あたしが大黒柱

七瀬渚

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第4章/理解を得るのは困難で

11.信頼関係も様々だ

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 ママさんは今後のこと、どんな些細なことでも気になったら相談してと言った。金銭的な面でも困ったら遠慮なく言ってほしいと、出来る限りではあるけれど力になるとまで言ってくれた。

 まぁ彼の抱えている問題を知った上で一緒になったんだから、出来るだけ双方の親には頼りたくないってどうしても思っちまうんだけどな。

 でも身に染みてわかったんだ。甘えないことが偉い訳じゃないって。むしろ限界まで抱え込むと却って周りを振り回す。もう出来るだけそういうのは避けたいから、自分の思いを正直に打ち明けられる場ってのをあたしも見つけないといけないんだよな……と、考えを改めていく朝。


「じゃあ、行ってくる」

 仕事着を着て玄関先に立つあたしはなんだか姿勢まで改まった。こく、と頷いた蓮があたしの手を握る。

「行ってらっしゃい、葉月ちゃん。気を、つけて」

 あたしが出かけるとき、蓮はまだ寝巻き姿ってことも多かった。だけど今朝はちゃんと部屋着に着替えてる。潤んだ瞳をしながらも薄い笑みを作ってる。何か感じ取ってるんだろうな。

 そんなふうに心配されてるあたしが出来るのは、精一杯の笑顔を返すくらいだった。実際緊張で既に足元が震えそうだ。


 今までよりもずっと早い朝の空は突き抜けるように澄み渡っていた。あたしを追い越していったスーツ姿のサラリーマン、そのしゃんと伸びた背中が眩しく見えた。

(謝るのはもちろんだけど、まずは「おはようございます」だよな。それでいいんだよな……? それから……)

 電車に乗って座席に腰を下ろしてからもあたしの内心はソワソワと落ち着かなくて、凄く初歩的なことでさえ間違っていないかと心配になる。ひたすら続く脳内の予行練習。長いようで短い時間だったと思う。


(この時間じゃまだみんな来てないかもな……)

 静かな廊下にヒールの音を響かせながら、やれ、こっからの時間をどう過ごそうかと考えていた。喫煙所の近くには見慣れた自販機。ここはやっぱり気合いのコーヒーか?

 気を引き締めているはずなのに何処か注意力が散漫だった。

 ガチャ、とドアが開く音がしてやっと顔を上げた。ちょうど喫煙所から出てきた“彼”。ほんのり鼻腔へ伝わったメンソールのフレーバー。こんなすぐ近くの気配に気付かないなんて。


「茅ヶ崎さん……」

「みっ、水谷先輩……!」


 呑気に財布出してる場合じゃねぇだろあたし! もつれる手つきですぐさまバッグの中に引っ込めたけどもう遅い。水谷先輩はやや足早にこっちへ歩み寄ってくる。堅い表情……なのはわかるけど、やべぇ、どんな意味の顔なのかわからねぇ。

 だけど言うべきことは明確なはずだ。あたしは両の拳にぐっと力を込めて、喉の奥から絞り出した。


「おはようございます! 先日は大変……」


「茅ヶ崎くん!」

「えっ、茅ヶ崎さん!?」


 言い終わる前に背後から複数の声に呼びかけられてあたしは一瞬静止した。覚えのある声の主の方を振り返るとやっぱり。川上主任と姫島が小走りでやってくる。

「もう大丈夫なのかい?」

 川上主任が目を細めて問いかける。触れられてないけど、そっと肩を支えられてる気分になった。はい、と返す声が自分でも情けなく感じるくらい細くなる。


「皆様、先日はご心配とご迷惑をおかけして大変申し訳ありませんでした」


 不安定な心をなんとか立て直し、やっと声にすることが出来た。あたしと向かい合う形で横並びになった3人に深々と頭を下げた。

 顔を上げるとみんなの反応がそれぞれなのがわかった。川上主任は旦那さんが無事ならそれでいいんだよと優しく言ってくれる。姫島は何故か泣きそうな顔になって、水谷先輩は堅い表情のまま少しうつむいた。


「就業時間になったらちょっと時間をくれるかい? 面談をしよう」

「はい。宜しくお願いします」

 面談。本当はその言葉を聞いた時点で背筋が強張っていた。

 いくら川上主任が優しいったって仕事は仕事だ。情けだけで重要な役割を任せる訳にはいかねぇだろ。

 プロジェクトリーダーを外されることも覚悟しておかなきゃな……。



 途中まではみんなと一緒に歩いていたけど、ロッカールームのことろで男女に分かれた。中に入ってバッグから鍵を取り出そうとしたとき……


――あっ、あの、茅ヶ崎さん!


 まだ他には誰もいない女子ロッカールームに姫島の声が響き渡った。振り向いて目を見張った。そうだ。さっきもだったけど、何故あたしではなくこの子がこんな顔してるんだ? ここまで一緒に歩いてる間もずっとそうだったのか? と心配になっていた矢先だ。


「茅ヶ崎さん……私、今までごめんなさい。茅ヶ崎さんの家庭の事情も知らず、無神経なことばかり言ってしまいました……」

「姫島……」


 無神経なこと……言われたか? あたしは正直しっくり来ない。だけど後に続いた姫島の言葉でちょっと思い出せた。

「結婚式のこととか新婚旅行のこととか……余計なお世話でしたよね。私、茅ヶ崎さんみたいな運命的な出会いに憧れていたからつい興奮してしまって、茅ヶ崎さんにもっと幸せになってもらいたいと思っていたのは本当なんです! でも……そんな私の独り善がりな考えで追い詰めてしまったのなら、本当に、ごめんなさい……!」

 ああ……確かに返答に困ったこともあったな。それにしたって追い詰めるだなんてそりゃ大袈裟だろと苦笑が零れた。

 でもそう思わせてしまったあたしにだって十分落ち度はある。涙目になってうつむいている姫島の肩にそっと手を置いた。


「姫島が気に病むことじゃない。勝手に無理して家庭の事情を隠してたのはあたしなんだ。川上主任にも言われたけど、それじゃ誰だって知りようがないもんな。反省したよ」

「茅ヶ崎さん……」

「今更だけどあたしも信じてほしいことがある。みんなを信用してなかった訳じゃないってことだ。ただ今まで通りに接してほしいとか、夫のことで気を使わせたくないとか、今思うと余計なことを気にして1人で強がっちまった。姫島、あたしこそ申し訳なかった」

 ふるふるとかぶりを振る姫島。何故こんな健気にあたしの味方でいようとしてくれるのか、その理由はわからねぇ。だけど確かに思ったのは、忙しない社会の中でも他人を思いやれるこういう子を、人生の、そして社会人の先輩として大切に育てたいということだった。その為にはまずあたしが、ただ歳くってくだけでなく、ちゃんと内面的に大人にならなきゃな。



 仕事着に着替えたら持ち場で朝礼。その後に川上主任と面談室に向かった。

 向かい合ってパイプ椅子に腰掛ける。菩薩のように穏やかな表情を目の前にしても、しんと冴えた空気がおのずと全身に緊張感を走らせる。


「単刀直入に言うね。プロジェクトリーダーのことだけど……」

 まぁ、そうだよな。あたしでもきっとそうする。まだ言われてもいないのに早々に結論付けようとした。両の拳に力が入り、奥歯も隙間なく噛み合った。

「水谷くんを主なサポート役にと考えているんだ。もちろんプロジェクトはみんなで協力していくものだけど、彼はサブリーダーと言ったところかな」

「え……?」

 思わぬ言葉が続いてあたしは目を丸くした。この役職は続けさせてもらえるって、ことなのか……?

「先日茅ヶ崎くんが早退した後、皆に事情を説明して、それから水谷くんと面談をしたんだ。彼も協力する姿勢を見せてくれたよ。実際仕事の上では申し分ないし、安心してプロジェクトを任せられると思う」

 ただ……と、小さな呟きが川上主任から。保っている笑みも少し曇ったように見える。少しの間を置いて懸念していることを話してくれた。

「心配なのは茅ヶ崎くんの気持ちだよ。あの日は少しもめたと聞いている。正直、以前から水谷くんとは関係がギクシャクしていたでしょう」

 うっ、と喉が詰まった。やはり気付かれていたんだと。大人としての振る舞い、今回の件が無くたって前から出来てなかったんじゃねぇか。やんなっちまうな……全く。


「どうだい? 彼とはこれからもっとコミュニケーションが必要な間柄になる訳だけど、気持ちの整理はつけられそうかい?」


 優しく寄り添う声。こんなあたしの為に。

 迷いが無い訳ではなかった。ここ最近で大きく自信を失ったあたしには当然の如く不安も押し寄せてきた。

 だけど決意は遅れながらも固まっていく。もうリーダーというポジションに固執するのではなく。


「ちゃんと向き合います」


 あたし自身の成長の為に、この一歩が必要だと感じたからだ。



 面談を終えると川上主任は寄るところがあるからと言ってエレベーターの方へ。あたしは1人でもう仕事が始まってる持ち場へ戻ることになった。

 その途中の廊下で壁を背もたれにして立っている人が居ることに気付いた。腕組みをしてこっちを見てる。

――――!

 歩みを進める程に鮮明になっていく姿。あたしはおのずと早足になった。

「水谷先輩!」

 彼個人に伝えなくてはならないことがまだある。相変わらず心の読めない表情を真正面からしっかり見つめた。迷いが吹っ切れれば案外早いものだ。


「先日は失礼な態度をとって大変申し訳ございませんでした! 大人げなかったと反省しています。それからプロジェクトの件も……」


「はぁっ」


「!!!」


 とは言え。こんな露骨なため息を聞いちゃギクッとなるだろ。一気に冷や汗まで吹き出したぜ。だけど無理もないと思う。

「どうしてあんな大事なことをもっと早く言ってくれなかったのかねぇ」

「申し訳ありません……」

 上目で伺うと柔らかな前髪をかき上げそっぽを向いてる。本当、今ならどんな嫌味を言われてもしょうがないよな。理由を隠されてた上に悪者扱いなんかされちゃ誰だって気分悪いだろ。

 それでもこの人と信頼関係を築いていかなきゃならねぇんだ。苦手意識は捨てろ、あたし……!!


「今度からはちゃんと話してね。仕事に関わってくることなんだからさ、プロ意識を持ってる茅ヶ崎さんならわかるよね?」

「はい」


「僕なりに茅ヶ崎さんのことは信頼してきたつもりなんだよ。僕もつい自分の理想を押し付けちゃうところがあるからなぁ……あまり伝わってなかったかも知れないけど。うん、まぁ……気を付けるよ」

「先輩……」


 気が付けば水谷先輩の顔がこっちを向いていた。曲線をえがく前髪の隙間から覗く色素の薄い目は気怠くも優しくも見える。


「マフラー、ごめんね」

「いえ! もう本当にいいんです!」

「本当に僕で大丈夫?」

「今回の件は私に落ち度があったんです。これからは気持ちを入れ替えて頑張ります!」


 あ~、なるほどな。吸い込まれそうな瞳に甘い声色、何処か意味深に聞こえる言い回し。この人が色っぽいと言われる理由がわかる気がしてきたよ。

 そんな分析をしながらもあたしの心に芽生えたのはときめきなんていうたぐいじゃないぜ。


「宜しくお願いします、先輩!!」

「ふふ、頼もしい表情に戻ったね。意見は遠慮なく言わせてもらうよ」


 どちらからともなくだった。動いた双方の腕が点対称の図形のような形をえがく。がっちりと握手を交わす。

 全部はわかり合えなくてもいいんだ。ライバルと仲間は紙一重。これはこれで貴重な縁なのかも知れねぇな。

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