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第4章/理解を得るのは困難で
10.迷惑なもんか
しおりを挟む知っておいてもらった方がいいことなのか、あたしは正直わからねぇ。蓮がどういうつもりで切り出したのかならなんとなくわかってるつもりだよ。
あたしが精神的に余裕が無かったのは自分のせいだって、あたしの性格のせいじゃないって、そう言いたかったんだろ? 少なくともお前はあたしが弱っていることを武器にママさんを黙らせるとか、そんなズル賢いことは考えねぇもんな。
むしろこれは状況が不利な方向に向かってる気さえする。現状、お互いに傷付け合う関係だって言っちまったようなもんだ。
「葉月さんにも心因性の症状が現れているの? そうなの?」
「あの、お母様、まだわからないんです。今後同じようなことが起こらないようにする為に、念のためまずカウンセリングルームに相談しようかと思いまして」
そうなんだ。蓮は病院って言ったけど、それはきっと強い思い込みが引き起こした発言。蓮は既にあたしを病気にしちまったと思ったんだろう。そこんとこに関してはこの場で言われるまで気付かなかった。迂闊だったな。
「どうして……私に話してくれれば良かったのに……」
「……すみません」
ママさんが言葉を失くしていく。あたしの語尾も萎んだゴム風船みたいになってったんだけど、嫌な汗はじわじわ、じわじわと溢れて止まらない。秋の昼下がりとは思えねぇよ。この空間だけ高温多湿の梅雨真っ只中みたいだ。
兆候があったのに相談しなかった。実際んとこあたしは自覚すらしていなかった訳だけど、それは葉山家と一線置いてると思われても仕方がない。優しいママさんは責任すら感じてしまったかも知れないって思うと、どうしよう、さっぱりといった具合に次の言葉が出てこない。
だけどそんな重苦しい沈黙を破ったのは蓮だった。
「葉月ちゃ……っ、甘えるの、上手くない」
んっ!? と思わず声に出しそうになった。前へ身を乗り出す蓮の横顔は至って真剣だけど、あたしの表情筋は完全に引きつった。
ちら、と横目で向かい側を見るとママさんが目を丸くしてる。
えっと……蓮? それって昨夜あたしが言った言葉だよな? ここで不意に出されると結構~恥ずかしいんだけど。
かぁ~っと顔面に熱が込み上げていくあたしの隣で蓮はパーカーのお腹の部分をしわくちゃになるくらい握ってる。躊躇いを思わせる小さな呻きを漏らしながら。
やがて意を決したように再び顔を上げたとき、アッシュの髪が軽やかに揺れた。
「強い人って、決めつけたら、葉月ちゃ……苦しい。僕が、居場所にならなきゃ」
「蓮、あなた……」
「一緒に居られる方法、探す。それで、今後こそ僕がっ、葉月ちゃんを守る!」
――――!
ぎゅっと力強く手を握られてあたしは瞬きを忘れた。それだけじゃなかった。蓮はもう片方の手で腕にがっちりと絡み付いてしきりにかぶりを振る。
「絶対離れない!!」
「蓮……」
ぼんやりと見入るあたしの隣で。
「もう出ていかない。もうしません。お母さん、ごめんなさい。葉月ちゃん、ごめんなさい……!」
彼の口からこれほど沢山の言葉が出てくるなんてどれくらいぶりなんだろう。少なくともあたしはいま初めて耳にしてる。
縋り付くような体勢をしていたって眼差しはしっかりしてる。涙目でも、震えてても。こんなのだって初めてだ。
そういや結婚前にママさんが言ってたな。蓮は安心しているときほど無口だって、自分に対してはっきり喋るのは遠ざけようとしているからだって、寂しそうな声でさ。
でも、ママさん。
「僕、もっと強くなるから」
これは違くないか……?
「お母さんたちにも、信じてもらえるように……頑張るから、僕が、変われるまで、待っていて、ほしいです」
その場しのぎの言葉には聞こえないよ。逃げの姿勢なんかじゃない。これは……
「葉月ちゃんと一緒に居させて下さい! お願いします……!!」
正真正銘、蓮が取り戻した本来の声だ。
ママさんはきっと驚いた顔をしたままだったと思う。だけど蓮が深々と頭を下げているのを見て自分のすべきことに気付いたんだ。かなりの時間差はあったけど。
「お願いします!!」
手を握ったまま、あたしもおんなじ言葉でおんなじ姿勢をとった。彼だけの懇願じゃない。これはあたしの願いでもあるから。
長い沈黙の中で、普段は気に止めもしなかった秒針の音がコチ、コチ、と鮮明になっていく。
「2人とも顔を上げて」
再びママさんの声が届いてまた薄れていく。
恐る恐る顔を上げると少し困ったような笑みを浮かべたママさん。届いただろうか、伝わっただろうか、緊張が高ぶっていくと共に握り合った手が汗ばんでいく。
「……安心して。2人を引き離そうなんて思ってないわ」
戸惑いが残った表情を見る限り、実際のところはわからないなと思った。それでも今は受け止めようとしてくれている。それだけでも十分ありがたくておのずと唇が震え出した。
隣から聞こえる長いため息はもちろん蓮のものだった。緊張から解き放たれたんだろう、そう思っていた矢先。
「…………っ」
『蓮!?』
突然ストーンと、あたしの膝の上に彼が倒れ込んできたもんだから仰天だ。さすがのママさんも素早く立ち上がりこっち側へ回り込んでくる。一体何が起きた!?
二人で背中を軽く叩き何度も呼びかけると、やがて顔を伏せたままの蓮がこくりと頷いた。倒れたんじゃなくてしがみついたのか。びっくりさせんなよ……そんな風に今度はこっちが安堵のため息をつく番だった。
そしてため息の後には苦笑が零れてきちまう。たぶん今、あたしの膝びしょ濡れだぜ。参ったな。
「大丈夫、大丈夫よ、蓮」
子守唄を聴かせるみたいにママさんが囁く。ぴく、ぴくと、時折上下する背中を優しくさすりながら。
「……葉っぱ、2つ」
「そうね。見つけられて良かったわね」
くぐもった声の合言葉を耳にしてあたしの目からだばだば涙が溢れた。ほんと全力で泣かせに来るよな、この親子はよぉ。
それからあたしたちは少しぬるくなっちまった水饅頭を食べた。緑茶も余裕でがぶ飲みできるくらい冷めてるけど、適温でなくたってどっちも美味かった。
あたしたちが昨日話し合ったことも少しずつママさんへ伝えていった。穏やかな相槌を挟みながら一通りを聞いてくれたママさんはコト、と静かに湯呑みを置いてから切り出す。1つの提案だった。
「私の友人に市役所の障害者福祉課に勤めている人がいてね、最後に話したのはずっと前なのだけど、そのとき“就労移行支援”の話題が出たのよ。事業所のキャリアコンサルタントさんや就労移行支援センターの職員さんが間に入って、その人に適した仕事を見つけられるようサポートしてくれるの。市役所の人に相談すれば詳しい案内が聞けるわ」
正直あたしは知らない内容だった。どうもこれは精神障害福祉手帳を交付される際に説明を受けることが多いんらしいんだけど、ポカンとしている蓮の様子を見る限り覚えてはいなかったんだろうな。
「私もいけなかったのよ。蓮が障害者手帳を受け取ったときはまだ学生だったし、卒業後もすぐに仕事をするのは難しいかも知れないとお医者様に言われていたからその内容を詳しく聞かなかった。そうしているうちに蓮が家を出て行って、私は忙しさにかまけてしっかり考える機会も失くしてしまった。今2人の話を聞いていて思い出したのよ。こんなに遅くなってしまってごめんなさい」
「いえ、お母様そんな……」
「蓮はバランスの崩れた今の生活リズムを整えたいと思っているのよね? 出来るだけ健康な状態になって、葉月さんともこれからいろんな場所へ行ったりいろんな経験をしてみたいって」
「……はい」
情報の多さにしばらくは混乱していたのかも知れない。だけど蓮は遅れながらも力強く頷いた。
「蓮、今の仕事を離れて一旦就労移行支援を受けてみるのはどうかしら? ただ物事にはなんでもメリットとデメリットがあるわ。蓮が転職するとしたら次の仕事が見つかるまで葉月さんに負担がかかることになる。配偶者の収入も一緒に換算されるから利用料が発生するパターンもあるの」
蓮が不安げに眉を寄せてくるっとこちらを向いた。まぁまだ聞き始めたばかりだ、そんなすぐに結論出さねぇから安心しろと伝えるべく彼の手を優しく握る。
「だけどプロがサポートしてくれることで向き不向きの判断がしやすくなるし、安定した就職が出来る可能性が高くなるわ。障害者枠で働く前提の人も沢山いる。それだけじゃなくて定期的にセンターへ通所することで生活のリズムが整っていくことも期待できると思うの」
なるほど、こっちがメリットというやつか。確かに夜眠れない苦痛と昼に活動できないやるせなさでどんどん自信を失くしていってる現状に打破するには有効な手段に思えるな。
「仕事とお金のことがかかっているから急いで決めることはないと思うの。だけど選択肢の1つとして考えてみるのはどうかしら……?」
ママさんも心配なんだろうな、笑顔を作りながらもあたしたちの顔を交互に見てる。
テーブルの下できゅっと手に一瞬の圧力がかかった。いつの間にかうつむいちまってる蓮の顔をそっと覗き込んだ。
「はっ、葉月ちゃんに、迷惑が……っ」
細い声。うん、それを気にしてるんだとは思ってたよ。あたしはついくすっと声を漏らして笑った。
「迷惑なもんか」
自然と吸い寄せられるようにして彼の背中を撫でていた。
「そんなこと言ったらあたしだってお前に沢山迷惑かけてんだろ。それにな、蓮。今あたしにかかる迷惑よりも今後長く安定して生活していける方法を探した方がよっぽどいいと思うんだけど、どうだ? あたしはお前の望みが叶ったらすっげぇ嬉しい。だってあたしの望みでもあるんだからよ」
「葉月ちゃん……」
「頑張るってさっきも言ってたけど、お前らしく伸び伸びと生きる為にもお前はむしろもっと楽をすることを覚えた方がいいんじゃねぇか? あたしも段々わかってきた感じがするんだけどよ、楽をするのってすっげぇ効率的なんだぜ。なんも悪いことじゃねぇ。大丈夫だ。あまり気張るな。お前は十分真面目だって知ってる」
秋なのに。ふわりと新緑の香りが舞い込んだ気がした。それは彼を胸に受け入れた瞬間だ。
「お前はもう十分頑張ってるんだからよ」
触り心地の良い髪を撫でてそっと瞳を閉じた。こく、こく、と頷くのがわかって安堵する。
「!!」
そしてはっと我に返った。
「すっ、すみません!! あたし、つい……!」
あぁ~~っ!! またやっちまった! ママさんの目の前だってのにこんなこと。しかも元ヤン口調全開になってなかったか!?
熱も汗も引かない中で恐る恐る様子を伺うと、目に飛び込んだ表情に魅入った。
「葉月さん、ありがとう」
いつだって穏やかな心と芯の強さを併せ持った淑女だと思っていた。その人が今は少女にようにさえ見える。あどけなくて繊細で多感な少女そのものに。
言葉にならない言葉が幾つもこの身に降り注ぐ感覚の中で……
「ありがとう」
もう一度繰り返されたその言葉が心の芯まで響いた。
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