆な発言だったはずなのに。

 届かなかった。こんな寂しいのはもう嫌。


 頰に口づけを落とすと彼も遅れて同じようにしてきた。私が触れるところと同じところへ彼も触れるようになってくれた。嬉しかった。やっと少しだけ潤いが戻るような気がした。ごめん……って、私に詫びる彼の細い声が時々届いて胸が苦しくなったけど、2人とも考える余裕がなくなるくらいまで何度もそれを繰り返した。



――蓮――

――花鈴ちゃん――



 幼い頃、無邪気に呼び合っていた名が静寂の夜に切なく溶け合った。無邪気とは程遠い響きで。

 私たちはお互いに少しだけ泣いた。でもそれぞれの涙の理由は、きっと今でもお互いにわからない。

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