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第3章/新婚時代はこんなんで
2.いろんな夫婦の形
しおりを挟む間に合いはしたけど出勤はちょっとギリギリになっちまった。
社内の自販機で購入したペットボトル茶で喉を潤して一息。持ち場に就こうとしたときだった。
「茅ヶ崎さぁん、おはようございますぅ」
「おはよう、姫島」
歌うように声をかけてきたその子は、今日もあたしの傍に小走りで寄ってくる。マスカラをバッチリきめたくりくりの目を輝かせ、ほんのり頰を染めているのもちらりと見えた。
「あのぅ、茅ヶ崎さん結婚してから有給も取ってないみたいですけど、新婚旅行とか行かないんですかぁ?」
今年新卒で入社した姫島は、どういう訳かあたしに懐いてるっぽいんだ。
ちらっと聞いた話だとクォーターらしくて瞳は淡褐色、いわゆるヘーゼルだ。つやつやした栗色の髪はさすがに染めてるかも知れねぇけど、確かに大多数の日本人と比べると脚が長い。
で、口調が独特。皐月の喋り方をもうちょい早口にした感じだ。顔のつくり自体は違うんだけどなんか重なっちまうっつーか、ふわふわした雰囲気まで皐月そっくりで、あたしにとってもほっとけない存在になりつつある。
「あ、ああ。旅行は落ち着いたらそのうち、な」
「そうですか……」
姫島は小さく呟いた。あたしの返答にはどうも納得がいってないらしい。うつむき加減になってハズレくじ引いたみたいな顔してる。ってかなんでコイツがこんなにしょげるのか謎なんだが。
昨日は「結婚式はいつするんですか?」ってな質問だったんだけどな、あたしは同じような返し方しか出来なかったんだ。
だけどもうわかるぞ。姫島はぼーっとしてるようで勘は鋭い。な~んか感じ取ってるんだろうな、かわされてるって。
「もし私たちに遠慮してるなら全然気にしなくて大丈夫ですからねっ! 日本人は働きすぎなんですよぉ。茅ヶ崎さんは旦那さんと思い出いっぱい作って下さい!」
今度はフンスと鼻息荒く、ふっくらとした胸の前に拳まで作って身を乗り出す。こういうのも悪気ないんだろうけどな……。
「茅ヶ崎さん、旦那さんと出会ってから一年で結婚したっていうじゃないですかぁ。しかも年下とかすっごい意外。憧れなんですよぉ、なんかドラマチックで!」
苦笑いが表に出ないようにあたしは気を付けた。あまり美化されるってのも正直困ったもんだ。
姫島みたいな二十代前半の若い女からしたらドラマチックに映るのかも知れねぇけど、アラサーにしては随分と無計画な恋だったぞ? まぁ、どんな形であれ、あたしは蓮を選んだような気がする……って、やべ。姫島のロマンチック妄想がうつってきた。そろそろ切り替えねぇと。
「はいはい。あたしのことはいいから、姫島も仕事に向かった向かった!」
「はぁ~い。じゃあ、お昼ご飯は一緒に食べましょう?」
「うんうん、今日の社食のイチオシメニューは確かカツカレーだったね。茅ヶ崎先輩が美味しい恋愛話を沢山聞かせてくれるってよ。いや~、これはお腹いっぱいになるねぇ」
「……おい、何ナチュラルに混じってきてんだ、坂口」
いつの間にか坂口とはすっかりタメ語になってる。最初はすっげぇ鬱陶しかったはずなのに笑えるな。
あたし案外押しに弱いのかも知れねぇって自分が心配になってくるよ。
あたしは職場のみんなに隠してることがある。
いや、正確に言うと直属の上司から上の人は知っていることなんだけど(あと坂口な)夫が発達障害と精神疾患を患い在宅ワークをしてるってことはみんなに話してないんだ。
もちろん理由はある。
知られてるとあたしがなんだかやりづらいっつーか、あまり同情の目で見られたくないんだよ。障害って言うとどうしても重く受け止められそうな気がしてさ。
今度新たに立ち上がるプロジェクトは、如何にも根気が要りそうな長期に渡る研究だ。あたしはそのチームに入る上リーダーを任されることになった。チームのみんなに指示を出す役割はもちろん、製品のマーケティング担当であるプロジェクトマネージャーともしっかり連帯していかなきゃならない。
そんなときだからこそ、みんなには今までと変わらない目であたしを見ていてほしいんだ。私情は持ち込みたくない。夫の為に仕方なく上を目指してるとか誤解されたくねぇ。女がバリバリ働くのも自然な世であってほしいし、あたしが好きでやってることでもあるんだから。その上で成功したい。妙なプライドかも知れないけどあたしは譲れなかった。
だけど姫島みたいな子に出会って、早速難しさを感じ始めてるってのが正直なところで……
身体が弱っちまってる蓮はすぐに旅行なんて行けない。人が多い環境が苦手だったり音に過敏とあっては結婚式も難しいだろう。
今後も絶対に無理とは限らねぇよ? 体調が安定してきたら近場から出かけてみるのもいいだろうし、親戚だけで式を挙げるって手もある。でもあたしらからしたら、今急いでやることではないんだ。
でも姫島の言葉が蘇る。
――もし私たちに遠慮してるなら全然気にしなくて大丈夫ですからねっ! 日本人は働きすぎなんですよぉ。茅ヶ崎さんは旦那さんと思い出いっぱい作って下さい!――
不自然に見えるんだろうな。いくら年下の旦那だからって、未成年じゃあるまいしって思うんだろう。もうすぐ三十一歳になる女、それも新卒からずっと正社員で働いてきた女だったらそれなりに蓄えもある。なのに何故旅行の計画の一つも立てないんだって。行きたいと思わないのかって。
行きたいよ。
蓮と作りたい思い出がいっぱいある。一緒に見てみたい景色がいっぱいある。
でもそれ以上に蓮の心と身体が大切なんだ。
これが覚悟を決めて社会に赴かなくちゃならない理由だ。
こういうのを全て、他人に理解してもらうってのは限りなく不可能だろうからな。
あたしだけが知っていればいいことだ。あたしが誰よりも理解していれば。
……そうだろ、蓮。
――茅ヶ崎くん。
ちょうどサンプル前処理を終えたところで、直属の上司・川上主任に声をかけられた。
垂れ気味の優しい目がトレードマーク。どっから見てもジェントルマンなこの人が、あたしの家庭の事情を一番よく知ってくれている。仕事を続けていく上で必要な情報を伝えたっていう、坂口とはまた違った形でだ。
「この頃ますます頼もしい表情になったね。今度の長期プロジェクトもきっと成功する。困ったことがあったらなんでも相談しなさい。全力でサポートするからね」
こう言ってくれるんだけど、あたしの中はなかなかの緊張感でいっぱいだ。
ありがとうございます、頑張ります、今はそう返すのが精一杯だったんだけど、この人もまた洞察力の優れた人のような気がするんだよな。不安とか見抜かれてそうでちょっと怖ぇよ。
でもいい上司なのは間違いないし、期待に応えたいし、この機会にしっかり自信を身に付けていかねーと!
気合いを入れ直したところで昼メシの時間になった。
最近考え事ばかりしてるせいか時間の経過が早く感じるな。
帰り道。会社の最寄駅のホームで、前に蓮が零した独り言のような言葉が蘇った。
――時間が足りない――
寂しそうに。そんなことを言ってたんだ。
精神科の先生も言ってた。蓮はほとんど喋らないけど、その頭の中は常に考え事でいっぱいなんだって。
頭の中の情報を処理しようとしているうちに時間が過ぎる。下手すると悩みすぎて体調を崩し、何も出来ないまま一日が終わる。道行く人の歩く速ささえ、車が駆け抜けるようなスピードに感じられるときがあって気が休まらないって……
あたしもわからない訳じゃないけどよ。あっても一時的なモンだ。アイツの場合はほぼ毎日なんだって思うとやるせないよ。アイツは見た目以上に大急ぎで生きてる。だから安らげる時間をあたしは作ってやりたい。作らなきゃならないんだ。
「蓮。今から帰るからな。メシは作れそうか?」
そろそろ電車が来るなって頃にあたしは電話をかけた。帰る前は必ずこうしてるんだ。こっちの動きを伝えておくと安心して動けるらしいから。
『葉月、ちゃ……ごめ、なさい』
「ああ、気にするな。帰りに何か買ってくよ。何が食いたい?」
弱々しい声色で大体察した。
在宅ワーク兼主夫を担当している蓮だけど、今朝あんなことがあったんだ。多分思うように動けないって想定も出来てた。
電車に乗り、自宅近くのスーパーに寄ることにした。
ちょうど値下がってた生姜焼き弁当はあたし用。蓮には野菜タンメンだ。ちゃっかり晩酌用のビールも二本調達して帰路を辿る。
仕事終わりなのに大変そうだろ? うん、大変だよ。
だけどな、マンションが近付く頃にはあたしの足取りは随分軽いものになってんだ。
だってアイツが待っててくれる。
チャイムを鳴らすとパタパタ駆け寄ってくる小動物みたいな足音に胸がくすぐられる。
「葉月ちゃ……お帰りなさい」
「ただいま、蓮。金魚の墓はちゃんと作れたか?」
「ん……プランターに、作った」
「そうか。埋めてやれて良かったな」
まだ玄関の戸を閉めてないのに早々に腰に巻き付いてくる。子どもみたいにぐすっと鼻を啜りながらあたしに頰をすり寄せる。
「ごめんなさ……」
「いいんだ、もう謝るな。美味そうなタンメン買ってきたぞ。一緒に食おう!」
「ん……!」
甘い妻かも知れない。でも健気で可愛いコイツを守ってやれれば、誰に後ろ指されようとあたしは幸せなんだ。
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