あたしが大黒柱

七瀬渚

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第4章/理解を得るのは困難で

12.彼とあたしの新しい一歩

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 蓮がある決意を固めたのはママさんが訪ねてきてから1週間後のことだった。やっぱり時間はそれなりに必要だったみたいだけど、それでも彼なりに一生懸命考えて導き出した答えだ。

「在宅ワーク、続けられなくて……ごめん」

「ああ、大丈夫だ。あたしも職場で元のペースを取り戻してきてる。こっちはこっちで頑張るからな」

「無理……しないで。葉月ちゃんも、自分の時間、作って」

「わかってるよ。カウンセリングルームでもちゃんと話を聞いてもらう」

 時刻は昼前。ついさっき蓮が在宅ワークの事務所に電話して退職の旨を伝えたばかりだ。退職の際は1ヶ月前に申し出る決まりになっている会社だから今すぐに仕事が途絶えるって訳じゃないんだけどな。

 蓮は体調不良が続いたこともあってあまり仕事の量はこなせず雇用保険にも入っていなかったから失業手当は出ない。でもこれから様々な手続きが必要になるだろう。今は時間があるように思えてもきっと1ヶ月なんてあっと言う間だ。


「新しい一歩だな。お前もあたしも」

「ん……っ、頑張る」


「程々に、だな」


 自らにも言い聞かせる言葉を囁きつつ、彼と身体を寄せ合った。大丈夫、きっと良い方向へ行くと信じることが今のあたしたちの力になる気がするから。


 カウンセリングルームの場所は自分でも調べてみたけど、正直何処がいいんだかよくわかんねぇ。そこであたしは後日、蓮の通院に同行してみることにした。蓮が言ってたんだけど、あの病院はカウンセリングの予約もとってるらしい。

「なるほど。うちのカウンセリングの予約だと、申し訳ないのですが3ヶ月程お待ち頂くことになりますね。もし早めに相談しておきたいということでしたら、ここから近いカウンセリングルームをご紹介しますよ」

 先生が差し出してくれた地図の載った案内用紙。そうだな、予約待ちが結構長いことも覚悟はしていたし、念の為こっちにも電話で詳細を聞いてみるかとあたしはそれを受け取った。


 楓と銀杏の落葉が入り混じる。哀愁の色と共に流れ行く時間の中で、蓮はまだ残っている在宅ワークの仕事を、あたしは主に水谷先輩と協力しながらプロジェクトの研究を進める日々。


 蓮に言われたことも守ったよ。カウンセリングはまだ先でも今すぐに作れる“自分の時間”。

 あるときは1人で公園のベンチに座ってぼうっとしているうちにこんなことを考えてた。


(理想を押し付けるなんて結構あるあるじゃねぇか)


 ここ最近で2度も聞いた言葉だ。姫島と水谷先輩が言ってたな。

 でも理想はみんなそれぞれの中に在って、それが良いと信じてきたからこそ強く出てしまうもので。社会でも家庭でも案外やってしまいがちなんだと思う。


 そしてまたあるときはお気に入りのカフェでコーヒーを飲みながらこんなことを考えた。


(蓮とあたしは近付き過ぎたのかもな)


 あたしたちは今、距離を置いている状態とも言える。最初はちと寂しく感じた。

 だけどお互い1人の時間をゆっくり過ごしてまた顔を合わせたときはなんだか安らかな空気が漂っているように思うんだ。くっついてるだけが絆じゃねぇってことなのかな。むしろこういう距離感でいた方がお互いを大切にする余裕が生まれるのかも知れない。


 オレンジ色の照明のもと、いつか蓮と一緒に過ごした金魚が泳ぐ水槽の隣、空になったコーヒーカップを眺めてあたしはくすりと笑みを零す。

 蓮が失踪したとき、花鈴ちゃんにも叱られたな。いい歳して本当に後先考えてなかったのかって。

 そうかも知れねぇな。あたしは交際わずか1ヶ月でプロポーズなんてしちまった。気合いで乗り切れるってまだ何処かで考えてたような頃だ。自分ではわかってるつもりだったけどまだ自覚が足りなかったんだ、きっと。

 ひたすらに想うだけじゃ無理だって痛いほどわかった。

 でも……!


「よし!!」


 ガタッと両手をついて立ち上がると店員の女性が目を丸くする。あたしが今更ながら照れ笑いを浮かべてご馳走様ですと言うと、彼女は柔らかな微笑みを見せてくれた。


「いつもありがとうございます。良かったらまた旦那様といらして下さいね」

「はい! こちらこそありがとうございます!」


 そう、こうして人の温かさにも救われてきた。全ての人にわかってもらえなくたって、あたしたちは“ふたりぼっち”ではないと教えてくれた人たちがいる。

 確かにキッカケは勢いだった関係かも知れない。でも人はときに失敗しながら成長するもんだ。まだ遅くはないはずだぜ!



 そして蓮がついに退職の日を迎えた。時期は10月半ば。予想通りあっという間だったな。

 有給を取った平日の午前にあたしたちは電車に乗り込んだ。通勤ラッシュが過ぎて少し空いてきたくらいの頃だ。蓮は家を出る前から明らかに緊張してたけど……

「せっかくの支援なんだ。活用させてもらおうぜ」

 そっと手を重ねて語りかけると次第に表情が安らかになっていくのがわかった。


 そうして辿り着いた市役所の障害者福祉課。1ヶ月の間にあたしたちは少しずつ話し合いを重ねて、あの就労移行支援を受けることに決めたんだ。今日は詳細を聞きに来たって訳さ。

 就労移行支援の上限は基本的に2年間。利用料が発生する場合、どれくらいの金額になるのかも聞いたけど、これは受給者証というものが発行されないと正確にはわからないそうだ。

「就労移行支援センターの雰囲気も実際見てみないとわからないですよね。見学や体験もできるのでまずは事業所に行ってみるのが良いかと」

 ひと通りの説明を終えた女性職員さんが次に事業所の場所を提示してくれる。なるほど、ここを介してセンターへの通所が始まるんだなとあたしも理解していく。


 今度は歩いてすぐの事業所へ向かった。大柄な男性職員さんに出迎えられて後ずさりした蓮。こっから先はほとんどあたしが話を聞く形になったけど、何ヶ所かのセンターのパンフレットをもらい、来週担当職員さんと面談するところから始めようという話になった。


「最初の人、挨拶……しようと思ったのに、出来なかっ……」

「はは、ゆっくり改善していけばいいさ。でも良かったな、担当職員さんが優しそうな女の人で」

 帰りはちょうど昼頃になったからカフェでご飯。出だしが上手くいかなかったことを悔やみ、目の前のサンドイッチに手をつけられずにいる蓮に、とにかく食え食え! と励ましの言葉をかけた。苦手意識だって一生続くとは限らねぇんだからよ。


(そんで次はあたしのカウンセリングか)

 ミートソースパスタを頬張りながら頭の中で予定を整理していく。お医者さんから紹介されたあのカウンセリングルームの予約の日がもうすぐだ。何せ人生初だからそれなりに緊張するんだけどな。

 話したいことしっかりまとめて行こう。蓮みたいにメモに書いていくくらいのことをした方がいいかも知れない。


 お腹いっぱいになったあたしたちは共に帰路を辿る。今日は頭ん中も情報でいっぱい。家で待ってる魚たちと亀に早く会いたくなった。




 本当は蓮がこれから行く場所全てに付き添いたいくらいなんだけど、平日仕事をしている立場としては非現実的な話だった。一人きりって訳じゃないんだ。その為にいろいろ手続きしたんだろ。

(大丈夫、大丈夫……)

「葉山さん? こちらへ……」

「あっ、すみません」

 カウンセリングルームの待合室。かなり近くで呼びかけられてあたしはようやく立ち上がった。多分何度か呼ばれてたんだろうな。

 失礼しますと言って中に入ると柔らかそうなソファと綺麗な観葉植物が出迎えてくれた。てっきりもっと閉鎖的な場所だと思ってたんだけどよ、広すぎず狭すぎずで居心地が良さそうだ。こういうところもあるんだな(※カウンセリングルームの間取り、広さなどは場所によって異なります)

 今日は初回面接だ。いきなりカウンセリングを始めるのではなく、まずは家族構成や職業、相談したいことなどを伝えた上で、今後のカウンセリングの流れを説明してくれるらしい。


「それで葉山さん、最初にお約束してほしいのですが……」

「はい?」


 カウンセラーさんの改まった言葉に目を見開くと、こんなことを告げられた。


「決して無理はしないで下さい。お話を聞いていると、葉山さんは“不安が不安を呼ぶ”という状態になっているように感じられます。そうですね、1つ不安なことが頭に浮かぶと日々の生活や言動に余裕が無くなり、それがまた次の不安を招くという意味です。カウンセリングをするということは、時に辛い記憶を呼び起こすことになる。当時の恐怖感を再体験する可能性があります。話していて却って苦しくなるときは遠慮なくおっしゃって下さい。そのときは続行せずに一旦休みましょう」


(そうか……そんな状態になってたのか、あたし)


 本当に、自分ではなかなか気付けないものだと実感する。世の中には「なんでもっと早く言わなかったんだ」って思うことが沢山あるけど、自分の精神状態をよく把握できないまま症状を悪化させていってしまう人が多く存在するのもわかる気がした。


 初回面接を終えて帰ってきたのはちょうど昼どき。ゆっくり開いた玄関の隙間からなんだか美味そうな匂いがふわっと漂ってくる。最初は心配そうな顔をしていた蓮だけど、あたしが鼻をすんすん鳴らしているうちに……

「野菜タンメン」

 ってはにかみながら言ったから、あたしの表情も綻んだ。スープと野菜炒めは既に作り終わって、後は麺を茹でれば完成らしい。

 蓮がいそいそとキッチンへ戻っていった後、あたしはジャケットを脱ぎながらリビングをぶらぶら歩いた。魚たちと亀にただいまを言う。元は蓮の習慣だったものが今じゃすっかりうつってる。


「わっ……」

 そのとき。テーブルの上で蓮のノートパソコンが開きっぱなしになっていることに気付いた。

 いや、正確に言うと開いている事実よりか、画面の中の光景に釘付けになったんだ。


 蓮の気配があたしの傍でぴたりと止まる。既に腰を屈めてがっつり画面を覗き込んでいたあたしはしまった! と思った。

「わ、わりぃ! 勝手に見ちまって……」

 例え家族であっても蓮には立ち入られたくない領域がある。もう知っていたはずなのに……と気まずい空気を勝手に感じて身体を硬直させた。


 だけど蓮は首を横に振る。

 ちょっと照れたような顔色。それから優しい目をして。



「葉月ちゃんと、行きたい場所」



 かたわらに台拭きを置き、1つ1つ指差してはそれが何処だか教えてくれる。

 妖精が暮らしてそうな森林、水辺に佇む鳥居、海のような青い花畑……絶景の数々があたしの瞳を万華鏡にしていく。

 なんでもそれは最近SNSで知り合った写真好きな人が撮ったもので、蓮は許可を得た上で保存していたんだとか。


「すげぇ綺麗だな。これ全部日本なのか……すっげぇ」

 ひたすら見惚れるあたしの隣で蓮が頷いたのがわかった。


「僕……元気になれるように、頑張るから、いつか」

「ああ! 行こうな!」


 額がくっつきそうなくらい顔を寄せて微笑み合った。過去に囚われてばかりいた蓮の目に未来が映っていることが嬉しい。そんなあったかい気持ちに満たされたからこそあたしも良い案が閃いたのかも知れない。


「なぁ、ここだったら割とすぐに叶えられそうだぞ」


 ちょっと貸してくれと言ってマウスを動かし、1つの画像を表示する。

 瞳を青や紫に染めた蓮が嬉しそうにこっちを向いた。
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